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第七章 「闇よりも深い暗闇」

「ね、ところでジークさん」

 服の袖で泣き腫らした目を拭いながら、スゥは不意に言った。

「この人だれ?」

 アトルを指差してそう尋ねる。

「ああ、コイツはな、アトル・アルトっつって、この国で一番のお偉いさんの息子だよ」

 ジークはどうでも良さそうに紹介した。

「一番のお偉いさん、とは心外ですね」

 そこにアトルが口を挟む。

「今のスピルナ公国は平等主義ですから、父上もただ単に民の代表であるだけで、それ以外は他の国民と何等変わりのない存在です。僕にしたって、アルデバラン公の息子であるからといって偉ぶるつもりなどありません」

「……だそうだ」

 熱っぽく言うアトルに、相変わらず面倒臭さげな様子のジーク。

「ふーん」

 スゥはアトルに一瞥を投げかけると、ジークの方を振り返ってこう言った。

「……ジークさん、お腹減った」

「なんか色々と酷い!」

 スゥが放った意外過ぎる言葉に、思わずアトルが突っ込む。

「まったく、あなたたち二人を助けたのは誰だと思ってるんですか。あの時、もし僕が駆け付けていなければ、あなたたちはとっくに命がなかったんで――」

「ふあ、ジークさん、お馬さんがいるよ!」

 アトルが乗ってきた鹿毛の馬を見つけて、スゥはアトルの言葉を遮って嬉しそうな声を上げる。

「この子、アトルさんのお馬さん?」

「……そうです。僕の愛馬で、名前はフォーマルハウトと言います。尤も、僕は簡単にハウトと呼んでいますが。素直で足の速い、良い馬ですよ」

 アトルは不本意そうに紹介した。それを聞いてか聞かずか、スゥはさっきまでの様子から一変、たっと素早くフォーマルハウトに駆け寄る。ハウトは真っ黒な瞳でスゥを見つめると、嫌がるそぶりも見せずに自ら首を下げて、スゥが差し出した手に撫でられた。

「初めて会ったばかりなのに、ハウトに警戒されないなんて、驚きですね」

 その様子を見ていたアトルが言葉通り驚いた様子で言う。

「ああ、何だか知らないけど、極端な動物好きらしい」

 ジークもスゥの様子を眺めながら言った。

「それで、今更ですけどこのお嬢さんはどちら様で?」

「あたし、スゥ・ロ・ヤマ・イシュラーグ」

 アトルの言葉に振り返ったスゥは、無意識の内に頭に被った帽子の柔らかい鍔を頭の両側に手で押さえつけて耳を隠しながら自己紹介した。

「一目見た時からまさかとは思っていましたが、『精霊族』の子ですか?」

 アトルはスゥの様子を観察しながら言った。

「……まあ、そうだな」

 アトルはスゥの看病をした時にスゥの耳を間違いなく見ている。いまさら隠すことなど出来ないし、その必要もない。それでも、この事を人に明かすのは気が引けた。

「ところで、ジーク殿、さっきの話ですが」

 とアトルはスゥから目を離しつつ、話題を変える。

「改めて、どうです? 悪魔との戦いにおいて、我々精鋭部隊トランプの協力が得られるのは、あなたにとっても好都合のはず」

「ああ、そう、そうだったな」

 ジークはあくびをしながら言った。

「それで報酬をどうするかだったな。なあ、スゥ、なんか欲しいものないか?」

 ジークは気のない声でスゥに尋ねた。

「うん、あるよ。ジークさんの愛!」

 スゥはジークが恥ずかしくなるような言葉を当然のように言ってのける。

「あ、あのなぁ、人前でそういう誤解を呼ぶような事を言うもんじゃないぞ……」

 ジークはアトルの様子を窺いながら言った。スゥに言わせたいように言わせていると、要らぬ誤解を招くことは必至だ。何しろスゥがこういう事を言う時は冗談なのか本気なのか分からないから怖い。

「んじゃ、人前じゃなかったら好きなだけ言っていい?」

「いや、そういう意味じゃない……っていうかいつの間にか話がずれてる」

 ジークは照れを隠すように頭をかいて、とにかく話を元に戻そうとした。ジークはとりあえず、さっきのジークとアトルの会話を知らないスゥに、今の状況―悪魔に関する事でアトルがジークに協力を要請していること、しかし報酬に関して話がまとまっていないこと―を説明した。

「……それじゃあたし、おいしいものいっぱい食べたい!」

 なんとか話を理解したらしいスゥは嬉しそうに提案した。

「だそうだ」

「あ、たったそれだけですか?」

 もっと高級な物を要求されると踏んでいたアトルは拍子抜けした声で聞き返す。スピルナ大公の息子であるアトルからして見れば、この国の最高級の食事を用意することもさほど難しくはないのだ。

