第五章 「夜空の星」
「いっただきまーす!」
スゥは、そこがまるで天国ででもあるかのように幸せそうな声で言った。
「うるせえな。もっと静かにできねえのか」
ジークは頬杖をついて窘める。
「だって、だってぇ~」
スゥは駄々をこねるように言う。もっとも、スゥが大騒ぎする気持ちも分からないではなかった。スゥとジークの目の前のテーブルには、恐らくスゥにとっては今まで見たことも無いような豪華絢爛な料理が並んでいるのだ。大食いなスゥがよだれを垂らさない方がおかしいとも言える。ジークがルネア家の邸宅に運ばれた日の夕食での事だった。怪我をしているジークをあまり動かす訳には行かないので、ジークが寝ていた客間で食事を取ることになった。
「急いで用意させたからちゃんと準備出来なかったんだけれど、喜んでもらえた様でよかったわ」
シーゼルはスゥのはしゃぎ様を見て嬉しそうに言った。
「何から何まで済まねえな、シーゼル」
ジークもジークなりに感謝の気持ちを込めて言う。
「子供はそういう事は気にしなくて良いのよ」
しかし思わずからかってしまうシーゼル。
「誰が子供だ!」
「どう見ても子供じゃない。だいたい、あなたが子供じゃないって言うならそれより八歳も年上の私はなんだっていうのよ」
「んなもんただのババ……!」
と言いかけてジークはおぞましい殺気を感じて慌てて言葉を切った。もし今の台詞を全て言ってしまっていたら、間違いなくジークの命は無かっただろう。
「……あ、いや、頼れるお姉様……ってとこかなぁ」
慌てて言い直すジーク。
「それでよし!」
とシーゼルは満足げに頷いた。
「ねえ、ジークさん、これすごくおいしいよ!」
スゥは七面鳥を頬張りながらはしゃいだ。
「ジークさんも食べたら良いのに!」
「ああ、そうだな。でも、食べ物を頬張りながら喋るなよな」
ジークは諭すように言った。そして七面鳥の肉を切り取って自分の皿に盛る。表面は程よい焦げ目がついていて、中は肉汁が溢れている。確かに美味そうだ。
「ところで、白銀の獅子、聞きたい事があるんだけど」
その時シーゼルが言った。
「昼間のあの黒い影みたいなのは、一体なんだったの? 確か、悪魔と名乗っていたけれど」
そういえば、シーゼルは悪魔の存在を知らなかったな、とジークはいまさらながら気がついた。
「ああ、その名の通りの悪魔だ。今まで北の氷原に住んでいたのが、この国に忍び込んだらしい」
ジークはそこで言葉を切ったが、シーゼルはその説明に満足していない様だった。しかし、ジークがそれ以上何も言わないのを見て、がっかりした表情を見せた。
「前から思っていたけれど、リィトのする事って分からないわね」
シーゼルは言った。
「どの国にも属さない、自由な旅人、と言うけれど、実際はどんな事をしているのかしら?」
「お前に教える義理はない」
ジークは即座に言い放った。
「冷たいわね。私とあなたの仲じゃないの」
「あのなあ……誤解を呼ぶような言い方するなよ」
ジークは後ろに感じるスゥの突き刺すような視線に戦きながら言った。
「とにかく、誰にでもホイホイ言えることじゃないんだよ。リィトの秘密はな」
ジークは気疲れした声で言った。
「それより、さっさと飯食おうぜ」
ジークのその言葉に、シーゼルは残念そうな顔をしながらも、諦めたように食事に戻った。
その夜、ジークは奇妙な夢を見た。そこには、二人の若い人影が互いの手を取って見つめ合っていた。片方は長くてしなやかな髪を持つ女性で、もう一人は背の高い男性だった。二人の奥から夕日が差し込んでいるので、その顔を判別することは出来ない。
そこは、とてつもなく広い草原だった。どこまでも続く果てしない草原は、太陽の光に茜色に輝いている。そこには、その二人以外には何もいなかった。ガブル平原だ、とジークは直感した。ジークが生まれ、育った場所。しかし、ジークの知っているガブル平原とは何かが違った。ジークが育ったガブル平原は、こんな穏やかな土地ではなかった。
ジークがそう考察している間も、二人は身動き一つせず見つめ合っていた。平原を一陣の風が吹き抜け、二人の髪をなびかせても、二人は全く動かなかった。
永遠とも思える時間見つめ合っていた二人の影は、やがて静かにそよぐ、赤い光に彩られたまるで絵画のような風景の中、名残惜しそうに顔を背けた。その時、二人の目に涙があるのを、ジークは見て取った。
そして二人は、ゆっくりと、反対の方向へと歩みはじめた。それにつれて長く延びた二人の影も、次第に離れて行く。
