『僕の空耳に対する意外な反応』 管理人側視点
その声がしたのは、中指の腹でエンターキーを押そうとしたときだった。
『しばし待たれよ』
いきなりだったが、冷静に受け止めることができた。たぶんそれは、昨日と同じ声だったからだろう。
僕としては、ほんの一瞬手を浮かしたつもりだった。
しかし気がついたとき、キーボードから手を離した状態で、姿勢を正して正面を見つめていた。それとなぜだかわからないが、頭の芯が、ぼーっとしていた。
「いかがなされたのですか?」
振り向くと、目の前にカモシンの顔があった。ふしぎなものでもみるような目をして僕を見つめていたが、彼女に戸惑いのようなものはなさそうだった。
霞がかかったような頭で、自分の置かれている状況について考えてみた。
僕の脳から、数秒分の記憶が消えているのは間違いなさそうだ。厳密に言えば、二秒か三秒のあいだ気を失っていた。
しかしカモシンは、そのことに気づいていない。僕が何かの理由で検索を中止したと思っている。
ということは、あの声は僕にしか聞こえなかったということになる。
推測できたのはそれぐらいだったが、いずれにしろ僕にとって、空耳の件はありがたかった。
前金で料金を受け取った以上、最低三時間はここにいなければならないからだ。
しかし僕は、他人に聞かせるような面白い話は持ち合わせていない。となると、どんな些細なネタであったとしても、おろそかにすることはできないわけだ。
これを活かそう。空耳の話題で、十分程度の時間ならつぶせるかもしれない。
そう思った僕は、さきほどと同じ位置に椅子をずらした。
「あのですね」
と言ったものの、相手に聞こえていないものを、どう説明すればいいのかわからなかった。
でもすぐに解決法をみつけた。話の脈絡なんてどうでもいい。そんな約束だった。
「空耳って、知っていますか?」
思ったままを口にすると、カモシンは少し眉をひそめた。
「空耳ですか……」
空耳とネット検索が、どこでどう繋がっているのか考えようとしたようだったが、どうやっても、その二つを結びつけることはできなかったらしく、十数秒後に小さな声で
「ことばだけでしたなら……」
とだけ答えると、そのまま口を噤んだ。
「実を言うと、いま聞こえたんです。僕の耳には、はっきりと」
三人の顔に緊張が走ったのがわかった。
「どんな声かというとですね」そのあと、ちょっとおどけたようにつづけた。「扁桃腺が腫れたウシガエル。そんな感じといえば、わかってもらえますかね」
ウケを狙ったわけではなかった。すこしでも場の雰囲気が和めばいい。そんな気持ちで扁桃腺とウシガエルを使った。しかし、逆の結果がでてしまった。
三人の顔から表情が消えたのだ。
と言っても、僕の言動を気味悪がっているとか、中身に失望したようには見えなかった。なにか他のことを期待するような、そんな熱いまなざしに変わったのだ。
しかし僕の口から、あとの言葉は出てこなかった。
空耳と言う言葉が、老人ぼけと繋がるような気がしたからだ。
僕の目の前にいるのは、三人の高齢者。この場において、空耳は、いわゆる放送禁止用語に相当するのかも知れない。
僕が黙っていると、カモシンが恐る恐ると言った感じで、
「具体的に教えていただけませんでしょうか。空耳の声が、どのようなものだったのかを」
と言ってきたが、その声に怒りのようなものは含まれていなかった。
ホッとしたとともに、僕はふかく反省した。
どうやら僕のヘタな例え話が、彼女らに変な期待を抱かせてしまったらしい。
アニメ番組に出てくる仙人みたいな声。そう言えばよかった。
もしくはあの声を無視して、エンターキーを押せばよかった。
でも、今さら言ってもはじまらない。
僕は気持ちを落ち着かせるために、ひとつ深呼吸をした。
「残念ながら、みなさんを満足させられるようなものじゃなかったんです。つまらない言葉でした。ほんとにほんとなんです」
期待のハードルを下げるつもりでそう言ったのだが、熱い視線は変わらなかった。
「がっかりしても責任は持ちませんからね」僕はそこでひとつ肩をすくめて見せた。「しばし待たれよでした。すみません」
僕が頭を下げるよりはやく、三人の身体が、ビクンと揺れた。
電気に打たれたように。そんな言葉があるが、まさにそれだった。
彼女らが、水の入ったグラスを持っていたとしたら、間違いなく、部屋中に水をまき散らしていた。
特に反応が大きかったのが、ガウチ。
僕が手を差し伸べなければ、椅子から転げ落ちていた。
最初は、三人が身体を張った冗談で応えてくれたのかと思った。
しかし彼女らの目は、笑ってはいなかった。
「いったい、どうしたんですか? みなさん」
声をかけてみたが、だれも答えてくれなかった。というより、しゃべろうにも声が出てこないという感じにしか見えなかった。