「安い分には別にいいだろ。ただし、具体的にどう協力するかに関してはオレの意思を優先させてもらう事になると思うが、それで大丈夫か?」

 ジークは予防線を張る事を忘れなかった。国家に縛られないリィトとしては、対等な取引とは言え一つの国に深く係わり合うことは禁物だ。それに、スゥが実は悪魔かそれに類するものであり、同時に敵の目標であるという情報は、本人の為にも軽々しくあけわたす訳には行かない。

「あなたがリィトである以上、それは仕方がありませんね」

 アトルは多少不本意そうな表情を見せつつも、その要求を受諾した。

「それでは、報酬に関してですが」

 とアトルは続ける。

「ご存知の通り、今から十二日後の五月十日から一週間は、スピルナでは十二年ぶりのクレオスナ祭が行われます。ですから、その時にフェルメ・エトワル城で開催される予定のパーティーにご招待する、というのではどうでしょう。もちろん、スピルナでもトップクラスのシェフの料理が沢山用意されますよ」

「ふわあ、お城でのパーティーだなんて、ロマンチックで面白そうだね、ジークさん!」

 スゥはフォーマルハウトの首に抱き着きながら感嘆の声を上げた。

「ああ、そうだな」

 ジークはスゥの調子に合わせて曖昧な声で言ったが、心の中では一抹の不安を抱えていた。ジークもスゥも、今は純粋にパーティーを楽しめるような状況ではない。だからこそ時にはこういうリフレッシュも必要なのだろうが、もしパーティーの途中で悪魔に襲われるような事があれば、大きな被害も出るだろうし、そうでなくても他のパーティーの客に迷惑をかけてしまうことは間違いない。

 それに、ジークから見て今のスゥは普段に比べてどこか明る過ぎるようにも感じた。あんな事があった直後なのだから、普通なら落ち込んだりふさぎ込んでしまって当然だ。もしかすると、アトルがいるために無理に明るく振る舞っているのではないかとジークは不安に思った。

「そういう事なら、とりえず先ずはゴールテス地方に向かう事になるのか?」

 心中の不安を押し隠して、ジークはアトルに尋ねた。

「ごーるてすちほう? ジークさん、それってどこにあるの?」

 とスゥが口を挟む。

「ゴールテス地方は、この国の最東端にある地方です」

 とアトルが説明する。

「この国が公国になる前から、ずっとこの国の首都として使われている街、アルスがある地方です。当然、父上の屋敷もスピルナ精鋭部隊であるトランプの本部もここにあるので、ジーク殿の言う通り、まずはそこに行くべきでしょうね」

「ふーん、それじゃあさっきいってたお城っていうのもゴールテス地方にあるの?」

 スゥが尋ねる。

「ああ、そうだ。スゥにしては勘がいいな」

 とジーク。

「ジークさん、一言よけい」

 と膨れっ面をするスゥ。

「……それでは、ずっとここにいても仕方ないですし、そろそろ出発した方が良さそうですね」

 タイミングを見計らってアトルが提案する。

「ああ、そうだな。行くぞ、スゥ」

 ジークは地面に置いてあった荷物を拾い、立ち上がりながら、スゥに向かって言った。しかしその時、ベリウスの尾に貫かれたジークの脇腹を予想外の強い痛みが襲った。ジークは小さく呻いて、地面に膝をつく。

「ふあ、ジークさん、だいじょうぶ!?」

 その様子を見たスゥがすぐに駆け寄って来て心配そうな声を出す。

「……大丈夫だ」

 ジークはそう答えたが、それは明らかな強がりだった。

「一応応急処置はしたのですが、悪魔の攻撃は貫通していましたから、痛むのは当然ですよ。どうやら無理せず、できるだけゆっくり歩いた方が良さそうですね」



「そういえば、アトルさん」

 三人と一頭がゴールテス地方に向けて出発して数日がたった頃、スゥは後ろで馬を牽きながら歩いているアトルに向かって声をかけた。

「なんですか、お嬢さん?」

 アトルが尋ねる。

「アトルさんは、ジークさんとはどういう関係なの?」

「ああ、そのことですか」

 アトルは納得したように頷いた。

「スピルナ動乱の事は知っていますね?」

 アトルの質問に、スゥはこくりと頷いた。

「では、その戦争の時にジーク殿が、戦争に関係ない人々を戦禍から護るために戦っていたことは?」

「知ってる」

 とスゥは短く答える。

「ジーク殿は果敢に戦っていましたが、ただ軍隊の略奪から人々を護るだけでは、本当の意味での解決にはならない。人々の命を救うには、まず何よりこの戦争自体を終結させなければならない。そう考えたジーク殿は、同じ目的を持っていた僕達アルト家と一時的に手を組み、共に戦争を終わらせるために戦ったのです。それが、僕とジーク殿の関係です」