二人は途中、何度も立ち止まったが、振り返ることはしなかった。もしかしたら、振り返ることができないのではないかと、ジークは思った。所詮は夢の中、ありえない事ではない。
それは、あまりに哀しい情景だった。二人は互いに深く愛し合っているのに、どんな理由からか今こうして振り返ることすらできず、別れなければならないのだ。一体この夢は何を意味するのかと、ジークは訝った。ただの夢とするには、あまりにも鮮明過ぎた。が、確かにただの夢であることも、なぜか間違いなく分かっていた。
二人の距離は次第に広がって行き、ついにはジークは二人を同時に視界に入れることもできなくなった。そこで二人は一際長いあいだ立ち止まり、しかしやはり振り返ることはせず、やがて別々の道を去って行った。その二人の別れに、ジークは何もしてやることができなかった。それが何よりふがいなかった。
次の朝、ジークは哀しい気持ちのまま目覚めた。一瞬寝ぼけて、なぜ自分はこんなに哀しいのだろうと考えて、次の瞬間、昨夜に見た夢の事を思い出した。まだ多少フワフワした気持ちのまま、夢の意味を考えたが、まったく何も思い浮かばなかった。
「ふあ、おはよ、ジークさん」
隣のベッドでは、ちょうどスゥも目覚めたところだったようで、寝ぼけ眼でジークを見つめているのが背中で何となく感じられた。
「ああ、おはよう」
とジークは適当に返す。何気なく窓を見ると、明るい朝の日差しが差し込んでいる。あの夢の事がなければ、爽やかこの上ない朝になっていただろう。
「スゥ、お前……」
まだ起き上がるのは面倒なので寝返りを打ってスゥを見た瞬間、ジークはあることに気づいてしまい、急いで赤面した顔を背けながら、おどおどと言った。
「めくれてる……ネグリジェが」
「ひゃぶ!?」
背中越しにスゥの叫び声が聞こえる。寝ぼけていたせいで、今まで気づいていなかったらしい。
「だからオレは別々の部屋が良いって言ったのに……」
ジークはドギマギしたまま言った。
「ジークさん……見た?」
しかしどうやらスゥには、ジークの意見などより差し迫った問題があるようだった。
「ほとんど見てない」
そこでジークは事実を答えた。
「んじゃ、ちょっとは見た?」
「……だからほとんど見てないって」
もう振り返っても良さそうなので、ジークは恐る恐るスゥを振り返った。するとスゥは泣きそうな顔をしていた。
「で、なんでそこで泣きそうになるんだよ。ふつう怒るだろ」
ジークはそのやり取りにデジャヴを感じつつ言った。
「ふえ、それは……」
その質問に、スゥは答えられなかった。一晩経つ内に、昨日浴場で感じた奇妙な感覚の事は、怒りという感情と共に忘れてしまっていた。
この時になってジークも、もしかしたら『怒り』という感情を持たないということも、スゥの正体と関係するのではないかと考えはじめた。だとしたら、このことは一体どういう意味を持つのだろう。
「そんで、結局どんくらい見たの?」
スゥはなおもしつこく尋ねる。
「いや……だから……ほとんど、見てない……って」
ジークにはそれ以上の事は言う勇気はなかった。
その朝、ジーク達はシーゼルの屋敷で朝食をとった。
「そんでジークさん、次はどこに行くの?」
スゥはフォークを口に運びつつ尋ねた。スゥは既に、シーゼルから貰った真新しい水色のワンピースに着替えていた。
「そうだな……一度テグレスの所に戻った方がいいか」
ジークは一考して答えた。テグレスは、リィトの頭目である老婆の預言者で、スピルナ公国の東にあるゾド山脈に住んでいる。
「それよりあなた、傷は大丈夫なの?」
そこでシーゼルが口を挟む。
「ああ、どうも寝ている間にほとんど治っちまったみたいだな」
「あの傷が一晩で治るなんて、相変わらずバケモノみたいな体してるのね」
シーゼルは驚いた声で言った。正直、ジーク自身もその事には驚いていた。今まではいくらなんでもこれほどの回復力はなかった。もしかすると、昨日ジークに顕れた『力』とやらとも関係があるのかもしれない。
「とにかく、オレ達はあまり一所に留まらない方がいい」
ジークは言った。
「どうして?」
シーゼルが眉をひそめて尋ねる。
「みたところ悪魔は、オレ達を狙ってる。オレ達がここにずっと居れば、またここが狙われて、今度は被害が出るかもしれない」
