第三章
野焼きの火が広がれば、海を渡って春が来る。
そう歌ったのは誰であったか。春先になると、阿蘇の山を焼く野焼きが行われる。枯れ草を焼き、そこから新たな草花を芽吹かせるのだ。
神迎祭が明日に迫っていた。
『じゃあ明日は十時に迎えにまいりますね』
彌比咩は雪湖に向かって言った。健磐たち上の兄弟は、明日の準備に追われているらしい。
「はい、よろしくお願いします」
雪湖の役割は、赤酒を一瓶持っていくことだ。日本中の神様が集まるのに、それで足りるのかと聞いたところ、『儂の術で増やす!』とのことだった。
彌比咩が何か言いたげに雪湖を見ていた。
『あの……雪湖殿』
おずおずと口を開いた。
『雪湖殿は、兄さまを好いておられるのではないですか?』
咄嗟に返事をすることができなかった。彌比咩は構わず続ける。
『もしそうなら、その想いを貫いてくださいませ。兄さまには雪湖殿が必要なのです』
「どうして……」
彌比咩は目を伏せた。言うのを躊躇っているように見える。
『兄さまは、弟妹たちが先に伴侶を決めなければ自分も幸せになる権利はないと思っております……。ただえさえ阿蘇一帯の主祭神。自分のことより周りのことを優先されておられます。ですがわたくしたちは、兄さまを誰より尊敬しております。兄さまの幸せを何よりお祈りしているのに、それが叶わない……。雪湖殿、兄さまの幸せのため、どうか協力してはいただけないでしょうか』
彌比咩は勝手なことを言っているのかもしれない。でもそれは、自分以外の幸福ばかりを祈る兄を思っての言葉だ。
「でも、禁忌だって……」
『前例がないなら作ればいいのです。幸い明日は日本中の神々が集まる日……。わたくしもお手伝いしますから、どうか兄さまの気持ちにお応えくださいませ』
雪湖は何も言うことができなかった。
『高砂の松をご存知ですか?』
ふいに彌比咩が尋ねた。雪湖は首を傾げる。
『阿蘇神社にある縁結びの松です。男子ならば左より二回、女人ならば右より二回、廻りながらお祈りすると、縁が結ばれるのです。結構有名ですのよ? ……お二人の仲は、きっとうまくいくと信じております』
雪湖が何も言うことができないまま、彌比咩は『それでは』と帰っていった。
*
よく眠れぬまま、新迎祭の朝を迎えた。重い瞼によく晴れた空が映る。
雪湖は身支度を済ませると、酒蔵へ向かった。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。南の地といえどもまだ三月は冷える。カーディガンの前を合わせた。
雪湖は今日のために取っておいた赤酒の瓶を手にした。澄んだ赤酒に雪湖の顔が歪んで映る。
雪湖が何もしなければ、健磐との関係は今日で終わる。元々そのために頼まれたことだ。そうなるはずだった。
だけど、この先を続ける道があるのなら――
雪湖がそう考えたときだった。
『そなたが瑞原雪湖か』
低い男の声が響いた。
雪湖は勢いよく振り返る。しかしその目の前に男が手をかざし、何かを呟く。雪湖の意識が遠のいていく。
『あれも馬鹿な真似を……。それは我が届けておこう』
そこで雪湖の意識は途切れた。
*
阿蘇神社では朝から訪れた神々の対応に追われていた。十二神総出で出迎えに当たっている。宴は夕刻からだ。
「兄上……そわそわしすぎです」
国龍に言われて健磐は飛び上がった。
「そ、そんなことなか! ただもうそろそろ来っかなぁって思っとっただけじゃ!」
それをそわそわしているというのではないか、と国龍は呆れた視線を向ける。
「まぁ準備は万端ですし、多少浮かれても構いませんがね」
健磐は壁にももたれ掛かり、天井を仰いだ。
「国龍は、儂らのことを反対しとっとじゃなかとか」
国龍はそんな兄をじっと見つめ、同じように隣に並んだ。
「兄上はわたしたちに遠慮しすぎなんですよ。普段はあんなに好き勝手しているくせに。長兄としての責務を感じているのは分かりますけどね。わたしたちは子どもではないのですよ?」
「儂に消えろと言うのか」
健磐は冗談めかして言った。だが国龍の表情は硬いままだ。兄に消えてほしいなど思っているはずがない。ただ望んでいることはひとつだ。