「ふーん」

 スゥは左の人差し指の先を自分の小さな顎に当て、半ば考え込むように言った。

「それじゃあ、今のこの国があるのは、ジークさんのおかげなんだね!」

「……別にオレがいなくても、結果は大して変わらなかっただろうよ」

 前を歩いていたジークが謙遜するように口を挟む。

「結局、今のスピルナ公国を作り上げた張本人は、他の誰でもなく、アルデバラン・アルトただ一人だよ」

「それって、たしかアトルさんのお父さんだったよね?」

 スゥが確認する。

「そうです。立派な方ですよ、父上は」

 とアトルが少し誇らしげに言う。

「ですが、ジーク殿の力添えがなければ今ほどうまくいってなかっただろうという事も、間違いありませんよ。人間に住めるような土地では、ジーク殿程の強さを持った戦士は、まず生まれませんから」

 とアトルは付け足すように言った。

「ふえ? それってどういう意味?」

 スゥが意表を突かれて聞き返す。

「んじゃ、ジークさんの出身地って、どんな所なの?」

「それは……」

 アトルはにわかに口ごもった。そしてジークに気遣わしげな視線を向ける。ジークは小さくため息をついた。

「そのことは、その内話してやるよ」

 ジークは言った。スゥは微かに不満そうな顔をしたが、あえてそれ以上言及することはしなかった。

「悪いな、スゥ」

 スゥのそんな様子を見て、ジークは心から済まなそうに謝った。

「ううん、だいじょうぶ」

 スゥはそう言ってほほ笑んだが、無理に笑っていることはジークにはすぐに分かった。

「あ、そろそろ次の村が見えてきたようですね」

 その時アトルが言った。その言葉通り、街道の遥か先には木造らしい家々の影が小さく見えていた。

「ああ、たしか、ロルノ村って村だったか?」

 ジークが思い出すように言った。

「多分そうですね。僕は、このあたりの地理に関してはあまり詳しくないのですが」

「前から思ってたけど、ジークさんって物知りだね」

 スゥは隣を歩くジークの顔を覗き込むようにして言った。

「ん? ああ、そうかもな」

 ジークはどうでも良さそうに言う。

「でも、実際は見た目ほど大した事はないぜ。ただ、リィトとしては地理の知識は必要だからな。それに、こうしていろいろな所を旅してれば、嫌でもある程度の知識はつくさ」

「そっか、そうだよね」

 スゥは納得したように頷いた。

「あたしは、ずっと山の中にある小屋で暮らしてたから……家には本が沢山あったけど、読み書き出来ないから、読んだこともないし」

「お前の養父は教えてくれなかったのか?」

「うん。あたし自身、読み書きできなくても不便な事もなかったから、教えてもらいたいって思ったこともなかったの」

 スゥは人差し指を顎に当てて言った。

「文字も知ってると役に立つぜ」

 とジークが言った。確かに山奥では文字が読めなくても問題はないかもしれないが、人の住む街ではそうはいかない。

「それじゃ、今度ジークさんに教えて貰っちゃおうかな」

「ああ、今度な」

 とそっけなく答えるジーク。

「ジークさんのめんどくさがり~」

 スゥはジークを軽く睨みつけて言った。それをはぐらかすように、村の様子を見ようと歩調を速めたアトルに続いてスタスタと先へ行くジーク。スゥは頬を膨らませて後を追った。



「……なんだか、妙ですね」

 村にたどり着いた時、アトルが不意に言った。

「ああ……」

 ジークも妙に静かな声で返す。

 ロルノ村は茶色い木造の家々が建ち並ぶ、ごくごく普通の村だった。そこら中に真っ黒な羽根が不自然な程に多く散らばっている事と、人間が一人もいない事を除けば。一目見ただけでも、この陰湿な空気の漂う村に、少なくとも今は人がいないことはすぐに分かった。

 道の真ん中には、手押し車が一つ、荷物を載せたまま横に倒れていた。その車輪によって刻まれた轍は車が倒れている場所まではくっきりと残っていた。その轍の左右には手押し車を押していた男の物と思われる足跡が刻まれている。そこにもやはり黒い羽根が落ちていた。そしてその足跡は、手押し車のある地点でぱったりと途切れていた。その足跡の持ち主が、そこから立ち去ったような様子はなかった。

 そんな奇妙な状況がそこかしこにあった。不自然な場所に置かれたバスケットや開きかけのドア、道端に転がる鞠に、道の途中で途切れた足跡。番犬を家に繋いでいた物と思われる鎖は、何も繋がずに地面に横たわっていた。そうした事柄どれもが、ある一時まではこの村で人々の普通の生活が営まれていた事を示していた。そしてその次の瞬間にそれが全て奪われた事も。そうした現場の周りには、必ずといっていいほどあの黒い羽根が落ちていた。

 村の中は、まるで水を打ったかのように物音一つしなかった。スゥがその不気味な様子に怯えて、ジークの後ろに隠れるのが分かった。

 雰囲気としては、前に目の悪魔であるグルナに見せられた幻覚の中にあった幻の町に似ていた。もしかすると、また悪魔の罠かもしれない、とジークは警戒を強める。

「……ジークさん、ここには、悪魔は一人もいないよ」

 ジークの様子を見たスゥが、今にも消え入りそうな震える声で言った。

「だって、悪魔の気配は聞こえないもの」

「前から気になってたんだが、お前は人の気配を耳で聞けるのか?」

 そんな話をしている場合ではないと思いつつも、ジークの理性は好奇心に勝てなかった。

「ふえ、それじゃ、ジークさんには聞こえないの?」

 スゥは逆に驚いたように聞き返した。それを聞いたジークは、もしスゥが生れつきそういう能力を持っていたなら、むしろスゥにとってはそれが普通ということになるのだと言うことに気がついた。人間から見れば鳥が空を飛ぶのは奇跡のように見えるが、鳥からすれば人間が空を飛べないことが理解出来ないのと同じだ。

