第四章 「誰かのための強さ」
―レグラ地方エスル村―
昼間の暖かい陽気の中、突然レインディア亭の扉のベルがカラカラと鳴った。いつも通りグラスを磨いていたシグルスは、その顔を扉に向けた。
入ってきたのは、旅装束の青年だった。その腰には、マント越しに剣のシルエットが見えた。
青年はゆっくりした足取りでカウンターに向かい、どこか優雅にも見える動きでシグルスの目前の椅子に腰掛けた。
「リィトの活動拠点、レインディア亭の亭主、シグルス・キエスト殿ですね」
青年はフードの下からシグルスを観察するように確認した。
「随分と珍しい客だな。一体、何の用だ?」
シグルスは、以前その青年に会ったことがあった。と言っても、今まで直接話したことはないのだが。
「いえ、大したことでは……ちょっと人探しをしていましてね。リィトの居場所はあなたに聞くのが最も効率的ですから」
「誰を探しているんだ?」
シグルスは興味なさ気に聞いた。
「ジーク殿を」
それに対して青年は短く答えた。それは、シグルスが半ば予想していた通りの答えだった。
「何のために?」
シグルスは続けざまに尋ねる。いくら顔見知りとはいえ、理由も聞かずに仲間の情報をおいそれと渡す訳にはいかない。
「交渉するためです」
と曖昧に答える青年。しかしこの青年とジークの関係を知っているシグルスには、青年の言わんとしていることがすぐに分かった。
「あいつの事だ。また突っぱねられると思うがな」
「試してみなければ分かりませんよ」
青年はそう言って少し笑った。その笑い方もやはりどこか上品だった。
シグルスはどうでも良さそうな声で「そうかよ」と言うと、ため息をついて、青年の質問に答える。
「今頃は恐らくノーレラス地方のレイアーク辺りにいるだろうな。でも、お前が今から行ってレイアークに着く頃には、多分もう出発してる。その先は自分で調べな」
「ありがとうございます」
そう礼を言って、青年はさりげなくカウンターに銀貨をいくつか置いて、すぐに席を立ち、レインディア亭を出て行った。ドアのベルが再び鳴り、その後レインディア亭は静寂に包まれた。
「……ったく、なんかまた、いろいろと拗れそうだな」
シグルスは手に持った銀貨をチャリチャリ言わせながら、一人ごちた。そして銀銀貨をポケットに突っ込むと、またグラスを磨く作業に戻るのだった。
―ノーレラス地方中央街レイアーク―
ジークは苦戦していた。やはり、今度の悪魔・ベリウスは、今までの悪魔とは格が違った。
その尻尾による攻撃の一撃一撃に圧倒的な破壊力があり、一発でも喰らえば命の保証はないことは間違いない。
スピードにおいてはジークの方が勝っているのは、不幸中の幸いだった。落ち着いてさえいればベリウスの攻撃を避けることはできる。
しかし、言うまでもなく、攻撃を避けるだけでは戦いには勝てない。かと言って、攻撃するために下手に距離を詰めると、ベリウスの攻撃を受ける危険が一気に増す。
その時、真っ黒なベリウスの尾が、横からジークの頭に打ち付けられた。ジークはすぐに体を屈めてそれをかわす。
「ハッ、いつまでチョロチョロ動き回ってるつもりだぁ!?」
ベリウスはもどかしそうに言った。
「うるせえな……」
それに対して、ジークは妙に落ち着いた声で応えた。ベリウスの戦闘力は明らかにジークより格上だ。真っ向からぶつかって勝てる相手ではない。
ならば、この好戦的な性格を利用することは出来ないだろうか。そうジークは考えていたのだった。そのためにはまずベリウスを挑発して頭に血を上らせる事だ。
そして考え通り、ベリウスはジークのその冷静さが気に食わない様子だった。その証拠に、ベリウスの攻撃は一段と激しくなっていた。
ベリウスの尾がジークの頭の横を掠める。ジークはすかさず右の刀で反撃したが、ベリウスの尾に阻まれて、攻撃が届くことはなかった。ベリウスの尾は堅い鱗で覆われ、先端は鉤になっていた。
