『東の空に浮かんだ夕陽』 管理人側視点
色々悩んだ末、結論が出たのは夕方近く。
「何事も、やってみなければ分からないって言葉があるんじゃない?」
カロンのその一言で、心を決めた。
「膨大な量のマニュアルが用意されていたとしても、予測不可能な出来事は起こるだろうからね。失敗の積み重ねが、独自のノウハウを生む。そう考えることにしたよ」
「で、名刺配りは、いつからやるの?」
去年だったら、間違いなくギャグとして、今でしょ、と答えていた。
「そうだなぁ」
何気なく視線を窓の向こうに向けた時、勝手に言葉がこぼれでた。
「今日からやる」
カロンは、にこっと笑った。
「思い立ったが吉日?」
「それもあるけど」顔を上げて、もう一度窓の外に目をやった、「実を言うと、いま、サインが来たんだ」
「サイン? 誰から?」
僕は彼女の背後の小窓を指さした。
「ほら、あそこに見えるだろう。ここから始めてくれ、と言っている」
「どこ?」
体をひねって僕の視線の先に顔を向けたカロンに、異変が起きた。
「あっ」
小さく叫ぶと同時に、両手で目を覆った。
「ど、どうしたの?」
と言ってテーブル越しに身を乗り出す僕に、カロンは「心配しなくてもいいわ」と言ったが、どこか苦しげだった。もしかすると、小さな虫が目の中に飛び込んだのかもしれない。
「水を持ってこようか。洗面器かなにかで」
それに対する返事がきたのは、三十秒ほど後。
「ありがとう。気持ちだけは頂くわ」
いつもの口調でそう言ったカロンは、瞬きを数回繰り返してから、目の状態を確かめるように部屋の中に視線を巡らせた。
「あぶないところだった」それから納得できないというように首を傾げた。「どうしてこの時間に、太陽が見えるの? あっちは東でしょ」
その言葉で謎が解けた。
「ごめんごめん」まず配慮がなかったことを謝った。「君にとって、太陽の光は猛毒だったよね。これから気をつける」それからカロンに向き直った。
「でも、あれは、建物のガラス窓に映った太陽。本物の太陽は、僕の背中側。町工場の屋根の向こうに浮かんでいる」
「あ、そうか。だからダメージが少なくてすんだわけね」
太陽が苦手。まともに見ることが出来ない。
出会った頃、カロンはそんなことを言っていた。話が出たついでに、その件を突っ込んで訊いてみようか。一瞬そう思ったが、やめた。相手の苦手なものを追求すべきでない。
「年に何回か、あのマンションからチカチカ光線がやってくるんだ」
「じゃあ、あそこには知り合いが住んでいるわけね。あのチカチカは、ある種の光通信なのね」
カロンの口から光通信なんて言葉が出てきたことに驚いた。でも、捉え方はとても良いと思った。
「いや、この町で僕の知人と言えば、君と、このアパートのオーナーだけ」そこで言葉を切ってから続けた。「あのチカチカに意味はない。最上階の西側の部屋の一枚の窓ガラスが、微妙に揺れ動くから、太陽の光が瞬いているように見えるだけ」
「すごいわね。近くまで行って調べたわけね。原因を突き止めるために」
「いや」褒められて恥ずかしかったから、コーラを一口飲んだ。「想像しただけ。たったそれだけに一年以上かかった」
「あら、そう」感情のない声で言ったカロンが、思い出したように訊いた。
「でも、どうして、ここから始めてくれって、感じたの? 夕陽と言えば、さびしいとか、さよならとか、そんなことをイメージするんじゃないかしら、大抵の人は」
「なにしろ太陽あっての地球。太陽あっての生物。沈みかけた太陽だったとしても、それが東の空に浮かんでいたら、だれだって、これから始まる、として受け取るはずだよ。だから、あそこが最初のターゲット」
思いつきを口にすると、カロンはそのことには触れずに「料金入りの名刺を、チカチカマンションの全世帯に配るわけ?」と言った。
その質問も、気づかなかったことを気づかせてくれた。僕はしばらく考えてから答えた。
「料金を払ってまでも聞いてもらいたい話。それは個人の最高秘密に属するもの。そう断定していいと思う。だから、原則的には、一地域にひとり。これを貫くことにする」
すぐに次の質問がきた。
「で、チカチカマンションって、誰でも入ることができるの?」
質問の意味に気づいたのは、しばらくしてからだった。
「セキュリティシステムの進歩は、めざましいと思う。でも、郵便受けまでは誰でもいける。そんなマンションは、いくらでもあるからね。とにかく行ってみるよ。さっき君が言ったように、何事もやってみなければ分からないわけだからね」




