【45話】 『ベッキーの提案』 管理人側視点
「実を言うと、祖母のことはもちろん、母親のこともよく覚えていないんです」
僕としてはごく普通の声で言ったつもりだった。だが、ガウチの目が一瞬泳いだ。そしてそれと同時に、息を吞むふたりの気配が、僕の右側から伝わってきた。
どうやら僕の言い方に問題があったようだ。
たぶん彼女らは、こんなふうに受け取ったのだろう。
僕の祖母と母親は、幼い僕をひとり残したまま、あの世に旅立った。だからこの僕の記憶の中に、そのふたりの姿はない。
ま、その可能性がないわけではないが、ここであの話を切り出さなければ、話は先に進まない。
僕は笑顔を作ってから、固まったような表情になっている三人を交互に見回した。
「どうやら僕は、記憶消失にかかっているようなんです」
一瞬の間があって、ガウチが僕の左肩をがしっと掴んだ。
「記憶喪失ですって?」それから僕の顔を覗きこむようにして、肩を強く揺すった。
「だれが言ったの。そんないい加減な話を」
ガウチは記憶喪失ということばによっぽど驚いたらしい。自分のしゃべりが友達口調に変わっていることに気づいていないようだった。
「ねぇねぇねぇ、その話ホントなの?」
彼女らのバカ丁寧な言葉づかいに、必要以上の距離感を覚えていた僕にとって、そのしゃべりはありがたかったから、気づかないるふりをすることにした。
「ええ。もちろん」
笑顔のままで答えると、ガウチは僕から手を離した。そして小首を傾げて僕を眺めた。「とても、そんなふうには見えないけど……」
「でも本当なんです」と言いながら典型的な記憶喪失者の顔つきを想像してみたが、何も浮かんで来なかった。
「いつからなの? その記憶喪失というのは」
疑っているというより、確認のためのようだった。
「あのですね」と言ったところで、口を開くたびに交互に左右を見るのが面倒くさくなった。僕の左にガウチ。右にカモシンとベッキー。そんな配置だった。
そこで僕は、椅子を一メートルほど後ろにずらして、心配そうな顔で僕を見つめる三人と向き合った。
「二年くらい前です」
「二年……」
ガウチだけが何か考えるような目で天井を見上げた。そしてしばらくしてから僕に視線を戻した。
「その頃、なにが起きたの?」
興味本位ではなさそうだった。その頃僕が交通事故を起こしたか、何かの事件に巻き込まれたとでも思っているのだろう。記憶喪失は、頭を強打したのが原因。たぶん、そんなところだ。ひょっとすると、知人のだれかに、僕と似た症状の人間がいるのかもしれない。かりにそうだとしたら、彼女を失望させるだけになる。
僕は答える前に、予告代わりに首を振った。
「残念ながら、なぜ、こうなったのかはわからないんです」
「つまり、専門家でも、原因が掴めないということなのね」
ガウチは力のない声で言った。
僕はちょっと間を置いてから答えた。
「病院で診てもらったわけではありません。自己診断です」
「どうして?」ガウチはびっくりしたように腰を浮かした。それから叱りつけるような声で言った。「鼻風邪をひいたとか、突き指をしたとか、そんなものじゃないのよ」
たしかにそうかもしれない。立場が逆だったら、僕でもそう言う。
「別になにも不自由していないからです」ガウチが真顔だったので、僕は笑みを浮かべてからつづけた。
「昔の記憶がなくても、大抵の料理はつくれますし、こうやってみなさんと会話することもできますから」
僕が納得していれば、自分が口を挟むべきことではないと悟ったのか、ガウチは深いため息をついたあと、腕組みをして僕を見据えた。
「でもどうして、記憶を失ったのが二年前だとわかったの?」
良い質問だった。彼女が身を入れて僕の話を聞いている証拠でもあった。
「意識が戻ったのが、この街の駅の構内だったからです。もしあのとき、すぐに気がついて駅員さんに―」
と言ったところで、僕は自分の役目を思い出した。
「ちょっと待ってくださいね」話の途中で椅子からおりた僕は、ノートパソコンの横で時を刻むストップウォッチに手を伸ばした。
「僕がしゃべっている間は、これを止めます」