続けて鞭のようにしなる尻尾が、ジークを襲った。ジークは確実にかわしつづける事はできたが、反撃することは出来ず、だんだんと追い詰められて行った。
スゥは、目の前で危険な目にあって戦っているジークを、道端に立って、半ば呆然として見ていることしか出来なかった。ベリウスの尻尾が振るわれ、ビュンビュンと空を切り裂く鋭い音がするたびに、ジークがその攻撃に切り裂かれて、死んでしまうのではないかと言う恐怖が全身を駆け巡っていた。緊張と恐怖と不安で、スゥは下唇を噛んで、胸の前で握った両手に汗を握っていた。
その時、ジーク達が走ってきたちょうどその小路から、マントで身を包んだ女性が走ってきた。
「あなたは、さっき広場にいた……」
スゥはその女性を振り返って呟いた。
「あら、あなた、白銀の獅子と一緒にいた娘ね」
その女性はその時になってスゥの存在に気付いたようだった。戦っているジーク達に向けていた視線を、スゥに向けた。それでスゥには、初めてその顔が見えた。
「綺麗……」
ジークのことが心配で、スゥにはあまり集中して見ることはできなかったが、それでも一目で美人とわかる女性だった。一瞬、スゥはその女性に見惚れていた。
「危ない!!」
突然その女性が叫んで、スゥを横に押し倒した。その次の瞬間、さっきまでスゥがいた場所に、一筋の黒い閃光が走った。それは、ベリウスの尾だった。いつの間にか、ジークが押されるにつれて戦っていた二人がスゥの居る場所に近づいて来ていたのだ。
「……スゥ……!」
自分の後ろにスゥが居ると知ったジークは、戦いの場をスゥから遠ざけようと、力を振り絞って一気に形勢を盛り返した。
「ほら、あなたもこっちに!」
スゥもマントの女性に連れられて、その場から離れる。
「なるほどなぁ、スゥ・ロ・ヤマに危険が迫ったら本気になるって訳かぁ!」
尻尾がスゥを掠めた瞬間から始まった突然のジークの猛攻に、ベリウスは面白そうに言った。
「お前……どうして、スゥの名前を……」
ジークは驚いて言った。そう言えば、幻の町でメトネスもスゥの名前を呼んでいた。
「ハッ、残念だが、そいつはまだ企業秘密ってやつだぜぇ!」
ジークの左の刀を避けつつ、ベリウスは言った。
「……そうかよ」
続けざまに右の刀を切り付けながら、ジークは言った。ベリウスはそれを尾で受けた。
「ハッ、それにしても、そんな攻撃じゃオレは倒せないぜぇ!」
ベリウスは尾でジークの刀を振り払い、しならせた尾をジークの体に叩き付けた。ジークは焦っていたせいで、ベリウスと一定の距離を保つのを忘れていたのだ。
その圧倒的な力に、ジークは数メートル後ろの家屋の壁にたたき付けられた。石の壁に体がめり込む程のその衝撃と苦痛に息が止まり、ジークは一瞬意識が朦朧とする。
周りの世界がぐらりと揺らぐ。朦朧とした意識の中で、ジークはスゥが自分の名を叫ぶのを、どこか遠くの物音のように聞いた。
ジークは、改めて自分の無力さを呪った。オレは、もう二度と目の前で誰かが死ぬのを見たくない。昔、そう誓ったと言うのに―
このままでは間違いなく、オレも、スゥも、あのマントの女性も死ぬ。そしてベリウスは、自分の破壊衝動のままにこの街を破壊してしまうだろう。
せめて、オレに悪魔に対抗出来るだけの力さえあれば……まるで映像がスローモーションで再生されているかのように感じる中、ジークは何よりもただそれだけを願った。
その時、なぜだか、心の奥で声がした気がした。
―君は、また大切なものを失うのか―と。
―絶対に諦めてはいけない―
ジークの心の中に響くその声は言っていた。
―お前は、誰だ―
ジークは訳が分からず、その心に響く声に尋ねた。
―今は、名乗ることは出来ない。でも僕は、君の『力』を少しだけ、目覚めさせることができる―
―オレの、『力』?―
ジークはその言葉に戸惑った。一体何のことを言っているのだろうか。オレに、『力』なんてあるのか?