「ああ、普通の人間には聞こえない」

「そうなんだ……」

 スゥは不安げな声で言った。

「ジーク殿」

 その時、アトルが声をかけてきた。

「もしかしてこれは、悪魔の仕業でしょうか?」

「分からない。少なくともオレが今まで戦ってきた悪魔に、こんな能力を使うやつはいなかった……」

 ジークはアトルを振り返りもせずに、不安を隠せない様子で言った。そしてたまたま目の前に落ちていた黒い羽根に手を伸ばす。

「その羽根には、触らない方がいいのでは?」

 それを見たアトルの意見に、ジークは手を止める。

「……そうだな」

「恐らくは、新手の悪魔の仕業でしょうね」

 とアトルは意見を述べる。

「詳しいことは解りませんが、被害があったらしい場所の周りにあったことを見ると、もしかするとこの黒い羽根に触れたせいで、村人が消えてしまったのかもしれませんね」

「もし、お前の言う通りなら、そいつは今までの悪魔とは比べ物にならないほど強力な悪魔だな」

 ジークは畏怖の篭った声で言った。あの強靭な九本の尾を使うベリウスにさえ、ジークではまったく歯が立たないのに、それよりさらに危険な悪魔が居るというのか。

 ベリウスの話では、悪魔にはそれぞれ司る体の部分がある。羽根を使って人を殺すということは、恐らく犯人は『翼』を司る悪魔なのだろう。

 その時、近くの家でかすかに物音がした。ジークが振り返ると、一人のやつれた男が家の扉を少しだけ開いて、周りの様子を窺っていた。そしてジークとスゥとアトルの姿を見ると、少しの間警戒するように観察していたが、ジーク達が普通の人間らしいと分かると、こちらへ来るようにと手招きした。

「なあ、あんたら……旅人かい?」

 ジーク達が近づくと、男は震える声で尋ねた。

「ええ、そうです」

 アトルが答える。

「じゃあよ、その辺りで、真っ黒な人影を見なかったか?」

「見てないな」

 今度はジークが答える。真っ黒な人影が悪魔を意味していることは、容易に予測がついた。

「そりゃよかった。なら、家んなかに入ってくれ」

 男はそう言って扉を開き、ジーク達を家の中に招き入れた。


 木造のその家は、どうやら食料品店のようだった。狭い部屋の中には、何人かの男女が座っていた。新たに入ってきた三人の顔を見て、一瞬体を強張らせる者もいたが、ただの旅人であることを説明されると、安堵のため息をついた。しかし、その内の一人はその言葉を信用しなかった。

「こいつらがあのバケモンの仲間じゃないと、どうして言える?」

 その男は言った。その声も、やはり震えていた。

「もしそうなら、今頃私達はもう死んでるはずじゃないの? でも、そうはなっていないわよ」

 と隣に座っていた女が少し棘のある言い方で言う。

「ともかく、まずは話を聞かせてくれないか?」

 別の若い男が言った。

「外はどうなってる? あの黒い影はまだいるのか?」

「いえ、僕達は、村では誰も見かけませんでした」

 とアトルは答えた。

「それで結局、この村で何が起きたんだ?」

 ジークは単刀直入に聞く。

「分からねぇ……」

 若い男は目を伏せて言った。

「三日も前か……あの真っ黒い影が現れて、突然その黒い翼を広げて、真っ黒な羽根を撒き散らしたんだ。すると……その羽根に触れた奴はみんな、でっかい黒い球に包まれて、次の瞬間には跡形もなく消えちまったんだ!」