今、ジークはあえて『オレ達』と言ったが、それはある意味嘘だった。恐らく悪魔が狙っているのはジークではなく、スゥだ。昨日の悪魔・ベリウスやメトネスがスゥの名前を知っていたことからも、それは明らかだった。しかし、もしその事を知れば、スゥはそれを負い目に感じてしまうだろう。それは、ジークの望むところではなかった。
「……そうなの」
シーゼルは悩ましげに言った。
「あなたの事だから、引き止めようとしても無駄でしょうね。せめて何か、私に出来ることがあれば良いのだけど」
「大丈夫だ。余計な心配はいらない」
ジークは素っ気なく言った。
「あなたって相変わらずつれないのねえ」
シーゼルは奇妙な笑みを浮かべて言った。そして続けて声をひそめて囁く。
「それにしても、今まであれだけ人がついて来る事を嫌ってたあなたがわざわざ連れ歩くなんて、よっぽどスゥの事が好きなのね」
「な、なんだよ、藪から棒に……」
途端に赤面するジーク。相変わらず、こういう所は子供丸出しである。
「二人とも、何の話してるの?」
何も知らないスゥが純粋な好奇心から尋ねてくる。
「え、いや、なんでもない」
ジークはシーゼルが妙な事を口走らないように注意を払いつつ言った。
「それより、もう食べ終わったんなら、さっさと出発するぜ。あんまり長く居ても迷惑だろうし」
慌てて取り繕うように指示するジークを、シーゼルはさも面白そうに眺めていた。
出発の準備を済ませ、ジーク達がレイアーク市街に出ると、街は昨日以上に賑わい始めていた。十三日後に開かれるクレオスナ祭の準備は着実に進んでいるようで、一日経つ内に街の装飾も増えている。祭が始まるのを待ち切れなくなってか、箪笥の奥から掘り出したであろう各々の一族に伝わる民族衣装で身を包む人々も多く見られる。
「そういえば、あなた達はどうするの?」
その街の様子を見て、ふいにシーゼルが言った。
「クレオスナ祭って一言に言っても、地方や街によって色々な特徴があるから、どうせ旅してるなら、どこでクレオスナ祭に参加するか、考えた方がいいんじゃない?」
「そうだな……」
ジークが答える。
「でも、一度テグレスの所に行ってからじゃなきゃ、次にどこに行くかは分からないからな」
ジークは面倒臭そうに言った。
「まあ、オレもスゥもクレオスナ祭に参加したことはないし、別にどこが良いなんてこだわりもないからな。成り行きでなんとかなるだろ」
「随分と適当ね」
シーゼルはそう言いつつも、内心それが妥当だとも思っていた。ジークもスゥも、シーゼルとは違いスピルナの生まれではない。今まで参加したこともないスピルナの祭に親近感が湧かないのも当然だ。
「まあ、好きにすればいいけど。どちらにしても、私には関係ない訳だし」
シーゼルとジークがそんな話をしている中、スゥは興味深げにあちらこちらを見回していた。シーゼルがスゥの尖った耳を隠すために用意してくれたクリーム色の鍔広の帽子は、スゥにぴったりフィットしていた。
今までずっと体を洗うこともせず、着古してきたボロを着て、尖った耳を周囲の目にさらしていたがために、周囲から人並み以下の扱いを受けてきた孤児であるスゥにとって、今こうして体を洗い、汚れ一つない立派なワンピースを着て、上品な帽子で不気味がられる耳を隠せていることは、まるで自分ではない何かに生まれ変わったような気分だった。
天国にいるような嬉しさが強いのはもちろんだが、同時に何かふわふわした、自分が自分で無くなってしまったような漠然とした不安も感じていた。
それでも、こうして人並みの恰好をしていることは、やはりスゥに言い知れぬ感動と自信を与えていた。そのためか、スゥは今までになくはしゃいでいた。
「ふあ、ジークさん、これおいしそうだよ!」
店のショーウインドウに飾られた色とりどりのお菓子を見つけて、スゥは言った。
「だから何だよ。オレに買えってのか?」
ジークがまさかという風に聞いた。
「ふえ、買ってくれないの?」
そこでスゥもまさかという風に聞き返す。
「いや、オレ別に『買ってやる』とかいう雰囲気してないだろ」
ジークは答えた。
「つーかなんでお前はそう食べ物にしか興味がないんだよ。他に欲しいものはないのか?」
「あったら買ってくれるの?」
「いや、買わないけど」
ジークは居心地悪いような顔をして言った。
「意地悪言わないで買ってあげなさいよ。どうせお金は余るほどあるんでしょう?」
そこにシーゼルがやって来て茶々を入れた。
「何たってレイアークを助けて貰った時に謝礼金がたんまり出たんだから」
「ふえ? 今までジークさんっててっきり貧乏だと思ってたけど」