―だから、一つだけ約束して。君が護りたいと思う大切な人を、絶対に護り通すこと―
その声は、強い口調でそう言った。
―なぜ、お前がそんな事を?―
―僕は、君だから。彼女を失えば、君は絶対に一生後悔する―
ジークにはその言葉の意味が分からなかった。だが、今は何より、スゥを護らなければ。その声が語った言葉によって突然蘇ったその強い思いが、ジークの迷いを一気に吹き飛ばした。
―ああ、約束する―
ジークは厳かな声でそう言った。
マントの女性の制止を振り切ってジークに駆け寄ろうとするスゥの目の前に、ベリウスが立ちはだかる。
「ハッ、見つけたぜぇ、スゥ・ロ・ヤマ!」
『見つけた』という言葉の真意はスゥには分からなかった。ただ一つ、分かっていたのは、自分が殺されようとしていると言うことだけだった。
まるでスローモーションのように、ベリウスの尾が振り上げられる。スゥは死を覚悟した。
しかし、その尾が振り下ろされる事はなかった。ベリウスは何かに感づいて、突然その場から跳びのいた。
その次の瞬間、ベリウスが居た場所に白銀の閃光が走った。スゥが信じられない思いで見ると、そこに、ジークが立っていた。その両手に握る一対の大刀は、白銀の光に包まれて輝いていた。
「ジークさん……よかった……」
「いいから、どいてろ」
感激のあまり涙ぐむスゥに向かって、ジークは言った。しかし、スゥはそこから動こうとしない。
「しょうがねえな……シーゼル、こいつを安全な所に連れて行ってくれ」
ジークはマントの女性に向かって言った。ジークはその顔を見て、女性の正体に気がついていた。
「せっかく久しぶりに会えたって言うのに、随分と人使いが荒いのね、白銀の獅子!」
その女性・シーゼルは怒ったように言ったが、指示に逆らうことはせず、スゥの手を引くと急いでその場を去る。
「ハッ、行かせるかよぉ!」
ベリウスはシーゼル達の後を追おうとしたが、それはジークに阻まれた。
「お前はこの先へは通さない」
ジークは厳かな声音で言った。
さっき、あの謎の声と話して、約束した瞬間から、やけに心臓の鼓動が大きくなっていた。そして、さっきまで以上にベリウスの攻撃が遅く見えるようになっていた。
「なんだぁ? てめぇも何か隠し持ってたみてぇだな」
ベリウスはあくまで面白げに言う。さっきまでのジークとの違いに気付いているようだ。隠し持ってる、とはおそらく『力』の事だろう。
「だったら何だ」
「嬉しいぜぇ。さっきまで退屈してたからなぁ!」
そしてベリウスはジークへの攻撃を再開する。しかし、やはりジークにはその動きが遅く見えた。
ジークはベリウスの尾を片方の刀で弾き、反対の刀で切り付ける。ベリウスは紙一重でそれをかわして、さっきジークを叩き付けた家の屋根の上に逃げる。
「逃げる気か?」
「誰が!」
そう言うとベリウスは屋根から飛び上がり、勢いをつけてジークに飛び掛かった。ただの攻撃でもあの威力なのだ。自然落下の勢いと体重が加われば、その破壊力は計り知れない。
しかし、ジークはそれにたじろぐことはせず、落ち着いて刀を構える。
そして、ベリウスの尾とジークの刀が、真っ向からぶつかった。
「あなたが、シーゼルさん……?」
スゥは信じられない様子でシーゼルを見た。
「そう。私はこの街の町長、シーゼル・セン・ルネアよ」
シーゼルは多少照れ臭そうに言った。
「それじゃ、どうしてあなたがジークさんの事を? それに、白銀の獅子って……」
「とにかく今は、ここを離れましょう。話なら後でできるわ」
シーゼルはそう言ってスゥを連れていこうとする。しかし、スゥはそれに逆らった。
「でも、ジークさんをひとりで置いて行けません!」
