プロローグ
この物語は『ふくしき七回シネマ館』の途中で、ふと頭にう浮かんできたものと、以前から頭の中で漂っていたものをミックスしたものです。うまくひとつにまとまるかどうかも含めて、読んでいただければ幸いです。
彼女の名前は、カロン。
透きとおるような白い肌。すらりとした体つき。ぱっと見は、十代後半。
でも初めて会った日に、こんなことを言っていた。
「三十路なんて、とっくの、とっくの、とっくの昔に越えているのよ、わたし」
カロンの大好物は、お酒らしい。
でも、彼女が飲んでいるところを、一度も見たことがない。
たまにだが、僕を「プースケ」と呼ぶことがある。
プースケは、プー太郎からきているらしいのだが、僕はその呼び名がとても気に入っている。
しかし、言葉の響きが好きなわけではない。
「プースケ」と呼ぶとき、必ず僕の体のどこかをくすぐるからだ。
首筋、脇腹、足の裏、脇の下。ときには、太ももの付け根あたりを、手のひらでさっと撫でることもある。
でも僕は、くすぐりには、とても弱い。体が勝手に防御の姿勢をとる。
「そこを動かないで」
命令口調で言われても、ひーひー言いながら、せまいワンルームを逃げ回る。
「しもべのくせに、私から逃げようなんてバカな考えは、お捨てなさい」
僕が部屋の隅に追い詰められたところで、ゲームセット。じゃれあいが終わると、カロンは両手を大きく広げて、僕をじっと見つめる。
「プースケや、ちゃんと、わたしの目を見ておくれ」
そして僕を包み込むように抱きしめると、ほっぺとほっぺをくっつける。
すりすりを、くりかえされている時が、僕にとっては、至福の時。
次第に、自分が手のひらサイズの小動物になったような錯覚に陥り、頭の芯が、ほんわかと温かくなってくるのだ。
彼女がはじめて僕の部屋にきた日のことを、はっきり覚えている。
「素敵ね、このマンション」
僕はそれを皮肉だと受け取った。
僕が住んでいるのは、築五十年をこえるコンクリート造りの二階建。
ここをマンションだなんて言ったら、不当表示で訴えられる。
外壁を縦横無尽に走る大きなひび割れ。それにアクセントを添えているのが、真っ赤に錆びついた鉄製の窓枠。
もちろん、エレベータなんて気の利いたものは付いていない。
「どんなところが?」
「音がぜんぜんしなかったの。階段を駆け足で上がってきたんだけどね。足音って、結構気になるものなのよ。聞かされる方も、音を立てる方も、嫌なものなの」
そこで話をやめた彼女は、さっと立ち上がると、キッチンの蛇口を左右に何回かひねった。
「こちらも、合格。百点満点」
笑顔で百点満点と言われて悪い気はしなかったが、そのような言葉が、唐突にでてきた理由が、わからなかった。
「水が、濁っていないってことですか?」
彼女はにこっと笑うと、人差し指の腹で蛇口をポンポンと叩いた。
「安普請のマンションの水道管は、たいてい泣き虫なの」
僕は蛇口が水道管につながっていたことを、思い出した。
「水道管って泣くんですか?」
「そうよ、たまにそんな奴がいるの。ちょっとのことで、キュキュキュキュキュって泣く奴が。真夜中に、それをやられると、もうダメ。神経ズタズタ。そんなのに当たったら、逃げ出すしかないの」
ときどき僕は、こんなことをカロンに言う。
「きみって、どこか違っているよね」
するとたいてい、こんな言い方で反論してくる。
「そんなことないわ。わたし、ごく普通。どこも変わらない。ドアをノックするときだって、基本に忠実。中指の第二間接を90度に曲げて、ノックは四回。いつ計っても、二秒ぴったし」
コンコンコンコン。
いつもの軽やかなノック音で、目が覚めた。
いけない、寝過ぎた。と思った。
あわてて上半身を起こしたとき、違和感を覚えた。
頭の芯がしびれているような感じがしたのだ。でも、こんなことは珍しくない。睡眠不足のとき、必ずそうなる。
だがよく考えてみると、それはあり得ない。
昨夜寝たのが、午前零時。予告無しにカロンが姿を見せるのは、日が落ちてから、しばらくたった頃と決まっていた。つまり、僕は二十時間近くも寝ていたことになるからだ。
ところで、今、何時?
時刻を確認した僕の頭が混乱した。自動修正機能付きの電波時計の針は、午前二時を示していたからだ。寝付いてから、二時間しか経っていないことになるが、カロンが時間を間違えるはずがない。
ということは、僕に関係のあることで、緊急事態が発生したということになる。
心当たりを探す間もなく、カロンが現れた。
「ずいぶん早いんだね、今日は」
と言って様子をうかがったのだが、僕の声は、彼女の耳には届かなかったらしい。
カロンは僕の耳元に口をよせると、ささやくように言った。
「あなたの、新しい呼び名を考えなきゃいけないみたいね」
そして、僕の反応も見ずに、そのまま風呂場に向かった。
「考える? 僕の新しい呼び名を? 何のために?」
彼女の後ろ姿を眺めながら、僕はそうつぶやいた。
同じ日の、同じ時刻。
ここは、築五十年のオンボロアパートから、四キロほど離れたマンションの一室。
思案顔で窓の外を眺めているのは、還暦過ぎの三人。
還暦過ぎで、ヨボヨボのお婆ちゃんの姿を想像した人がいたとしたら、それは大間違い。
去年の夏、あるイベントで、彼女たちの年齢当てクイズが行われた。ぴたり賞が三万円。前後賞が一万円と聞いて、大勢の人が参加した。
だが、ぴたり賞も前後賞も該当者無し。一番近かったのが、26歳差。
彼女たちの肌つや、スタイル、身のこなしの軽やかさに一番驚いたのが、そこに居合わせた化粧品と健康食品を取り扱う会社の社長だった。
「ぜひ、我が社の顔になってください」
誰もが驚くほどの破格の契約金の申し出があったが、その場で、きっぱり断った。
その時の三人の悩みが、増え続ける財産の使い道が見つからないことだったからだ。
「そろそろ、時期がきたみたい」
最初に口を開いたのは、緑色のナイトガウンのおんなだった。
「あら、私も、それを言おうと思っていたところなの」
黄色いパジャマが、そう言うと、赤いカーディガンが、うなずいた。
「私も、同じ意見」
すると三人は、一斉に後ろを振り返った。誰かに号令をかけられたみたいだった。
彼女らの視線の先にあったのは、神棚と仏壇をミックスしたような形の、縦横六十センチくらいのヒノキの箱。
その真ん中に飾られていたのは、黒光りする石。
それを見つめながら、三人は声を揃えて言った。
「やっぱり、御石様からのお告げなのね」