「そんな中、俺達はなんとかこの店の地下室に逃げ込んで、隠れてたんだ。この三日間、奴に見つかることが怖くて、外に出ることも出来なかったんだ」

 信用しなかった男が引き継いで言った。

「やはり、僕達が予想した通りでしたね」

 アトルはジークに耳打ちした。

「なあ、一体アイツは何だったんだ!?」

 若い男が恐怖からか少しヒステリックになった様子で言った。

「あれは、悪魔です」

 アトルが言った。

「元々はこの大陸の北の果てに住んでいた種族ですが、最近、その一部がスピルナ公国に入り込んで、人々を襲っているんです」

「あんたら、どうしてそんな事知ってるんだ?」

 年配の男が聞いた。

「オレ達は、その悪魔達と戦ってるんだ」

 とジークが答えた。

「この村を襲った奴の特徴を教えてくれないか?」

 ジークは続けて尋ねる。

「真っ黒な姿の少年だ。髪は長くて、耳は尖んがってる。背中からは体の色とおんなじような真っ黒な翼が生えている。それに、目つきが鋭い」

 年配の男は言った。

「さっきコイツが言った通り、その翼から羽根を撒き散らし、それに触れた生き物は、消えちまうんだ。後には何も残らない」

「貴重な情報を、ありがとうございます」

 アトルがお礼を言った。

「なんの事はない。それよりあんたら、悪魔と戦ってるってんなら、きっと俺達の仲間の敵を討ってくれよ! それが情報料だ」

 年配の男は鋭い目つきでジーク達を見つめ、言った。

「もちろん。きっとご友人の敵は取って見せます」

 アトルは真摯な声音で言った。

 その後、悪魔がもう村にいない事を確認した村の生き残り達は、持てるだけの荷物を持って、新天地を求めて隣町へと旅立って行った。


「……ジーク殿」

 村人達を見送った後、アトルがジークに声をかけた。

「何だ」

 ジークは短く聞き返す。

「僕はこの事をすぐにでも父上に報告しなければなりません。あなたは深い傷を負っているし、僕と違って馬も持っていない。そこで、僕は先にアルスに向かい、ジーク殿とは、後からアルスで合流する、という事でどうでしょう」

「そうするのが最善だろうな」

 ジークが答える。

「では、僕はすぐに発ちますが……」

 アトルは念を押すように続けた。

「逃げないでくださいよ」

「……ああ」

 ジークは少し間を置いてから答えた。それを確認したアトルは、すぐさまフォーマルハウトにまたがり、惨劇の跡が残る道を走らせて行った。


「ジークさん……」

 その日の夜、ロルノ村から離れた所に作った夜営地で、さっきからずっとたき火ばかりを見つめているジークに向かって、スゥは遠慮がちに声をかけた。

「どうした、スゥ」

 ジークはパチパチと音を立てるたき火から、目を離さずに言った。

「だいじょうぶ? ジークさん、何だかずっと元気ないよ」

 スゥはジークを見つめて言った。

「そんな事……ねえよ。心配してくれてありがとな」

 ジークは少しほほ笑んでそう言ったが、それが強がりであることは目に見えていた。それを見て、スゥの中に生まれたある懸念は、より一層確かな物になった。

 本気を出したベリウスの圧倒的な力に負けた事、そのベリウスよりもさらに強いかもしれないという悪魔の出現、そして何よりスゥが悪魔であったという事実。この数日に起こったいくつもの辛い現実が、ジークを苦しめている事はスゥにも分かった。

 聞いた話によると、ジークは今まで、己の力を信じて、人々を護るために戦ってきたのだという。そして事実、数え切れない数の人々の命を救ってきた。それが今、現在のジークの力ではどうしようもないような状態になりつつあるのだ。羽根に触れさせるだけで人間を消せるかもしれないような敵から、所詮生身の人間であるジークがどうやって人々を護ることができるだろうか。

 そんな数々のプレッシャーに、今のジークは押し潰されそうになっているのだ。そして、何よりも問題なのは、ジークが無理だと分かっていても、それらの重荷を一人で背負おうとしていることだった。

 スゥが見たかぎりでいえば、ジークはどうやら、責任感が人一倍強い性格のようだった。特に自分の事に関しては、誰にも相談さえする事なく、自分一人で背負おうとしている。その上に、他人の事まで護ろうとしているのだ。

 スゥは、四年前、ジークがスピルナの地を踏む以前の事は、ほとんど聞いたことがない。知っている事はただ一つ、レイアークでカレハから教えてもらった、ジークの出身はガブル平原であると言う情報だけだ。

 スゥは、スピルナの西に広がるガブル平原がどんな場所かはまったく知らない。カレハも、その事は知らない方がいいと言って、教えてくれなかった。

 ただ、一つ分かっているのは、そのガブル平原での経験が、現在のジークの人格の形成に重大な役割をになっていたという事だ。きっとそれゆえ、ジークはガブル平原の事を話したがらないのだ。

 だから、スゥにはジークの本心がまったく分からなかった。ジークがどうしてこれほど他人を護ろうとするのか、その理由が分からないのだ。

 しかし確かなのは、ジークがどれほど強い精神力の持ち主であるにせよ、今のように不安とプレッシャーを抱え込んでいては、いずれジークの心はくじけてしまうだろうという事だ。

 スゥにとって、そんな状態のジークが少しでも自分を頼って、相談してくれないことが不満で、寂しくもあったが、それよりもスゥの心を強く締め付けているのは、ジークの感じているいくつものプレッシャーの内の、ほとんどの原因となっているのが、他でもないスゥ自身だということだった。

 悪魔たちはジークではなくスゥを狙っている。本当はそんな事は、とっくの昔に気がついていた。今までジークに拒絶される事が怖くて、ついに言い出せなかったが、スゥには以前から自分が《魔之手》の力を持っているという自覚があった。自分の瞳の色や尖った耳が、自分が異形の者であることを示していることも、自覚していた。