沈黙が落ちた。先に口を開いたのは国龍だった。
「好機じゃないですか。慣習を変えるなら、今日です」
健磐ははっと笑う。
「酔わせて首を縦に振らせろと言うんか。ぬしも言うようになったのう」
ふたりは苦笑を交わす。
「儂は雪湖を苦しませたりせんよ」
そう零す健磐の顔は、どこか諦めが浮かんでいた。
「兄さま!」
そこに飛び込んできたのは彌比咩だ。よほど急いできたのか、息が切れてしまっている。
「どうした彌比咩。何か問題でもあったか?」
彌比咩は何とか息を整えて口を開いた。
「雪湖殿が……雪湖殿が、いなくなりました!」
*
はっと目を覚ましたときには、世界が歪んで見えた。嗅ぎ慣れたにおいがする。
雪湖はぐるりと辺りを見渡して、自分が瓶の中にいると気付いた。板張りの神殿のような場所ではあるが、きっと阿蘇神社ではないだろう。
それにしても辺りが大きく見える。雪湖が縮んだのか、周りが大きくなったのか。
『目覚めたか』
戸を開けて、黒袍姿の男が入ってきた。その声は気を失う前に聞いたものと同じだ。
「あなた……誰なんですか……?」
雪湖は震える声で聞いた。
『我が名は誉田別。藤崎八幡宮が主神である』
その名前に雪湖は口をあんぐり開けた。まさか県内でも最も有名な神社の名が出てくるとは思わなかった。下手したら県外にもその名を轟かせているのではないだろうか。
『何を驚くことがある? そなたがいつも相手にしているのはあの阿蘇神社の主祭神であろう?』
雪湖は我に返った。
「そ、そうですけど……。健磐はあんまり神様っぽくないっていうか……」
その言葉に誉田別はふんと鼻を鳴らす。
『あれを健磐呼ばわりか』
あからさまに向けられた悪意に、雪湖は一瞬怯む。
「……その藤崎宮の神様が、いったいどうしてこんな真似を……?」
『そなた、あれを好いているであろう?』
雪湖は言葉を詰まらせた。つい先日投げ掛けられた問いを、こんな短期間でもう一度されるとは思わなかった。
『神と人の恋路は禁忌……。掟を破り消えた神もいる。そなたはあれを消す気か』
雪湖は息を呑んだ。
『そなたに課せられたのは赤酒を造ること。ならばもうその役目は終いだろう。酒は我が届けよう。そなたは宴が終わるまで、ここで大人しくしておれ』
それだけ言うと、誉田別は入ってきた臣下らしき男に何か指示をしだした。雪湖は何も言うことができず、俯く。
健磐の笑顔が浮かぶ。彼は最初から雪湖を認めてくれていた。自慢の酒を見事だと言い、雪湖の夢を諦めるなと励ましてくれた。
好き勝手に振る舞っているように見えるけれど、本当は誰よりも阿蘇神社を、この熊本を愛している。自分が守るべきものの存在を分かっていた。
だから決めたのに。
「……なこと……」
ぽつりと呟かれた声に、誉田別は振り返った。
雪湖は顔を上げた。
「そんなこと分かってる! 私は健磐のことが好きよ! でもそれを伝える気なんてなかった……。健磐に消えてほしくなかったから……! どうしてみんなほっといてくれないの!? 私はお酒を健磐に供えられるならそれでいい!」
雪湖は泣きながら叫んでいた。健磐と出会って涙腺が弱くなった気もするが、そんなことは今はどうでもいい。よってたかって好きになれだの諦めろだの言われることには、もううんざりだ。
健磐が熊本を守りたいのと同じように、雪湖は健磐を守りたいのだ。
誉田別は唖然としている。何か言おうと誉田別の口が開きかけたそのとき――
『そんな寂しいことを言うな、雪湖』
戸が吹き飛んだ。黒と白の着物が雪湖の視界に映る。
吹き飛んだ戸を踏み付け、健磐が入って来た。
『なんじゃ雪湖、可愛らしい大きさになりおって』
雪湖の姿を捉えた健磐は、あっけらかんと言い放つ。やはり雪湖の方が小さくなっていたようだ。雪湖の無事な様子に、安堵の表情を浮かべる。
そして誉田別に向き直った。
『誉田別……。雪湖にこんな真似をして、覚悟はできとっとね……?』
誉田別の背筋がぞくりと粟立った。しっかりと名前を呼ばれたのは久し振りだ。健磐の目に怒りの炎が灯っているのが見える。
健磐が一歩踏み出した。
「駄目ー!!」