するとそれまで黙っていたカモシンが、口を開いた。
「そのようなこころ遣いはご無用です。自由にお話しください。私どもとしては、ちぎれ雲さんの話をお伺いしたいのですから」
意味がわからなかった。だって僕は聞き屋なのだ。相手の話をきいて料金を頂くのが僕の商売。
「僕の話を、ですか?」
「はい、さようです」
カモシンが小さくうなずくと、あとの二人も同意の表情を浮かべた。
しかし人の心は移ろいやすい。あとになって、どうのこうのと言われたくない。
「本当に、何も知らないんです。思いつきでも何でもいいんですか?」
わざと投げやりな口調で言ってやった。ひとりぐらいは、ためらいの色を見せるだろうと思ったが、身じろぎひとつしなかった。
「なんでも結構です。どのようなお話でもかまいません。明日の天気でも、ちぎれ雲さんの趣味でもかまいません」
僕の目をしっかり見据えて言うカモシンを見ながら、なるほどそうかと思った。
彼女ら三人は相当な資産家らしい。たぶん世界中のおいしい料理を食べ尽くしたのだろう。
ぜいたくを極めた人々の中には、一転してゲテモノや、B級グルメに走る者がいると聞いたことがある。
彼女らにとって僕は、ゲテモノ料理みたいなものなのだろう。
ね、ね、ほら見て。こんな名刺が入っていたの。一時間三万円の聞き屋って、どんな商売なのかしら。捨て金のつもりで呼んでみましょうよ。つまらない男だったら、すぐに追っ払えばいいでしょ。でも、あとで因縁をつけられるといけないから、敬意を払う振りをして追っ払いましょうね。
今朝方、そのような会話があったのかもしれない。
気持ちが急にかるくなった。
だったらこの機会に話してやろう。おんぼろアパートの管理人になった経緯。僕とカロンとの出会い。ときどき脳裏に現れる祖母とおぼしき人物の話。
どうせ三人は信じない。作り話だと受け取ってもらってもかまわない。話の途中で、時間がきたら、そこで切り上げる。帰りは昨夜の個人タクシーを呼ぼう。それに乗って帰ろう。
そんなことを思いながら、どこから話しはじめようかと思案していると、ベッキーがおそるおそるという感じで、右手をあげた。
「質問してもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
と答た僕の胸がドキッと鳴った。といっても、彼女の声に色気のようなものがあったからではない。どこかで聞いたような声だったからだ。
「ちぎれ雲さんは、自分の記憶を取り戻すつもりはないんですか」
言われてみれば、当たり前のことだが、これまで一度も考えたことは無かった。
「先ほども言ったようにですね」と言ったところで僕はことばを切った。僕を見つめるベッキーの目に、なにかを感じたからだ。
「病院に行かなくても、いいんですよね? 僕注射が苦手なんです」
冗談めかして言うと、ベッキーはにこっと笑った。
「ここで調べることができます。試してみませんか?」
「どうやって?」
するとベッキーは、少し照れたような表情になった。
「実を言いますと、今朝調べてみたんです。ちぎれ雲さんのことを」
「僕の?」
「はい」ベッキーはデスクの上に並んだノートパソコンのひとつに視線を向けた。「ネットを通じてですが……」
それからベッキーは、真剣な表情になった。
「名刺にあった名前は、本名ですか?」
僕はしばらく考えてから答えた。
「たぶん、そうだと思います。不動産屋さんで名前を聞かれたとき、すらすらと出てきたんです」
ベッキーは、他のふたりに視線を移した。
「別人だと思うけど、あの名刺と同じ名前の人がいたの。黙っていていてごめんなさい」
「いいのよ。私だって調べたもの」
ガウチが言うと、カモシンがクスッと笑って「右に同じ」と言った。
「なあんだ、もう」
ベッキーは笑いながらそう言うと、僕に顔を向けた。
「ダメ元で、ということで、検索してみてください」
「ああ、もちろんです」
僕はさきほど開いたノートパソコンの前に、椅子を持っていった。
「南まさき」
僕は口の中でそうつぶやきながら、キーボードを叩いた