 そして、パテルで初めてメトネスに出会った時、メトネスが自分の事を『疫病神』と呼んでいた事も、幻の町でメトネスが自分の名前を呼んだ事も、当然聞き逃してはいなかった。

 自分のせいで、ジークは悪魔と戦う羽目になった。自分のせいで、ジークはいくつもの傷を負った。その中でも特に大きかった二つの傷は、今も自分には見えない所でジークに苦痛を与えているだろう。そして今度は、悪魔の一人であるという自分自身の存在が、ジークの悩みの種になっている。

 スゥはキリキリと胸が締め付けられるように痛むのを感じた。全部自分のせいだ。もし自分がいなければ、少なくともジークは今ほどの痛みにも、苦悩にも襲われなかったはずだ。ジークがこんな自分を受け入れてくれる心優しい人間であるという事を思えば思うほど、それを苦しめる原因となっている自分への憎たらしさが込み上げてきた。

 あたしは悪魔だ、とスゥは思った。悪魔はどんな形であろうと人の役に立つことなど出来ない。人を助けたり、守ったりする事など出来はしない。悪魔にできるのは、人を傷付け、苦しませる事だけなのだ。それが現実だ。

 ならば、ジークの為にもし自分にできることがあるとすれば、それは一つしかない。その答えは、すでにスゥには分かっていた。

 ただ、それはスゥにとって最も辛い選択だった。決断を迫られたスゥは、汗の滲む両手を、胸に満ちた不安を押し隠すように胸に当てた。

 ジークが寝入ってしばらく経ち、スゥはジークに気づかれないように静かに毛布から抜け出した。



 次の日の朝、夜明けとともにジークが目覚めると、スゥが包まっていたはずの毛布は空だった。

 ジークは始め、スゥは体を洗うために川にでも行ったのだろうと思った。そこで地面にあった毛布に触れてみると、それは冷たかった。つまり、スゥがこの毛布から出てから、それなりの時間が経っていると言うことだ。しかし、その頃はまだ夜は明けていなかったはずだ。まだ日も昇らない内に川になど行くはずはない。そこにきてジークは初めて、この状況が何かおかしいと思いはじめた。

 ジークは上体を起こし、辺りを見渡した。木々が一面に生い茂っている林のどこにも、スゥの姿はなかった。念のためスゥの名を呼んでもみたが、返答は無かった。

 漠然とした不安を感じ始めながら、ジークは脇腹の痛みを堪えて起き上がった。なにしろ、あのベリウスの強靭な尾に貫かれたのだ。もしあの時すぐにアトルに手当をしてもらっていなかったら、とっくに自分は死んでいただろう。アトルやスゥの手前、旅をしていた間は必死に堪えていたが、この傷の痛みはレイアークで受けた物とは比べ物にならなかった。

 それでもなんとか立ち上がると、ジークは周囲の地面を調べはじめた。そしてほどなく、スゥが立ち去った時の物と思われる、スゥのサンダルの足跡を発見した。その足跡は、ジーク達の進行方向に向かって左、つまり川のある北の方角に続いていた。

 ジークがその足跡を辿って行くと、当然ながら川辺にでた。川の幅は3メートル程で、ちょうど浅瀬なのか川底は浅く、50センチくらいだった。

 スゥの足跡は、川の前で途切れていた。反対側の岸をざっと見回したが、足跡らしき物はない。

 いくらスゥでもこんな浅い川で溺れたりするはずはない。だとすれば、スゥは意図的にこの川を渡ったと考えるしかない。川を通れば足跡が途切れて追跡はできなくなる。スゥの考えにしては上出来だ。尤も、今は感心している場合ではない。

 ふとジークは、エスル村での出来事を思い出した。あの時もスゥは、どういう訳か何も言わずにレインディア亭を抜け出して、物置に隠れていた。幻の町での事といい、まったく、どうしてスゥはこうもすぐに居なくなるのだろうとジークはため息をついた。相変わらず、スゥの考える事はどうしても理解できない。

 しかしそれはともかく、今は早くスゥを見つけ出さなければならない。もしもスゥが悪魔の手に落ちたらと考えると、ジークは底知れぬ恐怖に襲われた。それはスゥの持つ絶大な力が敵の手に渡るからという理由などではもちろんなく、純粋にスゥ自身の身を案じるからだった。

 しかし、川で足跡が途切れてしまった今、どうやってスゥを見つければいいのだろうか。スゥのように気配を『聞く』事さえ出来れば、とジークは思った。そうすれば、すぐにでもスゥを見つけられるのに。

 ジークが途方に暮れていると、不意に近くの木の上でガサガサと音がした。

「あの小娘のこと探してんなら、さっき川のここから三百メートルほど下流で見かけたぜ」

 その木から声がした。

 ジークが振り返ると、ちょうど茶色い毛に包まれたイタチが、スルスルと木を降りて来ている所だった。その首には、鮮やかな緑色の宝石がぶら下がっている。

「リゲル、こんな所で一体何してる」

 ジークはその喋るイタチ・リゲルに尋ねた。ジークとしてはすぐにでもスゥの捜索に行きたいところだが、わざわざリゲルが来たからには、何か重大な連絡があるに違いなかった。

