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『ガウチの頭の中で聞こえた音』 バーシュウレイン視点

「どうかしたの?」

 その声にベッキーは、我に返ったような顔をカモシンに向けた。

「ほら、あそこ。お石様のポスト」

 ベッキーの指先に視線を移したカモシンは、まぶしさに思わず目を細めた。それは、その直後に顔をのぞかせたガウチも同じだった。

 あ、ほんとだ。光ってる。

 ガウチがそう言おうとしたとき、集合ポストの一番高い位置にある発光物体に近づいたカモシンが、落ちついた声で言った。

「なあんだ、名刺じゃない」

 それを聞いたベッキーとガウチの体から、力が抜け落ちるのが、はっきりとみえた。

 ポストに三分の一ほど入った状態の紙片は、名刺に間違いなかった。

「でも、だれがいつ入れたのかしら?」

 カモシンはあたりをぐるりと見回した。

 このマンションの場合、ポストに何かが入ると、それを知らせる緑色の小さなランプが、各部屋の三カ所で点灯するシステムになっている。しかし、昨日はほとんど丸一日。今朝も、今の今までお石様の部屋にいたが、インターホンに緑の灯りは点いていなかった。

「知らない間に、故障していたみたいね。誰が来ても開くんじゃないの。このドア」

 そう言いながらカモシンは、玄関の入り口に体をぶつけるようにしたが、自動ドアはぴくりとも動かなかった。

「ということは、ランプだけの故障なのかしら」

 ちょっと一安心といった顔で名刺を取りだしたカモシンは、しばらくそれを眺めていたが、やがてにっこり笑うと、ガウチに顔を向けた。

「この名刺、あなたのお友達からみたいよ」

「私の?」

 ガウチは怪訝そうな表情を浮かべたが、カモシンは自信に満ちた声で答えた。

「あなたの部屋がわからなかったのよ。でも、お石様のポストでよかった。もしこれが、他の階のポストに入っていたら、警察に通報されていたかもしれないわね」

 カモシンはそのあと、昨夜の夢に出てきたのは、この人だったでしょ、と言って手渡そうとしたのだが、ちょうどそのとき、新聞配達人がやってきたので、名刺を後ろ手に隠して、

「とにかく部屋に戻りましょ」

 と言った。


先ほどはお石様が祀ってある部屋だったが、こんどは、そのとなりの和室を使うことにした。

 ガウチを上座に座らせたカモシンは、嬉しそうな声で、

「お待たせいたしました。とくとご覧あれ」

 と言うと、名刺をわざと裏返しにして、テーブルの上に置いた。

「ほんとに、私宛てなの?」

 ガウチは何が何だかわからないといった表情で、名刺を眺めた。

 縁取りはギザギザ。いかにも素人が間に合わせに作った感じ。しかしそれ以上のことはわかりそうもなかった。

 じゃあ、こんどは表。

 ガウチは、ベッキーからよく見える位置で、名刺をひっくり返した。

 がっかりした。

 原色を使ったカラー印刷。市販のプリンターを使ったのだろうが、垢抜けない。

 目を引くのは、会社名ではなく、常識を疑う値段設定。私はジョークと受け取るが、カモシンが言ったように、普通の神経の持ち主なら、警察に通報するかもしれない。

 名刺とチラシを兼ねたアイデアは、なんとか納得できたとしても、この価格となると、逆効果しか生まない。一言で言えば、正気の沙汰じゃない。

 と、その程度のことはわかったが、どうしてこれが、自分宛ての名刺なのかはわからなかった。

 しかしここでギブアップするつもりはない。ガウチは名刺を手に取って、つぶやいた。

「聞き屋・ちぎれ雲。聞き屋・ちぎれ雲」

 新しい形態のビジネスには精通しているつもりだったが、聞き屋などというビジネスが存在することは知らなかった。

 カモシンが言いたいのは、このビジネスを研究してみなさいと言うことなのだろうか。

 そんな思い悩むようなガウチの様子をみていたカモシンは焦れったくなって、つい彼女の思考の邪魔をしてしまった。

「自分で言ったことを、もう忘れたの?」

「忘れた?」

 ガウチは最近、忘れるという言葉に異常に反応するようになっていた。その時もそうだった。ガウチは顔を上げて、カモシンを真っ直ぐ見た。

「教えてちょうだい」素直に頭を下げてから訊いた。「何を忘れたのかしら、この私」

 こういったことに対して、人のことを言える立場ではなかったが、カモシンとしては、ガウチ自身に思い出して欲しかった。そこでまず、ヒントを言った。

「昨日言ったわよ。ジュウリラ」

 しかしガウチは「ジュウリラ?」とオウム返しに言って、眉間にしわを寄せただけだった。「なに、それ?」

 話を進めたかったカモシンは、次のヒントを出した。

「ゴリラの二倍ほどひどい顔」

 しばらくの沈黙のあと、ガウチは苦笑いを浮かべた。

「あ、言った言った。覚えている。ジュウリラは、私が振った男の中のひとりだわ。そうそう、ジュウリラだった、あいつのあだ名は」

 次第にはしゃぐような声になっていくガウチに、カモシンはほっとした。

 これは痴呆の始まりではなさそうだ。若い頃でも、こんなことはよくあった。あのころは仕事優先が原因だった。ガウチの中では、第一線を退いた今でもあの状態が続いているのだ。この物忘れは、年齢とはまったく関係なかった。

 しかし、安心したのが早かった。そのあとガウチは、急に真顔になってこんなことを言ったのだ。

「でも、ジュウリラと、この名刺が、どこでどう繋がっているの?」

 カモシンは暗い気持ちになったが、はっきりと告げた。

「そのジュウリラさんが、あなたの前で口ずさんでくれたメロディの題名が、ちぎれ雲だったんじゃなかったの?」

 え?

 ぽかんと口を開けたガウチの顔は、他の二人には、ガウチの思考回路がぷつんと切れたように見えた。しかし、それは、彼女の思考回路が切り替わった瞬間だったのだ。

 ガウチは自分の頭の中で、はっきりと、その音を聞いた。

 パチン。

何かがはじけたような音だった。


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