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『トントントントン、ヒノノニトン』    管理人視点

 その声が聞こえてきたのは、回れ右をした直後だった。

 来たときと同じように、いちにぃ、いちにぃ、いちにぃ、いちにぃと、心の中で号令をかけようとしたとき、どこかで声がした。

「お願い、行かないで。私を捨てないで」

 すがりつくような女の声。

 通行人の誰かだと思った。たぶん長年付き合ったカップルの別れ話。ひょっとするとこれから修羅場?

 へぇー、演歌の歌詞みたいなセリフを言う女の人って本当にいるんだ。どんな顔で言っているのだろう。女を捨てる男って、どんな奴なんだろう。

 好奇心に駆られた僕は、何気なさを装って辺りを見回した。

 通行人は結構いた。でも遠くの方。近くには誰もいなかった。通りの反対側のセルフ方式のガソリンスタンドにも人影はなし、通行車両もなし。

 しかし空耳にしてはリアル過ぎ。

 まさかこれも、あの数字と関係があるんじゃないだろうな。

 そんなことを頭の隅に思い浮かべながら、第一歩を踏み出したとたん、僕のあごがコクンと上を向いた。

 だれかに後ろ髪を引っ張られたのかと思った。

 しかし、それが錯覚だということはすぐに分かった。周りに誰もいないのは確認済み。それに、後ろ髪を掴まれたような感じではなかったし、痛みのようなものも感じなかった。だいいち僕の髪は全体的に短い。通りすがりに引っ張ろうとしても、絶対無理。

 どんな感じだと言えば分かってもらえるのだろう。後ろ髪が瞬間的に一メートルほど伸びたような感じ。それが一番近いかも知れない。

 そんなことは絶対にないと思いつつも、気になった。

 頭を掻くふりをして右手を後頭部にやってみた。

 もちろん、何もなかった。何も貼りついていなかった。でも、念には念を。衣料品店のショーウインドウに映る自分の姿をチェックしてみたが、異常なし。

 ほっとしたが、ナーバスになっている自分に気がついた。

 はい、ここですこし落ち着きましょうね。と自分に呼びかけたあと、深呼吸で息を整えた。

 では、改めて出発と参りましょうか。

 とスタートの構えをしたところで、ふと思った。

 今日は、何かをやろうとすると、必ずといって良いほど邪魔がはいる。

 今日の僕の全身は、邪気で覆い尽くされているのかもしれない。だとしたら、それを追っ払ってやろう。

 と思ったものの、どうすれば良いか分からなかった僕は、とりあえず、号令を変えることにした。

 でも、邪気払い効果がありそうな号令を思いつくことはできなかった。

 こうなれば、いち、にぃ、さん、しぃ、出て行け、邪気は! いち、にぃ、さん、しぃ、出て行け、邪気は! でいこうかとしていたとき、僕の横を真新しい日野のトラックが通りすぎた。

 そのトラックが何トン車なのか分からなかったが、この際それはどうでも良かった。

 これは天からのお告げ。

 日野トラックのCMソングを、邪気払いに使うことにした。

 トントントントン、ヒノノニトン、トントントントン、ヒノノニトン、

このコマーシャルソングは、僕に思わぬ効果をもたらした。

 走り始めて数分もしないうちに、後頭部の違和感が消滅したのだ。

 それだけではない。足取りが信じられないほど軽くなった。意識していないのに、腿は陸上選手のそれのように、胸元近くまであがった。

 気合いを集中するために、自分の足元だけを見つめて、トントントントン、ヒノノニトン、トントントントン、ヒノノニトンと、心の中で号令をかけながら走っていた僕が、あることに気づいたのは、僕のアパートから歩いて十分くらいのところにある惣菜屋の横を通りすぎようとした時だった。

 何か変だと思ったら、店のシャッターが降りていた。

 安い、早い、旨いがキャッチフレーズの超繁盛店。

 年中無休。営業時間は、朝七時から午後十一時まで。朝から晩まで行列が絶えないが、一番ごった返す時間は、閉店一時間前。なのに誰もいない。閑散としている。

 思わず立ち止まった僕は、明かりが消えた店の看板を見上げた。

 どうして?