「ジーク、テグレスからお前に言づてを預かってる。手短に話すぜ」

 そう言いながら、リゲルは地面を走ってジークの元にたどり着き、素早い動きでその肩の上まで登っていった。そしてリゲルが言った言葉は、ジークにとって嬉しくない物だった。

「……あの紫の眼の娘には関わるなってよ、テグレスが」

 その思いがけない言葉に、ジークは眉をひそめた。

「なんでだよ」

 言伝を預かっただけのリゲルには何の罪も無いことは分かっているが、苛立ちのせいでつい突っ掛かるような口調になってしまう。

「いいか、良く聞け……あの娘は悪魔の一員だ。それも、やつらの中でも特に強い部類に入るらしい」

「知ってる」

 リゲルの説明に、ジークは即答した。

「知ってる!? それならなんで、敵の悪魔なんかを連れ歩いてんだ?」

 リゲルが驚いた声で聞く。

「確かに悪魔だが、あいつは他の悪魔とは何かが違うんだ。例えば、ふつう悪魔の体の色は黒だが、あいつはむしろ普通の人間から見ても白い方だ。それに、煙になって消えるような能力も無いし……なんていうか、人間に『近い』んだよ、あいつは。それに、悪魔はどうやらスゥを狙ってこの国に来たらしい。だったら、スゥを手放すってことは、やつらの目的を達成させちまうって事だろ?」

「でも、そうする事で悪魔達が用を済ませて、この国から出て行ってくれるなら、その方が良いと思わないか?」

 とリゲルが素早く反論する。そこで負けじとジークも言い返す。

「悪魔達の目的が、スゥの力を使ってより多くの人間を襲うことかもしれないだろ。いずれにせよ、悪魔の考えることなんて、人間には分からないだろ」

「オレは人間じゃなくてイタチだけどな」

「……そこは別に問題じゃないだろ」

 ジークは呆れた声で言った。

「そういう事だからとにかく、スゥの件はオレに任せてくれって、テグレスに伝えてくれ」

「で、でもよぉ……」

 リゲルはにわかに落ち着かない様子になった。

「あのテグレスが関わるなって言ってんだぜ。素直に従っておいた方が良いと思うぜ?」

 確かに、リゲルの言っていることは、ジークにも分からなくはなかった。テグレスは、長い間龍の住まう山脈に住み着き、神々の言葉に耳を傾け、世の理を見通してきた預言者だ。そのテグレスが、なんの根拠もなしにこんな事を言う訳はない。

「それは、分かってるけど……」

 ジークは尻すぼみに言った。突然、自分が分からなくなった。『分かってるけど』なんだ? とジークは自問した。どうしてオレは、こんなにも必死になってスゥの事を護ろうとするのだろうか? もしかしたら、本当にただの敵かもしれないスゥを?

 いや、そんな事は初めから分かっていたはずだ、とジークは自分でも驚くほどすぐに自答した。最初にスゥの眼を見た時から、すでに分かっていたはずだ。ただ、その事に自分自身、気づいていなかっただけなのだ。

「スゥは……初めて会った時のスゥの眼は、昔のオレに良く似てた。だから、どういう訳だかほっとけなくなっちまったんだ」

 拳を握り、俯いてジークは言った。

「……カレハが、オレを救ってくれたみたいに、オレもスゥを救ってやりたい、って思ったんだよ」

「そうか、そう言えばお前も昔はイロイロあったんだったな……」

 リゲルも思い出すように言った。

「だから、テグレスには口出しするなって言っとけよ」

 言うが早いがジークは、スゥを探すために下流に向かってさっさと走っていってしまった。突然の事に、リゲルは地面に振り落とされてしまう。

「おいおい、それを伝えるオレの立場にも……」

 一匹取り残されたリゲルは独りごちたが、どうせ説得しても無駄だと分かると観念して、再び木に登って姿を消した。


 スゥはパシャパシャと音を立てて、川からはい上がった。先ほど、リゲルが近くの木の上を走っていく音がしたのを、スゥは聞き逃してはいなかった。いずれ、自分の居場所はジークに知られてしまうだろう。

 その気になれば、居場所をジークに明かされないようにするために、リゲルを捕まえておく事も出来ただろう。しかし、スゥはそうはしなかった。恐らく、心のどこかでジークに捜しに来てほしいと思っているのだろう、とスゥは考えた。

 だいたい、見つけてほしい位ならそもそもどうして逃げ出しなどしたのだろう、とスゥは自問した。スゥは昔から、時々変に感情的な行動に走ることがよくあった。後から自分でも訳が分からなくなるような事をすることがあったのだ。

 少なくとも昨日の夜、独りで悩んだ時には、悪魔の標的である自分が、こうしてジークから離れることが、ジークの為に自分ができる最も正しい行動だと信じていた。しかし夜が明け、今になってみると、どうして自分がこんな事をしているのか、分からなくなってしまった。