スゥは驚いて言った。前からジークはよく貧乏人っぽい台詞をよく言っていた。
「念のためだよ。もし金持ちだと思われたら、狙われるだろ」
ジークはどうでも良さそうに言った。
「まああなたの場合、もし金持ちだって知られたら、泥棒とかに狙われる前に、スゥにしこたま使い込まれるでしょうね」
「ふえ、使って良いんですか!?」
シーゼルの言葉に、スゥは途端に目を輝かせた。
「良くねえよ!」
ジークが慌ててつっこむ。
「そんなカリカリしなくても、ちょっとくらい使わせてあげてもいいんじゃないの? どうせまだいっぱいあるんでしょう?」
シーゼルが呆れたように言った。
「うるせえな……」
ジークはそう呟いてちらりとスゥの表情を窺った。そこでスゥは思いっきり期待の眼差しを向ける。
「……しょうがねえな、今回だけだぞ」
ジークが観念したように言った。
「ふあ、ありがと、ジークさん!」
シーゼルが腹を押さえて必死で笑いを堪える中、スゥはジークの気が変わらない内にとその手を引いて菓子屋に入って行った。
「さて、ここでお別れってことになりそうね」
その後、一行がレイアークの橋にたどり着いた時、シーゼルが言った。
「いろいろと世話になったな」
ジークが言った。
「本当に、ありがとうございました」
スゥもそう言ってぺこりと頭を下げた。その手には買ったばかりの飴が握られている。
「お礼なんていいわよ。それより二人とも、気をつけてね」
シーゼルが返した。
「私は事情は分からないけど、あなたの事だからまた誰かのために危険な事に首を突っ込んでるんでしょう?」
そう言ってシーゼルはスゥを指し示すような意味ありげな視線をジークに投げかけた。
「……まあな」
ジークはバツが悪そうにそっぽを向いた。シーゼルは感づいているのだ。悪魔達の目的がスゥであることに。
「それと……何かやりたいことがあるならさっさとやっちゃった方がいいわよ♪」
シーゼルは続けて悪戯っぽく言った。ジークは無意識の内に着ている上着のポケットに意識をやった。そこには昨日ジークがスゥにプレゼントしようと思って買った銀のペンダントが入っていたが、ジークは今のところ期を逃して渡し損ねていた。まったく、これだから女は怖いんだ、とジークは思った。
「さて、それじゃそろそろ行くとするか、スゥ」
ジークははぐらかすように言った。
「じゃあな、シーゼル」
「もし恋愛の事で相談があったら、いつでもまた来るといいわ」
シーゼルは不意にジークに詰め寄り、ジークにしか聞こえないように声を抑えて言った。ジークはむすっとして、顔を背けた。
「それじゃあ二人とも、またね」
「それでは、失礼します」
再び声のトーンを戻し、軽い口調で言うシーゼルに、スゥは再び頭を下げた。
そしてスゥとジークは、橋を渡る人混みの中に紛れ込み、ノーレラス地方の中央街・レイアークを後にした。
レイアークを出た二人は、ゾド山脈に向かうために、東へと進路を取った。道は左側を川が流れ、右側には林が続いている。この川は、ノーレラス地方の東にある地方、ハシラ地方から流れ、レイアークを囲む湖を通って遥か西のガブル平原にまで続いている。
スピルナ公国の東にあるゾド山脈に向かうために、ジーク達はハシラ地方・ヒカナセク地方を経由しなければならない。ハシラ地方は比較的小さな地方だが、全体が緩やかではあるが山地になっている。そのため今までよりも移動時間は多くかかることになるだろう。
ゾド山脈に着くまでに、再び悪魔に襲われることはあるだろうか、とジークは思った。やつらの目的は恐らくスゥだ。しかし、それにしては不自然な行動が目立つ。もしスゥを奪うことだげが目的なら、わざわざ一体や二体ずつ送って来なくても、一度に全員で来れば、ジークなどでは到底太刀打ち出来ないだろう。それに、幻の町ではメトネスは一度スゥを拉致していた。スゥを捕まえたいだけなのなら、その時にすぐに連れて逃げれば良かったはずだ。
まだ分からないことだらけだが、ゾド山脈にたどり着けば、恐らくテグレスから詳しい話を聞けるはずだ。そもそもジークをパテルに派遣してメトネスと戦わせたのはテグレスなのだ。何も知らないとは言わせない。
そんな事を考えながら歩いていると、不意に体の右側に触れるものを感じた。見ると、スゥがジークに寄り添うようにして歩いていた。
「どうしたんだよ、スゥ」
ジークは少し戸惑ったように言った。
「これくらいいいじゃん。別に誰も見てないんだもの」
しかしスゥは構わずジークの腕をほっそりした両腕で抱きかかえてきた。
