チクリ効果 バーシュウレイン視点
ちょうどその頃、八階建てマンションの一室では、同年配の三人を襲った奇妙な痛み(チクリ)に対する検証が始まっていた。
「異常が起きるのは、左右のほっぺただけ。最初は、針で刺したような痛み。でも、すぐに心地よさに切り替わり、短時間で消える」
エメラルドが、独り言のように言ったとき、黄色地のブラウスは、その現象に一定のルールがあることに気づいた。
右頬にそれを感じるのは、体が真南に位置するバルコニーを向いているとき。左側の頬にその症状が生じるのは、バルコニーに背を向けたとき。
「痛みは、こっち側からやってくる」
その事実から導き出された結果を口にすると、ルビーの表情がこわばった。黄色地のブラウスが指さした方向に自分の部屋があったからだ。
「ということは、私が原因?」
「ううん、そうじゃない」黄色地のブラウスは、落ち着き払った視線をルビーに向けた。「あなたとは無関係。ずっと遠いところからよ」
体をバルコニーに向けたエメラルドが、納得した顔でうなずいた。
「あ、ほんとだ。今、右頬がチクリとした。間違いない。痛みは西側からやってくる」
と、何を思ったのか、ルビーがさっと身を伏せた。そして小さく叫んだ。
「私たち狙われている」
もちろん冗談だ。
「え?」
一瞬何が起きたか分からないような顔で、互いに顔を見合わせたエメラルドと、黄色地のブラウスだったが、ルビーの思惑に気づいたらしく、クスクス笑いながらその場にしゃがみこんだ。
そのとき三人の頭の中には、同じ映像が浮かんでいた。つい一週間前、三人そろって観に行ったスパイ映画のワンシーン。
敵方が差し向けたスナイパーに命を狙われるのは、世界的に有名なアクションスターだった。
映画帰りのレストランで、自分を映画のストーリーの中に取り込んだ三人は、今度生まれ変わったら、絶対にこの職業を選ぶ。そしてあの人と運命を共にする。と似たようなことを言った。
「私が偵察にいく」
高校までバレー選手だったルビーが、大げさに体を半回転させ、ほふく前進の要領でバルコニーに向かおうとすると、笑いをこらえるような表情でそれを眺めていたエメラルドが制した。「油断大敵って言うわよ」
ぽかんとするルビーに、エメラルドは続けた。
「それじゃ、身元がばれるわよ。それに、今日もカンカン照りよ」
その言葉にいち早く反応した黄色地のブラウスが、体を低くしたまま隣の部屋に消えた。
「ついでに、これも使えば」
三十秒も経たず戻ってきた彼女が床に並べたのは、三人分のサングラスと双眼鏡。
「サンキュー」
素早くサングラスをかけたルビーが、爆薬が詰まった秘密兵器でも扱うような慎重な手つきで双眼鏡をそっと持ち上げると、後の二人も笑いながらそれを真似た。
南側に突き出たバルコニーには、たわわに葉を付けた背の高い樹木が七カ所に置いてある。しかしそれは、スナイパーの視線を遮って、相手の居場所を突き止めるためにあらかじめ用意されていたものではない。
このマンションで一番見晴らしの良いバルコニーから遠くを眺める際、太陽から降り注ぐ紫外線から肌を守るためのものだ。
「間違いなく、あっちからよ」
葉陰に隠れながら三人が西の方角に向けた双眼鏡は、バードウオッチャーにとっては定番的なニコン10ⅹ35EⅡ。
しかし、あのガリレオ・ガリレイが発見したと言われる木星の四つの衛星。イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストの姿を、はっきりとした光点として捉えることができる高性能双眼鏡をもってしても、スナイパーが潜んでいそうな場所を発見することはできなかった。
バルコニーからの眺めが良いと言うことは、周囲に視界を遮る建物がないということだ。なにしろ八階建てのマンションの周囲は、ほとんどが二階建て。
「たぶん、この延長線上にいるはずよ」
双眼鏡を目から離した黄色地のブラウスが指さしたのは、輪郭のぼやけた地平線にちょこんと顔を出している昔からの商店街。直線距離で約四キロ。
「今の今も、どこかで笑っているのよね」
黄色地のブラウスが悔しそうに言ったのは、これほど離れていると、口径35ミリ、倍率10倍の双眼鏡であっても、対象物の細部を見分けることができないということを実感したからだ。
「確かにあの商店街あたりは、怪しい雰囲気があるわよね。高層マンションもあれば、人の住まないアパートもある。大正時代の建物もあれば、ユニクロもある。きっと、色んな考えを持った人が住んでいるんでしょうね」
エメラルドが言うと、黄色地のブラウスが後を引き継いだ。
「こっちから相手は見えないけど、向こうからは丸見えだと思うの。何を企んでいるか分からないけど、犯人を見つけて、警察に突き出すべきよ。悪の芽は早く摘めと言うでしょ」
だが、そこでルビーが反対意見を述べた。
「ちがうちがう、その逆よ。会って、お礼を言うのが礼儀でしょ」
「お礼?」
「そう、お礼。今気づいたんだけど、体の調子がとてもいいの。ほら見て」双眼鏡を首にかけたルビーは、そこで屈伸運動を何度か繰り返した。「いままで黙っていたけど、膝が痛くて仕方なかったの。チクリのおかげとしか、考えられない」
「あ、」黄色地のブラウスが、両肩をぐるぐる回すと、驚いたような声で言った。「ほんとだ、痛くない。あんなに凝っていたのに、どうして?」
その二人を、ぼんやりした視線で追っていたエメラルドが、何か考えるように、遠くに目をやった。そしてしばらくしてから、信じられないというような口調でつぶやいた。
「どうしてこんなによく見えるの? コンタクトをしていないのに」