『耳に残るメロディと、頬に突き刺さる何か』 管理人側視点
ルビーの耳の奥に、懐かしいメロディがよみがえってきたのは、目を閉じてから小一時間ほどした頃だった。
「ねぇ、この曲知っている?」
ルビーがメロディを口ずさみ始めると、後の二人はそのままの姿勢でしばらく耳を傾けた。
昭和のにおいのするメロディだった。エメラルドは幼い頃の風景を思い出した。
今は廃校になった山奥の小学校。樹齢数百年と言われていた大きなイチョウの木。竹ぼうきで追いかけた赤とんぼ。
エメラルドは、ゆっくりとソファから腰をあげた。
「とても覚えやすいメロディね。だれの曲なの?」
「歌手は分からないけど」ルビーはちょっと照れたような表情を浮かべた。「題名は、ちぎれ雲というらしいの」
いつもとはちがうルビーの声に、黄色地のブラウスが反応した。
「つまり、あなたが言いたいのは」勢いよくソファから立ち上がって、ルビーを見た。「私、この歳になっても、初恋の人が忘れられないんですってことよね」
「ちがうちがう」ルビーは細かく首を振った。「そうじゃないの。初恋の人とは、まったく無関係」
「じゃあ、何者なの。あなたにわざわざ、その曲を教えてくれた親切な男の人は」
ルビーは、痛いところを突かれたといった表情になった。
「私、その人の名前を知らないの」
「知らない?」
黄色地のブラウスは、にやっと笑うと、ルビーの顔をのぞき込んだ。
「知らないじゃなくて、思い出せないでしょ。私、認知症の一歩手前なの、というべきなんじゃないの?」
この手のセリフは、三人の間では使い古されたものだった。いつもならここで、お互いに笑い合って会話が終了。だがルビーの口は、勢いがついたようになめらかに回った。
「失礼ね。こう見えても、けっこうモテたのよ。言い寄ってきた男が多すぎただけ。でもね、イケメンの名前だけは、全員覚えているわよ」
「全員?」黄色地のブラウスが大げさに目を見開いた。「二人を全員っていうのかしら? それより、イケメンの基準は、どのあたりにあるの?」
ちょっと言葉につまったルビーが反撃に出た。
「だったら、あなたはどうだったのよ」
待っていましたと言うように、黄色地のブラウスは即答した。
「私すごいわよ。今だって、日本全国津々浦々、JRの駅ごとに男が私を待っているんだから」
二人の冗談を笑いながら見ていたエメラルドが、何か思いついたように「ねぇ」と言った。
「私たち、出会ってから何年になるのかしら」
三人が知り合ったのは二十四歳の時だった。でも、数字に強いはずのルビーも黄色地のブラウスも、笑っただけで答えなかった。
「今気づいたんだけど」エメラルドは落ち着いた声で言った。「私たち自分の恋愛話を打ち明けたことなんて、一度もなかったわよね」
「そういえば」
ルビーが神妙な顔でうなずくと、黄色地のブラウスがそのあとを引き継いだ。
「仕事に追いまくられて、そんな雰囲気になったことさえなかったわね」
二人から視線を外したエメラルドは、ゆっくりと窓辺に近づくと、人差し指の先を遠くに向けた。
「その曲を教えてくれた男の人、この空の下のどこかにいるはずよね」
そのセリフに導かれたように、あとの二人も窓辺に身を寄せた。
「生きていればね」
ぽつりと漏らしたルビーの肩口を、黄色地のブラウスが軽く叩いた。
「生きているに決まっているでしょ」
「どうして、そうはっきり言えるの? 人生には何が起きるかわからないことを、一番知っているのは、あなたでしょ」
振り向いたルビーに、黄色地のブラウスが笑いながら言った。
「だって、あなたみたいな気の強い女に近づく男は、全員殺しても死なないタイプでしょうからね」
さて、どんな反撃のセリフが返ってくるんだろう。黄色地のブラウスは、それを楽しみにルビーの口元を見つめた。しかし、返ってきたのは予想に反した感謝の言葉だった。
「ありがとう」ルビーは両手をパチンと打ち鳴らした。「今のセリフで顔を思い出した。まさに、そいつはそのタイプだったわ。みんなはそいつを、ジュウリラと呼んでいた」
「ジュウリラ?」
まじめな顔になって考え込んだ黄色地のブラウスに、ルビーは笑いをこらえるような顔で言った。
「ゴリラの二倍ほどひどい顔だから、ジュウリラ」
「ゴリラの二倍?」
三秒ほどの間を置いて、プッ、と吹き出した黄色地のブラウスだったが、片手で頬を押さえているエメラルドに気づいて真顔になった。
「どうかしたの?」
顔をしかめてうつむいていたエメラルドは、頬の手を離した。
「さっきから、このあたりが変なの。ちょっと見てちょうだい」
見たところ、頬に異常はなかった。赤くもないし、腫れてもいない。
「痛いの?」
「最初は突き刺さる感じだった」エメラルドは言葉を探した。「でも、今は心地良いの。高校生の頃、腰をに針を打ってもらったことがあるけど、それに似ているかもしんない」
いまでも若い頃の肌つやを保っているエメラルドの頬を、うらやましそうに見ていた黄色地のブラウスが質問した。
「右側だけが、そうなの?」
「ちょっと待って」体をひねって、左側を見せようとしたエメラルドが「あれ?」と言って、怪訝そうに首をかしげた。
「こんどは、こっち」
「ねえ」それまで黙っていたルビーが、眉にしわを寄せた。「それって、何かの前兆じゃない?」
その続きを黄色地のブラウスが言った。
「大至急、専門医に診てもらうべきよ」
「そうね、そうしたほうが良いかもしんないわね」
うつろな声で応じたエメラルドの脳裏に、生死に直結するいくつかの病気が浮かんでは消えた。
両親は健康なまま天寿を全うした。でも、自分もそうだとは限らない。こんな場合、お石様の力を借りるまでもない。すぐ検査を受けよう。
適切なアドバイスありがとう。
二人に向かって礼を言おうと顔を上げたエメラルドだったが、口から漏れたのは、それとはちがう種類の言葉だった。
「私たち三人、新しい伝染病にかかったんじゃない?」