「それに、こうしてジークさんと二人っきりで旅するのって、なんだか久しぶりだから……」
「久しぶり……つってもそもそも、オレ達出会ってからまだ一週間経ってないぜ」
腕に感じるスゥの温もりに少し動悸を感じつつ、ジークは言った。パテルに向かう街道で初めてスゥを見たのは、ちょうど六日前だった。
「それでも、嬉しいもん」
スゥは少し拗ねたように言う。
「ったく、相変わらず変な奴だな」
ジークはさりげない風に装って言った。しかし、実際は緊張のあまり動悸が収まらない状態だった。しかし、スゥの事だから抱き着くのを止めろといっても聞かないだろう、とジークは自分に言い聞かせた。仕方がない事なんだからと……。
「あんね、ジークさん、聞きたいことが……」
しばらく歩いた後、スゥは、ジークに質問するときの決まり文句を口にした。
「何だよ」
「どうして、ジークさんはヒカナ家からレイアークを護ったの?」
「なんでそれを今聞くんだよ」
「なんだか、とつぜん気になって……」
スゥは素直な声音で言った。その声から、本当にただの気まぐれなんだろうとジークは推測した。
「オレがレイアークを護った理由、ねえ……」
ジークは面倒臭そうに言った。
「別に、これと言って深い理由は無いんだけどな。まあ、オレがお前を魚屋から護ったのと同じ理由、って言えば分かるか?」
「それってつまり、『気まぐれ』ってこと?」
確かに前にジークはそんな事を言った覚えがある。
「まあ、そうとも言えるかもな。とにかく、ヒカナ家の脅威にさらされて、死か強制労働を待つばかりだったレイアークのやつらをほっとけなかっただけだ」
「そっか、ジークさんって優しいもんね」
スゥはほほ笑んで言った。
「だから、そんなんじゃねえって。あの時の状況を見たら、誰だって同じように考えるさ。それだけひどい有様だったんだ」
「でも、そのために実際に立ち上がって、自分の命を賭けて戦うなんて、誰にでもできることじゃないでしょ」
スゥは突然諭すような口調になって言った。スゥはオレに自分が優しいと認めさせたいんだ、とジークは気づいた。
「そんな事知るかよ」
へそまがりなジークははぐらかすように言った。そして、強がってこう付け足した。
「そもそも、『命を賭けて』ったって、オレはあんな程度の戦いで死ぬ気なんて毛頭無かったぜ」
「ふーん」
スゥは明らかに納得してないような反応を見せた。
「まったく、ジークさんたら、自分に素直じゃないんだから」
悪戯っぽくそう言って、スゥはつかの間ぎゅっとジークの腕を抱きしめた。そしてジークの腕を離して、嬉しそうにジークの前をスキップして行った。それに合わせてシーゼルから貰った青いワンピースの裾が楽しげにはためいた。
「何意味の分からないことを言ってんだか……」
ジークは頭の後ろをかきながら、仕方なさそうにスゥの後を歩いて着いて行った。
―幻の町のあった荒野―
「この足跡……どうやら、ここで戦闘があったようですね」
数日前の物と推測されるいくつもの足跡が残る地面を観察しながら、旅装束の青年は独り言を言った。この荒野には何もないのに、こうして同じ時期の同じ足跡があちこちに散在しているということから考えても、ここで何かの争いがあったと見るのが道理だ。
足跡が何日も後まで残るほど深く刻み込まれているのも、その証拠だ。それだけ地面を強く蹴る必要があったということだからだ。
青年は後ろに鹿毛の馬を牽いていた。エスル村でジークの情報を聞いてから、青年は馬を走らせここまで追ってきたのだ。焦る必要はないためあまり馬を酷使せずゆったりと来たが、かといってここでジークを見逃す訳にもいかない。悪魔の被害は、確実に増えていた。やつらから人々を護るには、どうしてもジークの力が必要だった。
実際、エスル村の前に言ったレグラ地方の中央街パテルでは、悪魔によるものと思われる大火災が起こっていて、かなりの犠牲者を出していた。実行犯はチャノ村で魚屋を営んでいた男・ヘテーク・ハレアだったが、どうやら悪魔によって心を操られていたようだった。そして本人の証言によると、ヘテークから悪魔を引きはがし、撤退せしめたのは白銀の髪の少年だったということだ。恐らくそれがジークであったと見て間違いないだろう。
もし、ジークが止めていなかったら、今頃パテルはどうなっていた事か。
「やはり、彼の力はスピルナに必要という事ですか」
青年は自分に言い聞かせるようにそう言って、引き続きジークの後を追おうと軽やかに馬に乗った。