叫び声に二人の緊張の糸が切れた。二人の視線が雪湖に注がれる。
「健磐! これから神迎祭なんでしょ!? 怪我しちゃ駄目だよ!」
二人とも、ぽかんと雪湖を見つめる。彼らの視線に晒されて、雪湖は自分が何か的外れなことを言っただろうか、と不安になってきた。
口火を切ったのは、意外にも誉田別だった。
『はっはっは! なんだこの娘は!』
『いいじゃろう? だから儂は惚れたんじゃ』
笑い飛ばされてますます焦りが募る。
『なぁ誉田別。儂は自分を犠牲にするつもりはないし、みすみす消えるつもりもない。だけどこの気持ちは貫きたいんじゃ』
その言葉を聞いて、誉田別は大きくため息をついた。
『こうなるのが分かっていたから嫌だったんだ。分かったよ、協力はしてやろう』
『さっすがほむちゃん! 話が分かるー』
肩に腕を置いてくる健磐に、誉田別は『その呼び方はやめろ!』と怒鳴っている。
健磐は雪湖が入っている瓶に近付いて、そしてその口に向かって一線を放った。
瓶が割れ、雪湖が元の大きさに戻る。健磐は雪湖に歩み寄った。
『なぁ雪湖。儂はこのとおり大酒呑みで、仕事もろくにせんようないかん奴じゃ。だけどもし、儂のことを少しでも好いておいてくれるなら、儂に付いてきてはくれんか?』
健磐の手が、雪湖の頬に触れる。その瞳からは、涙が零れ落ちていた。
「でも私……健磐には消えてほしくない……」
健磐は雪湖をそっと抱き締めて、その背中を優しく撫でる。
『それはこれから何とかするから』
雪湖の肩が震える。
『儂のことが好きじゃろう?』
健磐は雪湖の耳元で囁いた。
「ずるい……!」
雪湖は健磐を抱き締め返す。
『あーあー、お二人さん? 盛り上がってるところ悪いが、時間は大丈夫なのか?』
健磐ははっとする。
『いかん! 全部国龍に任せてきたんじゃった! まったく誰のせいだと……』
『はいはい悪いのは我ですー』
ぎゃいぎゃい言い合うふたりの後ろで、雪湖は口を押さえた。その顔は真っ青になってしまっている。
『雪湖?』
「きもち……わるい……」
健磐ははっと割れた瓶を見る。
『ほむ! これ焼酎の瓶じゃったろ!?』
『こやつは酒蔵の娘であろう!? なんでにおいだけで酔うんだ!』
言い争う二人だが、雪湖はそれどころではない。
*
日が西に傾き、草千里ヶ浜で宴が始まった。阿蘇神社の境内で開いても良かったのだが、今夜は晴れの予報だ。月を肴に一杯やるのもいいだろう。
健磐は神々の輪の中心で、彼らの杯に酒を注いで回っている。
『雪湖殿、もうお体はよろしいのですか?』
大きな木にもたれかかっていた雪湖に、彌比咩が尋ねた。
「はい、何とか」
誉田別に焼酎が入っていた瓶に閉じ込められていたことで、雪湖は悪酔いしてしまっていた。酒蔵で育ったから酒には強いと勝手に思っていたが、まさかにおいだけで酔うとは思わなかった。成人したら徐々に慣らしていこうと雪湖は固く決意する。
『まったく誉田別様は……。雪湖殿、一発お見舞いしてやってよろしいのですよ?』
彌比咩は鼻息荒く言う。神様相手にそんなことできません、と雪湖は苦笑を返すことしができない。
『具合がよろしいのなら、そろそろ赤酒を振る舞いましょう。兄さまがお呼びですよ』
彌比咩が手を差し出してくる。宴の喧騒が続く輪の方に視線をやると、健磐がこちらを見て微笑んでいた。
雪湖は彌比咩の手を取って立ち上がり、歩き出した。
『皆の衆、お待たせ致した。我が肥後の国が誇る地酒・赤酒を振る舞おうぞ。肥後一の酒蔵・瑞原の娘が造った特別な赤酒であるぞ』
健磐が朗々と述べると、周囲から歓声が上がる。
「た、健磐……! 造ったのは私だけじゃないよ!?」
『じゃが杜氏殿に認められとったろ? もっと誇れ』
袖を引いて小声で話す雪湖に、健磐はにっと笑って言った。
『そら、増やすぞ!』
健磐は雪湖の手から赤酒の瓶を受け取ると、空に掲げた。瓶はふわりと宙に舞い、淡く輝きだした。ほう、と感嘆の声が上がる。
そして健磐がパチンと指を鳴らすと、光が弾けた。弾けた光の先に、いくつもの酒樽が現れる。
『さぁ、日も落ちた。月見酒と洒落込もうぞ!』
あちこちで鏡開きの音が響いた。
*
