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『名刺投入数時間前』 管理人側視点

「結果がでたらすぐ教えてね。そしたら空をひゅーんと飛んできてあげる」

 そんなことを言い残してカロンが帰って行ったのは、夕陽が沈んでしばらくしたころだった。

「了解! 楽しみに待っててちょうだいませ」

 と軽く返したものの、今の世の中が、そんなに甘くないことぐらいは知っていた。

 折り込み広告が購買に繋がる率は、0・1%以下。そのような記事をなにかで見た覚えがある。

 それを当てはめると、最初の依頼者が現れるまでに必要な名刺は千枚。しかし、世の中には、こんな言葉があるのを忘れてはいけない。

 ビギナーズラック。

 運が良ければ、最初の一枚で顧客をゲットできるかもしれない。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 これで一山当てようなんて気持ちは微塵もない。ひょんなことから思いついたビジネスが通用するかどうかを確かめたいだけの話。

 だいいち聴き屋がビジネスとして成り立つのなら、とうの昔にタウンページのどこかに「聴き屋」の文字が載っているはず。

つまりこれから僕がチャレンジしようとしていることは、大雨の後にできた水たまりの中に、釣り針のない釣り糸を垂らすようなもの。

 しかし、やると決めたからには、最善の努力を尽くさなければならない。それには常にお客様の立場になって物事を考えること。

 しかし、現時点で出来ることは何もないことに気づいた僕は、とりあえず自分の身を清めることにした。

 そうすることによって気持ちが自然に切り替わり、それがビジネスに良い結果をもたらす。そんな気がしたからだ。

と言っても、深い山奥に籠もって、滝に打たれようなんて発想は元々ない。純粋に体を清潔にすること。それが僕にとっての、身を清める行為なのだ。

 どうやら僕の場合、頭から何杯もの冷水を浴びるより、のんびりとリラックスしている時の方が、閃きが走るらしい。

 というのも、炭酸入り入浴剤を投げ入れた湯船に肩まで浸かりながら、ゆずの香りを嗅いでいたとき、ふと、脳裏に浮かんできたものがあったのだ。

 もし、そのときそれを思い出さなければ、僕の人生は違ったものになっていたはず。でも、それを知ったのは、もう少し時間が経過してからのことだったから、ここでは触れないことにする。

閃きのように、脳裏に浮かんできたもの。それはカロンが言ったあのセリフだった。

「料金の桁が違う」

 その時点でも、僕は一時間3000円でも高すぎると思っていた。だが、そのあとに続いたカロンの言葉が僕の耳の奥で、何度も蘇った。

「時効が成立した殺人事件の一部始終を打ち明けられたとしたら、どうなるか考えてみてよ。あなたに、それをこらえるだけの精神力はあるの?」 

 ねっ、時給三万円でも安すぎるでしょ。

 考えてみると、あのセリフの中には、そんなニュアンスがこもっていた。

 カロンの性格は、今でも分からない。

 時によって、中身がそっくり入れ替わったんじゃないかと思うくらいに、僕に対する対応が変わることがある。でも、これまで僕の意見に反対することは一度もなかった。

 と言うことは、料金設定に関しては、よほどの自信があるのだろう。

 となると、その裏付けを知りたい。なにを基準に、三万円と言いだしたのか訊けばよかった。

 湯船に浸かっている間、僕の頭の中では、3000円と、三万円の、二つの数字が交互に現れては消え、消えては現れていたが、結局僕は、カロンの意見を取り入れることにした。

 理由はこうだ。

 物にはメーカー希望価格というものがある。しかし実勢価格は、それより低い。半額以下も珍しくない。高いという客には、これはメーカー希望価格に相当するんです。もちろんお安く出来ますよ、と答えて逃げることができる。

 最初に料金を低く設定すると、値上げするときに苦労するが、値下げは簡単。

 しかし一番の決め手は、商売に関するものではなく、単なる言葉遊びだった。

 色々なケースを考えているうちに、料金価格なんて、どうでもいいような気がしてきたのだ。つまり、気持ちが次第に「散漫」になっていくのを感じたから、カロンの「三万円」を選んだだけのことだった。

 風呂から上がり、夕食を済ませた僕は、部屋の明かりを消した。そして東側の窓のカーテンの端からチカチカマンションの方角を見据えた。

 時刻は午後九時。

 太陽が出ていたときは、あれほどくっきり見えていたマンションも、夜の帳に包まれている今、輪郭さえ定かでなかったが、この視線の延長線上にあるのは間違いない。

 以前調べたことがあるが、マンションまでは約四キロ。普通の早さで歩いても一時間ちょっとで行ける距離。

 今日中にあのマンションのポストに名刺を投げ入れる。自分で決めたタイムリミットまであと三時間。

「よし! 待ってろよ、チカチカマンション」

 と言って気合いを入れた僕は、部屋の明かりを点けると、冷蔵庫からコーラを取り出し、テーブルに置いたままになっているノートパソコンの前に腰を下ろした。


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