「ケケケ、オイラ達のことを嗅ぎ回ってるってのは、あんたかい?」
その時、虚空から不気味な声が響いた。
「だったら、何です?」
青年は怯む事なく聞き返す。
「メンド臭いけど、もしあんたがオイラ達に害を加えそうなら、消すように頼まれてんのさ」
その言葉とともに、真っ黒な人影に真っ赤な目と口、異様に長い腕を持った悪魔が姿を現した。
「面倒臭いのなら従わなければ良いのでは?」
青年は冗談混じりに提案した。
「残念ながら、そういう訳にも行かないのさ!」
悪魔・メトネスはそう言って青年に飛び掛かった。青年は馬の手綱を引いてそれを避けさせた。
しかし、直接攻撃することがメトネスの目的ではなかった。メトネスはグニャリとグロテスクに体をねじらせ、青年の懐に入り込んだ。
「その体、悪いけど使わせて貰うしさ!」
メトネスはそう言って、青年の耳元に呪文を囁き始めた。魚屋ヘテークにも使った、相手の心の闇を増幅させて操る得意の呪文だ。
青年はめまいを感じて、自分がされている事が何かに気がついた。すぐさま剣を鞘から抜き、メトネスを振り払って馬の向きを変え、馬の腹を踵で蹴って走らせた。
メトネスには、その馬に着いて行けるだけのスピードはない。その上、今はジークから受けた傷がまだ疼いている。この状況での追跡は不可能だった。
「ちっ、逃げ足の早い奴だしさ!」
メトネスは悪態をついたが、追跡そのものを諦めた訳ではない。元来『耳』を司る悪魔であるメトネスには、いわゆる『地獄耳』の力もあった。それによって、馬を駆る青年の物音から、向かっている方向を確実に予測することが出来る。
「……なるほど、あの白髪のリィトと合流しようって算段だね」
しばらく耳を澄ませた後、そこまで覚ったメトネスは、仲間の悪魔にそれを知らせるべく、霧となって消えた。
―ノーレラス地方~ハシラ地方間の街道―
その日の夜、ジークとスゥはいつも通り街道の脇の林の中にあった空き地で野宿することになった。街道を挟んで反対側を流れる川の音が涼やかに鳴り響いている。
スゥはいつもの習慣通り、たき火のそばに座ってオカリナを吹いている。その腕が日に日に良くなっていくのは、音楽の心得の無いジークにさえはっきりと分かる程だ。
スゥが今吹いているのは、カレハから教えてもらった曲の一つで、確か曲名は『湖面の月』だ。あの短い時間でスゥが覚えることができた曲は少ししかなく、これはその中でスゥが最も気に入っている物だ。
しかし、今のレパートリーではいずれスゥは飽きてくるだろう。次に、オカリナのもとの持ち主に会ったら、スゥに他の曲も教えてやるように頼んだ方が良さそうだ。
ジークは夜空を見上げ、スゥのオカリナの音色に聴き入りながら、そんな事をぼんやりと考えていた。夜空にはそれこそ数え切れないような星々が散らばり、瞬いていた。真っ暗な空を彩る、その儚く静寂を感じさせる光は、ジークの心を洗い流してくれるようだった。
ジークは昔から夜空の星を見上げるのが好きだった。遠い空の彼方で輝く星に、こうして淡く照らされる時間が好きだった。言葉に表せないその神秘的な感情は、スゥと一緒に居る時とどこか似ていることに、ジークはふと気づいた。
スゥと居ると、ジークは呆れたりドギマギしたりしてばっかりで、一見星を眺めるときの静かな思いとは掛け離れているようにも思えるが、ジークは今その二つの間に、もっと深い部分での共通点を見出だしていた。
「……星は夜空の中でこそ輝き、夜空は星によってのみ彩られる」
その言葉は、自然とジークの口から漏れ出ていた。それは、古くから知られる言葉だった。どうして今、その言葉が口をついて出たのか、ジークにはにわかには分からなかった。
「ジークさん、それって……」
それを聞いて、スゥは驚いて口からオカリナを離し、ジークに振り向いた。
「何だ、知ってるのか?」
ジークも驚いて聞いた。
「うん……お父さんが、よく言ってた」
スゥは思い出すように言った。
「あたしの名前……スゥ・ロ・ヤマは古代の言葉で『夜空の星』っていう意味で、今ジークさんが言った言葉から名付けたんだって」
「古代の言葉……それってもしかして、『聖霊語』の事か?」
ジークは尋ねた。聖霊語とは、太古の昔にいたすべての精霊族の祖先でもある聖霊達が使っていたとされる、魔力を帯びた言語の事だ。しかし、今の時代ではごく一部の精霊族を除けば、その言語を完全に解する者は居ないとまで言われている。
「よく覚えてないけど、確かそんな事も言ってたと思う」