「作戦は失敗でしたのね」
大宰府の神に挨拶を終えた誉田別は、後ろから掛けられた尊大な声に振り返った。薄紅色の唐衣を纏った比咩御子が、眉を吊り上げて立っている。
「これはこれは比咩御子殿。今宵は良き月夜で……」
「そんなことはどうでもいいですわ! 何のためにわたくしがあの童の居場所を教えてあげたと思っているんですの!?」
息巻く比咩御子に、杯を渡した。比咩御子は思わず受け取る。
「ってそうではなくて!」
誉田別に赤酒を注がれて、比咩御子は我に返った。誉田別は自らの杯にも酒を注ぐ。比咩御子は観念したようにその隣に座った。
「誉田別様も、兄さまの身を案じているのだと思っていましたわ」
「思っているとも」
「ではなぜ!」
誉田別は健磐の向かった方を見やる。肥後もっこすなあの神は、立派な杜氏になるはずであろう少女を探しに行ったのだろう。
「人は、可能性を生み出す生き物なのだな」
ぽつりと誉田別が呟いた。比咩御子は怪訝な表情をする。
「安寧を守っていくことが大事だと思っていた。慣習を守ってこそ、この世の平和は保たれるのだと。時代は変貌していっているのかもしれん。新たな世代が新たな風を呼び込むこともできるのではないか、とあの二人を見ていたら思ったのだよ」
比咩御子はきゅっと酒を飲み干す。
「それで兄さまがいなくなったら、わたくしは誉田別様を恨みますわよ」
誉田別はからから笑う。
「心配いらぬであろう。だってあれも彼女もわさもんな肥後の民だ」
新しい物好きな熊本県民。未知なるものを取り入れて、進化していく可能性をあの二人に見てしまった。
比咩御子は大きくため息をつく。
「何をもっともらしいことを……。結局あなた様は兄には頭が上がらないだけでしょう?」
「それは貴女も同じであろう?」
二人は顔を見合わせると、どちらからともなく笑い出した。
「見守るしかないのですね」
「あぁ。だが困難には力になろう」
二人はそっと月夜に祈った。
*
雪湖は夢見心地だった。
出来上がった神たちに、口々に赤酒を褒めてもらった。自分の社にも欲しいと言われて、舞い上がりそうだった。
ふわふわとしているのは、彌比咩たちに着せてもらった袴のせいだけではないだろう。
『ここにおったとか、雪湖』
宴の輪を外れて、雪湖は池に映る月を眺めていた。草千里ヶ浜の外れにある池には、月がゆらゆらと浮かんでいる。
声を掛ける健磐の頬はうっすらと赤く染まっていた。酒好きのこの神様にしては珍しい。きっと他の神々の酌を受けて回っていたのだろう。
健磐は雪湖の隣に腰掛けた。
『皆が喜んどる……。雪湖、ほんなこつありがとな』
「お礼を言うのは私の方だよ。……健磐、こんな素敵な体験をさせてくれてありがとう」
ふたりは微笑み合う。そして沈黙が落ちた。遠くで宴の声が聞こえる。
「あの!」
『あの!』
ふたりの声が重なった。
「たっ健磐からいいよ!」
『いや雪湖から話してくれ!』
押し問答が続くが、結局口を開いたのは雪湖だった。
「藤崎宮での話……。私、は……健磐には消えてほしくないよ」
雪湖は健磐の顔を見ることができなかった。水面に視線を落とし、横顔に健磐の視線が刺さるのを感じる。
「でも好きなの……!」
再び沈黙が落ちた。雪湖は健磐の貌を見ることができずにいたが、あまりに長い沈黙にとうとうちらりと視線を隣に向けた。
健磐は先ほどよりも赤くなってしまっている。これは酒が回ったせいばかりではないだろう。
「た、健磐……?」
呼ぶ声に、健磐はばっと顔を上げた。
『儂が先に言おうと思っとったとに! ずるか!』
あまりな物言いに、雪湖は面食らう。
「なっ……! 健磐が先に言えって言ったんでしょー!? だいたい私は藤崎宮でもう言ったもん!」
『直接じゃなかったたい!』
息も荒くふたりは言い争う。健磐もあの時に「惚れた」と言ったのだが、それさえも二人は気付かない。
言葉が尽きたころ、健磐は真剣な顔をした。
『儂は、雪湖が好きじゃ』
突然まっすぐな目を向けられて、雪湖の心臓は跳ねる。健磐は続ける。
『だけどそのことで雪湖を苦しめたくはないし、みすみす消えるつもりもなか。それに儂はこの地が好きじゃ! 悪いが儂は欲張りじゃぞ?』
