『騙され覚悟』 管理人視点
その電話がきたのは、チカチカマンションに名刺を投入した翌朝だった。
アパート周りの清掃作業を終えて、一休みしようかと思っていたとき。隣の整備工場のラジオから八時の時報が聞こえた直後だ。
携帯電話が鳴った瞬間、僕の体は電気ショックを受けたみたいに、ビクッと痙攣した。
着信メロディは、ちぎれ雲専用。しかも、液晶画面にあったのは、初めて見る電話番号。
自然と高まる胸の鼓動。おれには先見の明があった。世の中の多くの人が、聴き屋ビジネスの出現を待っていた。
しかし、その考えをすぐに追っ払った。
そんなはずはない。仮にそうだったとしても、一枚目の名刺で電話が来るほど世の中甘くはない。
これは間違い電話。絶対にそう。それ以外に考えられない。喜ぶのは十年早い。
そんなことを思い浮かべながら通話ボタンを押すと、落ち着いた女の人の声が聞こえてきた。
「朝はやくから申し訳ありません。まことに恐れ入りますが、ちぎれ雲様でございましょうか」
間違い電話ではなかった。しかし、喜びの欠片さえ感じなかった。
客にしては、言葉遣いが妙に丁寧だったからだ。
しかも、名刺投入は、昨日。というより、真夜中。夜が明けてから数時間しかたっていない。いくらなんでも、反応が早すぎる。
おかしい。おかしい。絶対におかしい。この電話の裏には、なにかある。僕にとっては、嬉しくないものが隠れている。この会話は録音されている。警察、あるいは弁護士に聞かせるために。もしくは、この電話の主が女刑事。
だとすると、ここで下手なことを言わない方がいい。
「はい、聴き屋、ちぎれ雲です」
それだけ言って、相手の出方をうかがうことにした。
「いくつか、お聞きしたいことがございます。よろしいでしょうか」
「はい」と答えるしかなかった。
「支払いは、小切手でもよろしいでしょうか」
まさか、そんなセリフを聞くとは思わなかった。それも、いの一番に。しかし、ピンとくるものがあった。
これは、一時間あたりの料金、三万円が高すぎると言っているのだ。ひょっとすると、暴利をむさぼる新手の詐欺と受け取られているのかもしれない。
しかし相手の目的が分からない段階で、いえ、名刺にある料金は、いわゆるメーカー希望価格のようなものなんです。実際は、もっとお安くなります。なんていうわけにはいかない。足元を見られて、そこから突っ込まれる恐れがあるし、小切手でも結構ですと答えてしまうと、相手のペースにのせられそうな気がした。
「初回は、現金のみとさせてもらっています」
しばらくの沈黙のあとの質問も、想定外のものだった。
「時間内に、あなた様の感想を聞かせて頂くことも、可能でしょうか?」
僕はそのセリフを頭の中で何回かくり返した。
あなた様? 僕のことを、あなた様?
そんな言われ方をしたことは、一度もなかった。
考えられるのは、ひとつ。皮肉。僕の声から、だいたいの年齢を割り出したのだろう。たぶん電話の相手は、僕の母親よりも年が上。
きっと、こんな意味のことを言いたいのだ。
あんたのような若造に話すことなんて、なにもないわよ。聴き屋なんて、千年早い。顔を洗って出直しといで。
僕はひとつ息を吐いてから、低い声でこう言った。
「この電話は、依頼のためのものですか?」
バーシュウレイン、バーシュウレイン、
僕は、いま聞いたばかりの店の名前をつぶやきながら、グーグルマップを開いた。
バーシュウレインは、待ち合わせ場所の喫茶店の名前。ここから十キロほど離れた商店街の中程にあるらしい。
バーシュウレイン、バーシュウレイン、どんな意味があるの、バーシュウレイン。レインがつくから、雨と関係あるの? バーシュウレイン。
と歌うようにつぶやきながら、教えてもらった住所を打ち込んでみたが、その場所にあったのは、仏具店だった。
おかしいな。聞き間違えたのだろうか。
しかし、他の検索サイトでもヒットしなかった。NTTの104で調べてもらったが、日本中探してみましたが、バーシュウレインという名前は見当たりません、という返事しかもらえなかった。
やっぱりこれは、たちの悪いいたずら。そう確信したが、約束してしまったものは仕方がない。
待ち合わせは、今日の午後一時。バスに乗れば三十分ほどで着くらしい。
元はと言えば、自分がまいた種。騙され覚悟で出かけるしかなさそうだ。