スゥは自身なさ気な声で言った。
「そうなのか」
スゥの言葉を聞いて、ジークは考え込んだ。今さっき説明したように、この時代の人間で聖霊語を知っている者はそうそういない。スゥの養父―確か名前はシルート・サーズと言ったか―は一体、何者なのだろうか。
「『夜空の星』か……お前にぴったりな名前だな」
ジークは純粋に心に浮かんだことをそのまま言った。
「ほんと? そう言ってもらえると嬉しいけど……」
「けど、何だ?」
「あたし、まだ自分に自信がないの。あたしはあの星みたいに綺麗じゃないし、あの星の光みたいに、おしとやかでもないもの……」
スゥは胸に左手を当てて、少し哀しげに言った。
「そんな事はないって」
ジークは即座に言った。スゥは驚いたようにジークを見つめた。
「スゥは綺麗だよ」
ジークは星明かりに朧げに照らされたスゥの、紫色の瞳を見つめ返した。ジークには一瞬、その瞳に空の星々が映っているように見えたが、それが錯覚なのか、ジークには分からなかった。
「ホントに?」
スゥは信じられないという表情でジークを見た。
「本当だ。少しはオレの言葉も信用しろよ」
ジークは答えた。
「……ごめんなさい、そういうつもりじゃ……」
スゥは恥じ入るように少し顔を俯けた。
「とにかく、少なくともオレの目から見れば、お前は綺麗だ。お前自身が思ってる以上にな……もっとも、お淑やかじゃあないのは確かだけどな」
ジークはついでのように付け足した。
「……そこははっきり言うんだ……」
そう言ってスゥは一瞬わざとらしくむすっとした表情を見せたが、次の瞬間にはクスッと笑った。
「でも、ジークさんのそういう所も、あたしは好きだよ♪」
「なっ、何変な事言ってんだよ」
ジークは顔を赤らめて慌てて言った。その様子をスゥがどこか愛おしむような表情で見つめてくるので、ジークは自分の気障ぶりに一層ばつが悪くなるのだった。スゥと出会う前のジークなら、口が裂けてもこんな台詞は吐けなかっただろう。
―幻の町跡地の近く―
「それにしても、いつまでこうして手加減してなきゃいけないのさ!?」
メトネスは苛立たしげに愚痴を言った。
「まったく、最近のお前は文句を言ってばかりだな」
グルナが面倒臭そうに言った。
「これだけつまらないことが続けば、誰だってこうなるしさ! 特にオイラはあの銀髪のリィトに傷まで付けられたんだしね」
メトネスは言った。
「ハッ、いくら手加減していたからと言って、それはてめぇが弱かっただけじゃねぇか?」
ベリウスは馬鹿にするように言った。しかし、メトネスはあえてそれを無視した。
「それで、結局いつまでこんなつまらないこと続けりゃいいのさ?」
メトネスはグルナに尋ねた。
「それはスゥ・ロ・ヤマ次第、ということになるだろうな」
グルナは落ち着いた声で言った。
「あの疫病神かい。でも、本当に、あんな奴の為にここまでしてやる必要があるのかい?」
「奴の持つ『力』は、我々の計画には間違いなく必要だ」
グルナは言った。
「いくら頭の悪いお前でも、我々の目的を忘れた訳ではあるまいな?」
「忘れる訳が無いしさ!」
馬鹿にされたメトネスは声を荒げた。
「ハッ、それならそうやってグズグズ言うのはやめるんだなぁ」
ベリウスが言う。
「それは確かにそうだけどさ、やっぱり終わりが見えて来ないことにはやる気も失せてくるしね」
メトネスは言い返した。暗に、『この状態がいつまで続くのか教えろ』と言っているのだ。
「そうだな……」
メトネスの考えを覚ったグルナは、勿体振るように言った。
「まず、スゥ・ロ・ヤマの本来の力を解放させないことには、奴を捕らえた所で意味はない。そこで我々の今の目的は、奴の力を解放させることなのだ。しかし、奴の力は奴自身のある感情によってのみ解放されうるものなのだ」
グルナは説明しはじめた。
「その引き金となる感情は、奴の『怒り』だ。奴が怒れば、その『力』は解放されるのだ。だが、あの力は奴自身にとっても負担が大きい。そのために、普段の奴は怒りの感情を本能的に封じているのだ」
「つまり、問題はどうやってアイツの中に眠る『怒り』を呼び覚まさせるか、ってことかい?」
メトネスは納得したように言った。
「その通りだ。お前にしては勘が良いな」
グルナは冷やかすように言った。メトネスはイラッとした表情を見せたが、話の先を聞く方に興味をそそられているようで、手を出すことはしなかった。
「メトネスの言う通り、問題はそこだ。つまり、我等の計画を進めるには、奴が分別を棄てて身を任せるほどの強烈な怒りを起こさせなければならないのだ」