 この前に自分の中に突然顕れた怒りの感情といい、スゥは自分の中にもう一つの『何か』がいるように思えてならなかった。それは普段はスゥの『怒り』と共に奥底に眠っていて、何かのきっかけで目覚め、そしてスゥを駆り立てる。

 きっとその『何か』がスゥの悪魔たる所以なのだと、スゥは予想していた。自分が怒りに駆られた時、同時にそれは眠りから覚め、そして『魔之手』の力を発動する。そして『魔之手』はスゥの怒りを暴走させ、手当たり次第にあらゆる物を破壊する―。

 このままでは、いずれ自分はジークをも傷つけてしまうだろう。スゥが何よりも恐れているのはそこだった。悪魔の力は、破壊以外の物を生み出すことはないのだから。

 だから、どちらにしろ、スゥはジークの傍に居るべきではないのだ。ジークの事を心から慕っているからこそ、彼を傷つけるようなことなど絶対にしたくない。

 そんなことは分かっているはずなのに、心のどこかでは今もジークに捜しに来てほしい、見つけてほしいと望むわがままな自分がいるのだった。エスル村でレインディア亭から逃げ出した時と、それは似たような感情だった。

 自分は今まで、ずっと周りの人々からひどい扱いを受けてきた。人々から迫害され、虐められ、傷つけられて生きてきた。ただ一人自分の事を認めてくれたシルートも、もうこの世にはいない。なにもかもを失ったスゥにとって、残された唯一の光、それがジークの存在だった。どういう訳か、ジークと出会って以来、昔ほど人々に嫌われなくなっているようにさえ思える。

 スゥにとって、そんなジークから自分を切り離すことなど、到底堪えられる事ではなかった。この十二年間、あれだけひもじい人生を送ってきた自分が、どうしてやっと手に入れたささやかな幸せまでも手放さなければならないのだろうと思う自分がいた。その自分自身の幸福に対するささやかな欲求は、ジークの為には自分は居なくなった方がいいのだという理性と葛藤し、スゥの心を引き裂こうとしていた。

 どうしていいか分からずに内心悶えていると、スゥは不意に息苦しくなって、ぎゅっと胸に両手を当てて、雑草の生い茂った柔らかな地面に膝をついた。


(……そんなに苦しいなら、全部、捨ててしまえばいい……感情も、理性も……)

 その時、スゥの中の『何か』が言った。

(そうすれば、もう何にも傷つくことはなくなる……)

(あなたは一体、何なの?)

 スゥは心の中でその『何か』に尋ねた。

(……あなたは、初めから知ってるはず……)

 『何か』は淋しげな声で言った。

(ふえ、あたしが、知ってる……?)

 スゥは戸惑った。

(じゃあやっぱり、あなたは……あたしの、『悪魔の力』……?)

(そうであるとも言えるし、そうでないとも言える)

 『何か』はややこしい答え方をした。

(もし、あえて名乗るのなら……あたしは、ヤマ)

(ヤマ……)

 スゥはその名を繰り返した。スゥ・ロ・ヤマという名前の意味は、『夜空の星』。『スゥ』が星の意、『ロ』は接続詞で、『ヤマ』が夜空と言う意味だと、養父は言っていた。自分が光を司る『星』であるなら、自分の中にあるこの『何か』は闇を司る『夜空』に値する存在だということなのか。

(そう、あたしはあなたの闇の部分)

 ヤマはスゥの考えを読んだかのように言った。いや、そもそもヤマはスゥの心の中に居る存在なのだから、事実そうしているのだろう。

(あたしたちは、かつては一つだった。でも、今はそうじゃない)

 ヤマは続けて言った。

(あなたは人の心の要素である喜怒哀楽の内の『喜』と『哀』だけを持ち、あたしは『怒』と『楽』だけを持って、あたしたちは二つに別れてしまった。そして、あたしは表の人格であるあなたが、あたしの持つ感情である怒りを感じた時に、あたしは初めてあなたの心の奥底の牢獄から解放され、その力を顕すことができる。

 だからあなたが怒りにその身を委ねれば、この体はあたしの意のままになる。そうすれば、あなたはこれ以上傷つくことはなくなる。だからあなたは、ただ『怒り』に身を任せればいい。そうすれば――)

「おーい、スゥ!」

 その時、遠くでジークの声がした。それと同時に、スゥの中からヤマの気配が一瞬にして消えた。まるで、初めから何もなかったかのように。まるで、ヤマがジークを恐れて逃げ出したようだった。

「ジーク、さん……」

 スゥは立ち上がってジークの声に答えようとしたが、急に目眩を感じてその場にへたりこんでしまった。頭の中もこんがらがっていて、混乱していた。一体自分が今まで何をしていたのかさえ、はっきりと分からないほどだった。

 ただ、そんな中で二つだけはっきりしている物があった。それは自分の中にある底知れぬ不安と、自分の耳に響くジークの声だった。



七章「Darker Than Darkness」

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