『天井から聞こえてきた低い声』 管理人視点
その声が聞こえてきたのは「さあ、行くぞ」と気合いをいれて立ち上がろうとしたときだった。
「しばし、待たれよ」
一瞬、カロンのいたずらかと思った。というのも彼女の趣味の中に、腹話術のまねごとで僕を驚かすという項目があるからだ。
しかし、すぐにそれは間違いだと気付いた。
カロンのレパートリーは少ない。ひなげしの花を歌う時のアグネスチャン。ゲゲゲの鬼太郎の目玉おやじ。はっきり言えば、キンキン声の素人芸。
それに対して、今の声は、洞窟の奥から聞こえてきたような超低音だった。
基本的に声の高いカロンに、こんな芸当は無理。仮に出せたとしても、姿が見えるはず。
念のために部屋の中を見回してみたが、もちろん誰もいなかった。それにテレビの電源も入っていない。
となると答えは一つ。
昨夜の睡眠不足のありがたくない副産物。空耳。
と妥協しかけたところで、僕は天井を見上げた。その方向から聞こえてきたような気がしたからだ。
無駄を承知で呼びかけてみた。
「誰かいるの?」
十秒ほど待ったが、返事はなかった。しかし「当然だよな」とつぶやいたとき、また声が降ってきた。
「チキンレース」
びっくりしたが、恐怖心はなかった。声の感じからすると、年寄りに間違いなさそうだったし、犯罪に結びつくような声ではなかったからだ。
いつの間に、どうやって忍び込んだのだろう。その程度のことをちらっと思っただけ。
「そこにいるのは分かっている。おとなしく降りてくれば見逃してやる」
天井に向かって、三回繰り返したが、なんの返答もなかった。
僕の部屋にあるアルミ脚立と高輝度懐中電灯は、こんな時のためにある。なにしろこのアパートの管理人は、この僕なわけだから。
「黙秘権を使うつもりなら、しかたがないね。こっちからいくよ」
わざと大きな声で言いながら、脚立に足をかけて、照射距離200メートル。六〇〇メールンのLED懐中電灯片手に、天井裏を覗いてみた。
しかし、ゴキブリ一匹いなかった。
誰もいない。何事も無し。
本来は安心して良いはずだが、僕の胸の中は不安と疑問で一杯になった。
だとすると、今の声の主は、誰?
しばらく考えているうちに、以前見た番組を思い出した。
人にはそれぞれ守護霊がついている。
そんな説を唱える学者風の人物に、数人のコメンテーターが、次々に質問を浴びせかけるという流れだった。
今もそうだが、僕はその手の番組には興味がない。熱心に観ていたわけではないから途中でどんな応酬があったのかは知らない。でも、司会者が、番組の最後をこんな風に締めくくったのだけは覚えていた。
どちらを信じるかは、あなた次第です。
と、そこまで思い出した時、ふと思った。
守護霊を、直感、と言い換えたらどうなるのだろう。




