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『チカチカマンションに、チラシを兼ねた名刺投入』 管理人視点

 午前零時に設定しておいた携帯のアラームを解除してからアパートを出たからなのかもしれない。大通りに出た頃には、見えない相手との対決意識は、ほとんど消えていた。

 交差点に着いて間もなく、空車表示のタクシーが三台続けてやってきたときも、別に何とも思わなかった。ごく当然のように三台目に乗り込んだ。

 しかし運転手から「どちらまでですか?」と行き先を訊ねられた時は焦った。

 でもその声が、先ほどの声の主に似ていたとか、タクシーのどこかに、235953の数字が隠れていたというわけではない。僕がチカチカマンションの正式名称を知らなかっただけのことだ。

「住所は知りませんが、場所は分かっています。とりあえず道なりにお願いします」

 僕のような乗客は結構いるらしく、運転手は「はい、わかりました」と言うと、そのまま車を走らせた。

 チカチカマンションまでは、五分もあれば着く。何回かの信号待ちがあったとしても大丈夫。つまり名刺投入は、本日中に終了。

 運転席のデジタル時計を見ないようにして、通りすぎる景色を眺めながら、そんなことを考えていた時、何の前触れもなく、僕のふくらはぎの辺りにするどい痛みが走った。

「イタタタタ」

 思わず苦痛の声が漏れた。先ほど無理な姿勢で走った後遺症。それ以外に考えられない。慣れないことはするもんじゃない。でも、もう遅い。

「どうなさったんですか?」

 運転手がバックーミラー越しに訊いた。

「筋肉痛だと思います」

 と答えたあとで、心臓を締め付けられるような痛み。両肩に激痛。

「アツツツツツ」

 あまりの痛さに、顔が歪んだ。

「しばらくお待ちください」の声と共に、車が止まった。「大丈夫ですか?」シートベルトを外した運転手が僕の顔を覗き込んだ。

 大丈夫ではなかった。動悸が激しくなり、体中が燃えているような感じ。額からは、冷たい汗がしたたり落ちていた。


 運転手から聞いたところによると、僕はしばらく気を失っていたらしい。

 鼻の奥に強い刺激臭を感じて目を開けると、そこは、チカチカマンションの近くにあるドラッグストアの駐車場だった。全開にした窓の外から、心配そうな顔で僕を見つめている運転手の手にあったのは、スプレー式鎮痛消炎剤。

 エアーサロンパスと僕の相性はいいらしい。車を降りてラジオ体操の最初の部分をやってみると、痛みという痛みは、きれいさっぱりとれていた。

 運転手が気を利かせて買ってきてくれたのかと思ったが、僕自身が買い求めたとのことだった。

「ほんとですか? 全然、覚えていません」

 頭を掻くと、運転手の顔にはじめて笑みが浮かんだ。

「そうかもしれませんね。これを私に渡すと同時に、バタンキューという感じでしたから」

 運転手は、笑顔のままでつづけた。

「如何いたしましょうか。チカチカマンション」

 どうして、それを?

 一瞬戸惑った。でも、訊かなくても分かった。僕が寝言で言ったのだ。だとすると、そのあとどのようなことを口走ったかを確認する必要がある。下手なことをいうと、ずいぶん話が違いますねと、あやしまれるおそれがある。

「昔からそうなんですけど、僕は寝言を言うくせがあるらしいんです。他にも何かおかしな事を言っていたんじゃないですか?」

 と様子をうかがうと、運転手は真面目な顔で「チカチカマンション以外は、何も」と答えた。

「お手数かけてすみませんでした」安心した僕はお礼を言ったあと、ドラッグストアの入り口の横に並んでいる自販機を指さした。「何か飲みますか?」

 運転手がホットコーヒーを飲んでいる間に、僕は消臭剤を買うために店内に向かった。「これで、においが取れるかどうかは、分かりませんけど」

 タクシーを独特のにおいに染めてしまった僕にすれば当たり前の行為。でも運転手は、僕が買ってきたファブリーズをとても喜んでくれた。

「うちのバカ息子に、あなたの爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいです」

 たとえ話だと分かっていたが、つい指先を確認した。もちろん爪垢はなかった。

「何をなさっているんですか、息子さん」

 しかし答えは返ってこなかった。運転手の表情が曇ったような感じがしたので、僕は本題に入った。

「あそこです。僕が行きたいところは」通りの向こうに見えるチカチカマンションを指さしながら、さりげなく確認した。「行ったことはありますか? あのマンション」

 嬉しいことに、今日が初めてですという返事。僕はそこで思いつきを口にした。

「今日中に、名刺のサンプルを届ける約束だったんです。でも、この時間になってしまいました。たぶん出てこないと思うんですけど、行くだけは行ってみます」

 思いつきにしては、上出来だった。

 最近はどこもセキュリティは厳しい。そこの住民であっても、玄関を通過するたびに暗証番号を押さなければならないマンションなんて珍しくもない。

 僕のような部外者が、こんな時刻に、こんな格好で、のこのこ歩いて玄関に近づけば、警備会社のスタッフがすっ飛んでくるかもしれない。でも、タクシーで横付けとなると、その心配はない。ぱっと降りて、ぱっと戻ってくる。もちろん帰りも、このタクシーを使う。

僕がすることは、入り口から、内部を覗く振りをするだけでいい。

 そんなことを考えながら、僕はチカチカマンションの前でタクシーを降りた。

 

 結果から先に言うと、名刺投入に、何の障害もなかった。

 アクシデントと言えば、入り口付近で足が滑ったくらいのもの。ドアが開いたときたたらを踏んだが、備え付けのポストが並んでいる壁の前で踏みとどまることができた。 

 名刺を入れたのは、最上階のポスト。名前がなかったから、空き部屋の可能性もあるが、それでも構わない。

 一枚目の名刺で依頼が来るはずがない。今日中の名刺投入にこだわったのは、自己満足のため。思い立ったが吉日を実践したかっただけ。

 往復のタクシー料金は、一週間分の食費に相当する。たしかに痛い。でも、聴き屋ちぎれ雲の開店祝いに、景気づけの花火を打ち上げたと思えば、それでいい。

「おやすみなさい。チカチカマンションのだれかさん。あなたをターゲットに選んだおかげで、不思議な体験ができました。縁があったら会いましょう」

 と頭の中で言いながら眠りについた同じ日に、チカチカマンションの最上階に住む三人の住民たちも、不思議な体験をしたらしい。

 でも僕がそのことを知ったのは、それから何日か経ってからだった。


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