「ハッ、その事とオレ達が手加減しなきゃいけねぇってのとは、一体どんな関係があるんだぁ?」
ベリウスがもどかしそうに聞いた。
「いいか、ベリウス。人間というものは、自分自身が傷つけられるよりも、自分にとって大切な物を傷つけられた時の方が、ずっと強い怒りに駆られる物なのだ」
「……ってことはつまり、スゥにとって自分自身よりも大切な物を攻撃すればいいって事かい?」
「その通りだ、メトネス。そしてその大切な物を、あの銀髪のリィトにさせるのが、我等の計画なのだ」
グルナは言った。
「つまり、オイラ達と戦わせることで疫病神に、あのリィトに対する思い入れを強めさせて、そのリィトを攻撃することでアイツに怒りを植え付ける、って事かい?」
メトネスが聞いた。
「要するに、そういう事だ」
「それで、今はどのくらいなのさ?」
「やってみなければ分からないが、恐らくそろそろ、もう一度試してみてもいいだろうな」
グルナは考え込むように言った。
「ハッ、そう言うことなら、もう一度オレに行かせてもらうぜ。どっちみちてめぇら二人じゃ、スゥ・ロ・ヤマに力を解放されたら何も出来ないんだろ」
ベリウスが活気づいた声で言った。あの銀髪のリィトと再び戦えることが嬉しいのだ。
「それはそうだが、お前も一度負けた相手だぞ。勝算はあるのか?」
グルナが訝しげに言った。
「ハッ、なめんじゃねぇ。もしオレが手加減してなきゃ、あの野郎はとっくに死んでるぜ」
「どうだかね、オイラの助けがなきゃ、死んでたのはどっちだい?」
メトネスは反発するように言った。
「だから、手加減してなきゃてめぇの助けも要らなかったっつってんだよ!」
ベリウスは声を荒げて言った。
「やめろ、二人とも!」
メトネスが言い返そうとするのを遮るように、グルナは言った。
「お前達はどうしてそう仲が悪いんだ」
「グルナには関係ないね!」
メトネスが言った。
「いいや、関係はある。お前達の不仲のせいで計画にもしもの事があってはならんからな」
グルナが言い返す。
「ハッ、その事なら大丈夫だ。メトネスがいなくても計画に問題は無いからなぁ」
「ベリウス、そいつはどういう意味だい!?」
メトネスが食ってかかった。
「言葉通りの意味に決まってんだろぉが。まさか、こんな言葉の意味も分かんねぇのか?」
ベリウスはからかい口調で言った。
「まったく、いい加減に喧嘩は止めろ!」
そこでグルナが仲裁に入る。このままではいつまでも話が進展しない。
「とにかく、次の襲撃にはベリウスが行く。そして、もし奴のリィトへの想いが十分に強くなっているようなら、一気にあのリィトを攻撃しろ。その時は本気を出しても構わん」
「ハッ、その言葉を待ってたぜぇ!」
ベリウスは意気揚々と言った。その様子をメトネスはどこか苦々しげに眺めていた。
「おっと、そう言えば一つ言い忘れてたしね」
その時メトネスが突然言った。
「何だ?」
グルナが聞く。それを聞いてベリウスもメトネスを振り返った。
「今日、幻の町があった場所で『継承者』を見かけたのさ。逃げられちまったけどね」
「継承者だと? と言うことは、やつらもついに重い腰をあげたと言うことか」
グルナは思惟しながら言った。ベリウスは黙ってその会話に聴き入っている。
「まあ、そういうことになるしね」
メトネスは言った。
「それも、あの銀髪のリィトと合流しようとしているみたいだったしさ。やつらとリィトが手を組んだら、厄介な事になるし、計画をさっさと進めるべきだと思うね」
「ならば何故、のんきにベリウスと口喧嘩などしていたのだ?」
グルナは呆れ声で言った。
「だが、そういう事ならば確かに急いだ方が良さそうだな。すぐに出発するぞ」
言うが早いが、グルナは一瞬にしてその体を黒い霧へと変化させて、その場から消え去った。
「ケケケ、ベリウス、もし今回ミスしたら、『兄貴』からどんな罰を与えられるか見物だしね」
その後もメトネスとベリウスは少しの間そこに留まっていた。
「ハッ、うるせぇ。今度は絶対に失敗しねぇ!」
ベリウスもまけじと言い返す。
「ケケケ、そういう事なら、次もし死にかけても、今度は助けてやらないしさ!」
「もともとてめぇの手なんか借りるつもりはねぇよ!」
その言葉を最後に、その二人の悪魔達も、グルナと同じように霧と化して、その場を一瞬にして離れた。
五章「The Star of The Night Sky」