 とその時思い出した。一月程前、夕方のテレビで取り上げられていた。あれで、更に客数が増えて、閉店時間を待たずして完売したのだ。商品が無いのに店を開けておくと、明かりを頼りにやってきたお客に迷惑をかけることになる。

 なんだ、そうか。と納得したとき、にぎやかな声とともに、店の横から帰り支度を済ませたおばちゃんの一団が姿を現した。

 常連というわけではないが、僕はこの店でおかずを買うことがある。先頭のおばちゃんに見覚えがあったので、笑顔を作ってから訊いてみた。

「早じまいですか?」

 このあと、そうなの、おかげさまで、そのような返事がくるはず。そうしたら、テレビの影響力はすごいですね、と続けようと思ったが、おばちゃんは苦笑いを浮かべながら「なら良いんだけどね。ここんとこ毎日、手当のつかない残業だよ」と言った。


これは後から分かったことだが、引き返すときの僕のスピードは、歩く人より遅かったらしい。太ももは上がっていた。両腕も大きく振っていた。しかしそれは、ストレッチを兼ねた準備運動のような動きにしか見えなかったらしい。


「え?」と言ったあとの僕の動きは素早かった。

 息継ぎをしなかったんじゃないかと思うほど、全速力で走った。

 アパートに忘れていたのは、ウエストポーチだけではなかった。施錠もしていなかった。空き巣に入られても、取られるようなものはないが、やはりこれは管理人として失格。

 ウエストポーチを腰に巻いた僕は、反省の意味を込めて自分の頭を、コツンと殴ったあと、これから取るべき行動を考えた。

 十一時を回っているのは間違いない。しかし、正確な時刻の確認はしないことにした。

 たぶん、十一時二十分過ぎ。ということは、日付が変わるまで、四十分弱。

 いますぐ部屋を飛び出せばなんとか間に合いそう。しかし、さっきと同じスピードしか出せないとなれば、今日中の名刺投入は到底無理。

 ヒノノニトン。あれは天からのお告げじゃなかったらしい。誰かが、僕の脳に直接働きかけて、走りの邪魔をした。きっとそうだ。

 今度は絶対にあのCMソングは使わない。 いち、にぃ、さん、しぃ、出て行け、邪気は! いち、にぃ、さん、しぃ、出て行け、邪気は! 垢抜けないが、これで行く。

 と誓った時、あることに気づいた。

 号令をかけるテンポが遅かっただけなんじゃないだろうか。

 アパート前の路地で、早速それを試してみた。

 僕の予想は当たっていた。

 トントントントン、ヒノノニトン、トントントントン、ヒノノニトン、トントントントン、ヒノノニトン、トントントントン、ヒノノニトン、

 早口になるに連れて、脚の回転が早くなり、歩幅も伸び、スピードも増してきた。

 それを確認した僕に余裕ができた。と同時に、名刺投入時刻にこだわる必要がないことに気がついた。

 なんだ、そういうことか。

 小さくつぶやいた僕は、近くの自販機でコーラを一本買って、アパートに戻った。そして一口飲んでから天井を見上げて「ねえ、きみ」と声に出して言った。

「もしきみがなんらかの形で、僕に関わっているとしたら、その証拠を見せて欲しい」

 しばらく待ったが何の変化もなかった。僕はもう一口コーラを飲んだ。

「じゃあ、了解してくれたものとして、先に進むよ。でね、今思いついたんだけど、勝負の方法を変えようと思うんだ。もっとアバウトなものにね。だってそうだろう。きみも知っているように、現時点では、名刺投入時刻が、二十三時五十九分五十三秒ぴったしでない限り、君の負けなんだよ。それじゃあ、あんまりだろう。僕としても心苦しいし、勝ったとしても素直に喜べない。確率は五分と五分。それでないと意味がない。だから、こうすることに決めようと思う。名刺投入が、日付が変わる前なら、僕の勝ち。一秒でも過ぎたら、君の勝ち」

 ここで僕はまたコーラを飲んだ。

「でね、今出発すると、午前零時ぎりぎりに着きそうなんだ。勝負としては面白いところだけど、どっちにツキがあるのかも試してみたいんだ。その方法はこうだ。このコーラを飲み終えたときがスタート。表通りに出たら僕は信号機の横で、流しのタクシーがやってくるのを待つ。君は知らないだろうけど、この通りを走る流しのタクシーは、ほとんどいないんだ。この時間にタクシー会社に電話しても、十五分くらいは待たされるらしい。代行運転もしていて、その需要がけっこうあるらしいんだ。で、ここからが肝心。僕が乗り込むのは、三台目。これで分かるよね。君に有利だということが。でも僕は構わない。だって、僕が今日中にチカチカマンションの郵便受けに名刺を投げ入れたとしても、相手がそれを見るのは明日の朝になるわけだろう。もし僕が負けたとしても、実質的な被害はないってことなんだ。だから、僕に気兼ねすることはない。どんな手を使ってもいい。もし君が勝った場合、君の言うことは何でも聞く。でも、最初に言ったように、きみが勝ったという証拠の品があったらの話だからね。でも、この約束の有効期間は、三日間だけだよ。それでいいね。十秒以内に返事がなければ、きみが了承したとみなす」 

 それだけ言った僕は、五秒のおまけをつけて、十五秒後にコーラを一気に飲み干した。




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