ふと浮かんだ昔のワンシーン
とんとんとんとん、
小気味よい包丁のリズムで、目が覚めた。
僕は毛布をずらして、顔だけ上げた。
ひんやりとした朝の空気の中、香ばしい味噌汁のにおいが漂っている。
台所の窓から差し込む光の中に、シルエットとして浮かんでいるカロンが、前を向いたまま言った。
「おはよ」
どうやら僕の姿が、出窓に置いた鏡に映っているらしい。
声の感じでは機嫌は良さそうだ。しかしそれだけで、カロンの精神状態を判断するわけにいかない。
「よいしょっと」
わざと大きな声でそう言ってベッドをおりた僕は、おそるおそるカロンに近づいた。そして、いつでも身をかわせる位置から声をかけた。
「朝早くから大変だね」
「そんなことないわ、あなたが遅いだけ」
振り向いた笑顔にほっとしたが、そのあとのセリフに、ドキッとした。
「ずいぶん寝汗をかいたみたいね。悪い夢でも見てたんじゃないの?」
自分では一睡もしなかったと思っていたが、知らないうちに寝ていたとすれば、ヤバい。
「寝ているときに、何か言っていなかった?」
びくつきながらきくと、カロンは、ウフフと笑った。
「言ったかもしれないけど、覚えていない。だってわたし、あなたに抱かれたまま朝までぐっすり眠っていたんだもん。そのおかげでほら、身も心もすっきりさわやか」
そこで言葉を切った彼女は。僕の顔を覗きこむようにして続けた。
「あら、どうしたの、その顔」
睡眠不足のとき、僕はそれがてきめんに現れる。
風呂場の鏡に映る自分の顔に、げんなりした。
充血した腫れぼったい目。落ち窪んだ頬。下あごのあたりに、まばらに生えた無精ヒゲ。頭の中も、似たようなものだ。
こんなとき僕は、いつもより多めのトニックシャンプーで頭を洗うことにしている。そうすることで、頭の中も外も、シャキーンとしてくるような気がするからだ。
頭を洗いながら、考えてみた。
あの話がでまかせだったことを、いつ、どのタイミングで切り出せば、カロンの怒りを最小限に食い止めることができるのだろう。
しかし、元々僕に思考力は無い。そこに寝不足まで加わったとなると、解決策なんていうものが浮かんでくるはずもない。
こうなればしかたがない。あとは流れに任そう。
この時間に窓硝子が割れた音に気づく人は、たぶんいない。仮に気づいたとしても通報なんてことはしないだろう。
そんな結論に達したとき、唐突に僕の脳裏に蘇ってきたものがあった。
中学の授業中、女教師と目が合ったときのシーンだ。
「後悔先に立たず。これは実社会でも良く使われます。テストにでるでないは別にして、覚えておくように」
授業中、いつも別のことを考えている僕が、何気なく顔を上げたのは、そのことわざは、幾度となく聞かされていたものだったからだ。
ところが、顔を上げた僕はちょっとびっくりした。
視線の先にあったのは、国語教師の目だったからだ。
相手がその教師でなければ、目が合った瞬間に視線を逸らせていたと思う。
しかしその教師は、生徒のあいだでダントツの人気を誇る美人教師。
僕の視線はその目に吸い寄せられたように、ぴくとも動かなかった。
一方の教師はというと、無表情のまま僕を指差して「はい、あなた」と言った。
ククク、
だれかが小さく笑うと、つられたように、何人かの男子生徒が笑いをこらえながら口を押さえた。
もちろん笑いの相手は、僕ではない。女教師だ。
おいおい、なに考えているの? こいつに当てちゃだめでしょ。答えられるわけがないんだから。無視されるだけだよ。ヘタすると、教室を飛び出しちゃうよ。
たぶん、そんなことを無言で忠告していたのだろう。
僕達のクラスの男子生徒は、とても仲がよかった。
一学期のはじめに、僕はちょっとした勘違いをして、授業中に教室を飛び出したことがある。しかし、それは大した問題にならなかった。男子生徒が団結して、僕を庇ってくれたからだ。
「これには、どのような意味があると思いますか?」
と、教師が言ったとき、教室のなかに、妙な空気が流れた。それを言葉にすると、こうなる。
また、もみ消してやるから、もう一度、あれをやれよ。
しかし、今日それをやると、間違いなく前回の分まで蒸し返される。
中学に退学はない。しかし、それと同様の扱いを受けるのは明白。クラスの連中をちょこっと喜ばせるために、そんなバカなことはしたくない。
「わかりません」
それだけ言って終わりにしようかと思った時、面白いことが浮かんできた。
せっかく巡ってきたチャンス。この際、男子生徒の期待を裏切ってやろう。
その頃の僕は、人の逆を行くことに、ある種の快感を覚えていたのだ。