『それはガウチの素朴な疑問から』 管理人側視点
イントロが流れると同時に、三人は申し合わせたように目を閉じた。
「ちぎれたあの雲、見るたびにおもうよ。きみとぼくと摘んだ、小さなスミレの花」
歌が始まると、それぞれ違う反応をみせた。
曲に合わせるように、ゆるやかに体を揺らしはじめたのはカモシン。ベッキーは歌詞をなぞるように唇を小さく動かし、ガウチは金縛りにあったように身を固くして、ユーチューブから流れる歌声に聴きいっていた。
最初は、このまま三人の様子をうかがうつもりでいた僕だったが、彼女らにならって、目を閉じることにした。
理由は、ふたつ。
誰かが目を開けた場合、視線が合う。そうなると僕だけでなく、相手にも気恥ずかしい思いが生じる。
この曲をじっくり聴くことによって、記憶の壁の向こうにあるはずの祖母の顔を思い出すかもしれない。そんな思いが湧いてきたからだ。
でも、僕の記憶から消え去った祖母の顔が浮かんでくることはなかった。しかし、収獲がなかったわけではない。
祖母が口ずさんでいたのは「雲に向かい叫ぶ、きみだけが好きだよと」という曲の最後の部分だけだった、という小さな発見はあった。
曲がフェイドアウトしはじめたとき目を開けた僕は、ユーチューブの再生モードをループに切り換えて、彼女らの反応を待った。でも、誰も目を開けなかった。カモシンは相変わらず体を揺らし、ベッキーは唇を動かし、ガウチは固まったままだった。
二回目のイントロがはじまったとき、僕の視界に飛び込んできたものがあった。
(1963)
曲名の横に添えられていた数字だ。
常識的に考えると、これは、ちぎれ雲の発売年度。
計算問題が苦手な僕にも簡単な暗算ぐらいはできる。
ちぎれ雲は、今から五十数年前に生まれた曲。
だとすると……。
僕の視線は当然のように目の前の三人に注がれた。
そのころ、何歳だったのだろう。どこで何をしていたのだろう。いま三人の脳裏に映しだされている情景は、どのようなものなのだろう。
カモシンが目を開けたのは、二回目の再生がおわろうとしたときだった。
目が合うのを避けた僕は、パソコン画面に視線を戻すと、停止ボタンをクリックした。
だがすぐに声が追いかけてきた。
「はい、これ」
意味不明の言葉だったが、僕に向けられたものに違いない。
「はい、なんでしょう」
と顔を上げてみると、カモシンの視線の先にあったのはガウチ。ガウチは、カモシンが差し出したティッシュを受け取ると、そのまま顔に当てた。
「初めてじゃないかしら、あなたの涙」
緑茶をすすりながらそう言うカモシンに、ガウチは冗談ぽい声で応じた。
「鬼の目にも涙って言いたいわけね」
テッシュで鼻を押さえているガウチの目には、まだ涙が光っていた。
「結局、あれね」ベッキーが横から口を挟んだ。「ジュウリラさんが伝えたかったのは、最後の部分だったってことよね」
「さあね、どうだったのかしら。いずれにしろ、気づいたのは五十年以上経ってから。それに肝心の相手は、もうこの世にいない」
遠くを見る目で返したガウチのあとに、カモシンがつづけた。
「私たちの時代に、その手の告白を考えついた人がいたなんて、信じられないわね」
その日三本目のコーラを飲みながら、断片的な会話を聞いていた僕に想像できたのは、ほんの少しだけだった。
雲に向かい叫ぶ、君だけが好きだよと、でおわるちぎれ雲という曲は、ガウチにとって、甘酸っぱい思い出がぎっしり詰まった宝物。
その程度のことしかわからない僕に代わって、というわけではないだろうが、ベッキーが単刀直入に訊いた。
「どんな状況だったの? そのとき」
しばらくの沈黙のあと、ガウチはクスッと笑った。
「高校三年の二学期。放課後の裏庭で花壇の手入れをしていたとき、いきなり声をかけられたの。びっくりして振り向くと、春の県大会で準優勝した柔道部の主将が、顔を真っ赤にしてうつむいていたわ。でも、そのときの私、彼のあだ名さえ知らなかったの」
そこまで笑顔を浮かべていたガウチから、とつぜん表情が消えた。
そのあと、しばらく宙の一点を見つめていたガウチは、視線はそのままで、こんなことを口にした。
「死んだ人の記憶は、どうなるのかしら?」
え?
カモシンとベッキーは、戸惑ったように互いに顔を見合わせた。
「それって、ジュウリラさんの頭の中にあった記憶ってことなの?」
カモシンが確かめるように訊ねると、ガウチはそれには答えず、独り言のようにつぶやいた。
「この世を去る瞬間、人はどのようなことを思うのかしら……」
その件について会話に加わっていない僕は、胃の中に冷たいコーラを流し込むだけの傍観者でしかなかった。
しかし、そのあと僕に向けられた質問から、話は僕を中心に回り始めた。
「お訊きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか……」
遠慮がちなベッキーの声に、僕の頭に浮かんできたセリフがあった。
申し訳ございませんが、ガウチの話を聞いていただけないでしょうか。
絶対そうだと思った。話の流れから、それ以外に考えられなかった。
いいですよ。何時間でもけっこうです。延長料金はいただきません。
急いでそんな返事を用意したわけだが、それは使えなかった。
「どのような経緯を経て、聞き屋ビジネスを思いつかれたのですか?」
それに関する明確な答をもたない僕には、ありのままを話すしかなかった。
「思いつきです」
言いながら 僕の横に置いてある風呂敷包みを意識した。このあとの話次第では、このまま席を立とう。そしてそのあとに、こう言おう。
その風呂敷包は置いていきます。ごちそうさまでした。期待に添えなくてすみませんでした。
でもそのセリフも使うことはなかった。
「聞き屋を思いついた理由を考えたことはありますか?」
はあ?
思わず間の抜けた声を発した僕を見つめながらベッキーはつづけた。
「あなたが我々の前に現れた理由が、なんとなく、わかるような気がしてきました」
自信なさそうに言ったが、その目は確信に満ちあふれていた。