「でも……禁忌だって……」
健磐は雪湖の手を掴んで立ち上がった。そして神々の宴の輪へと向かって歩き出す。
『八百万の神がおるんじゃ。許しを請おう。誰か知恵を持っとる者がおるかもしれん』
健磐は肥後もっこすを体現している。頑固で駆け引きが苦手、でも純粋。典型的な熊本男児だ。二千年もこの地を治めてきた神だ。人の方が彼に影響されたのかもしれない。
健磐は雪湖の手を引き、ぐんぐん歩いていく。
『皆の衆! 聞いてくれ!』
酒宴に興じていた神々が、いっせいに雪湖たちの方を見る。雪湖は逃げ出したくなる気持ちを必死で抑えた。
『儂はこの雪湖が好きじゃ! 共に生きていきたいと思っとる。じゃが禁忌は承知。どなたか許されるその術を知ってる者はおらんか』
ざわめきが広がる。当然だ。人と神との恋は古来より禁じられたもの、と誰もが知っている。
健磐の問い掛けに答える者がいないまま、戸惑いばかりが神々の間には広まっていく。
やはり駄目かと雪湖が思い始めたときだった。
『健磐龍命、雪湖殿の了承は得ているのですか?』
前に進み出たのは、紫の生地に金糸が織り込まれた袍を纏った老父だった。
『大国主神……』
出雲大社の祭神だ。縁結びの神の代名詞を持つ彼の視線は、雪湖に注がれている。
『もちろんじゃ』
健磐が肯定するも、大国主神は雪湖を見続けていた。雪湖の返事を聞きたいのだろう。
「……禁忌だということは分かっています。健磐は阿蘇神社の神……。本来ならば関わり合うことのない存在です」
健磐も大国主神も、雪湖の言葉に聞き入っていた。雪湖はそこで一旦言葉を切ると、深く息を吸い込んだ。
「それでも出会ってしまった……。私は健磐が好きです。だけど、だからこそ消えてほしくなんかない……。健磐は阿蘇神社になくてはならない存在です。どうか、知恵をお貸しください」
そう言って雪湖は頭を下げる。健磐はそんな雪湖を何か言いたげに見つめ、そして同じように頭を下げた。
『神と人との恋は、禁じられているわけではないのですよ』
え、とふたりは顔を上げる。
『人の命は短い……。健磐龍命は二千歳を超えましたか。健磐龍命は雪湖殿が亡きあとも、この世を儚まずにいられますか?』
大国主神の強い視線を受けて、健磐は一瞬押されたようだった。だがすぐに持ち直す。
『先のことは分からん……。じゃが儂は雪湖を死ぬまで大事にすると誓おう』
大国主神は満足そうに頷いた。
そんな神に雪湖はおずおずと口を開く。
「あの……。でも消えてしまうっていうのは……」
『あぁ。昔、あなた方と同じように恋に落ちた神と人がいたのですよ。彼らは共に生きるため、神の立場を捨て人に下った……。それが捻じ曲がって伝わってしまったのでしょう』
神ではなくなったから、その神が消えたと伝わってしまった。真実を聞いて雪湖はへたり込んでしまう。
『雪湖!』
だがすぐに健磐がそれを支えた。
「私……健磐が消えてしまうかと思って……」
雪湖の目には涙が浮かんでいた。健磐はそっと涙を拭う。
大国主神は楽しそうな笑顔を雪湖に向けた。
『雪湖殿が神になるという方法もあるのですよ? どうです、赤酒の神にでもなってみませんか?』
『駄目じゃ!』
本人よりも先に、健磐の否定の声が飛んでいた。大国主神も雪湖も驚いて健磐の顔を見る。
思わず言ってしまったようで、健磐は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
『だって……雪湖には望みがあるじゃろ……?』
雪湖はくすりと笑う。
「大国主神様、せっかくですけど私は神様にはなれません。だって私は、うちの酒蔵を繁盛させなきゃいけないから!」
全ての始まりは、この願いからだった。
立派な杜氏になること。その願いを酒好きな神が聞いた。
大国主神は振り返る。
『さぁさぁ皆さん! 飲み直しましょう! この国の神と人の子の恋路を祝して!』
そして杯が掲げられた。
*
阿蘇の大地を黒く染めた野焼きの火は、この地に春を呼ぶ。
緑が芽吹き桃色のミヤマキリシマが咲き誇る阿蘇の草原を、仲睦まじく歩く神と人の姿があったという。