「あの人なら、大丈夫よ。あなたが居る方が今のあの人には邪魔になるわ」
シーゼルの言っていることは正しかった。さっきジークがベリウスの攻撃をまともに受けてしまったのは、スゥが戦いに巻き込まれないようにしようと焦ったからだった。スゥにはシーゼルの言葉に反論する術は無かった。
「さ、分かったら早く!」
シーゼルが急かすが、スゥはそれでも後ろ髪を引かれる思いだった。
「ジークさん……」
スゥはジークの居るはずの方向に向かって呟くように呼び掛けたが、それで決心したのかシーゼルについて反対側へと走って行った。
ベリウスの尾とジークの刀は互いに弾きあい、どちらも傷つくことは無かった。
「ったく、頑丈な尻尾だな」
「ハッ、てめぇの刀こそ、やけにかてぇじゃねぇか!」
実を言うと、ジークは淡い光に包まれた自分の刀を見つめながら、ベリウスが言ったのと同じことを考えていた。ジーク自身の経験からしても、あんな攻撃を食らってこの刀が持ちこたえるはずは無かった。
これが『力』なのか? ジークは考えた。
まだ全く実体が掴めないが、どうもあの声によって目覚めさせられたジークの『力』が、ジークの身体能力だけでなく刀の能力まで引き上げた、と考えるのが妥当なようだ。
しかし、人間誰でもそうだろうが、突然知らない人間から高級なプレゼントを貰ったりすれば、喜ぶよりも先に戸惑い、贈り主の目的が分からずに、その人物の事を疑うだろう。
今回の場合のジークも全く同じで、『力』を手に入れたことを素直に喜ぶ気にはなれなかった。何か、裏があるのではないかと疑わずにはいられないのだ。
だが、今はそんな事を気にかけていられる状態ではないことも、分かっていた。とにかく今は、ベリウスを倒すことだ。
ジークはベリウスとの距離を詰めようと、地面を蹴る。すると予想を遥かに越える力が出て、ベリウスが反応する間もなくジークは敵の懐に潜り込む。ジークは左の刀を袈裟掛けに切り付けた。
「ハッ、いきなりやるようになったじゃねぇか!」
その攻撃を間一髪でかわしたベリウスは、まだ少し余裕を残していたが、明らかに自分が劣勢に成りつつあることも理解しているようだった。
ベリウスが反撃しようと尾を振るが、ジークはバックステップで軽々とそれを回避する。
表には出さずとも、ベリウスが苛立ちを募らせつつあるのは間違いなかった。そこでジークは、ベリウスの感情を利用するために、あえてベリウスの攻撃範囲ギリギリの距離を保つことで挑発した。
果たしてベリウスはその挑発に乗ってきた。ジークは自分に向かって突進して来たベリウスをひらりと避ける。ベリウスは勢い余ってジークの後ろにあった家屋の壁に激突する。ベリウスは体ごと壁にめり込み、少しの間身動きが取れなくなった。それが、ジークの作戦だった。
「これで終わりだ」
ジークはそう静かに言った。そして、自らの行動によって大きな隙を作ってしまったベリウスに、二本の刀両方を振りかざした。
その時、突然戦場に妖しい呪文のような言葉が流れた。低音で唱えられるその言葉を聞いている内に、ジークは不意に強い頭痛を感じた。
「……まったく、あれだけ人をけなして置いて、良いザマだね、ベリウス」
その言葉とともにジークの目の前に、長い腕を持つ真っ黒な少年のような姿をした悪魔が現れた。
「お前は……メトネス……たしか、『耳』の悪魔だったか」
ジークはメトネスをねめつけた。
「ケケケ、どうやらベリウスが随分と喋ってくれちゃったみたいだね。まあ、いまさら隠す必要もないけどさ」
メトネスは真っ赤な丸い目でジークを睨み返した。
「とにかく、今回はアンタの勝ちって事にしといてやるしさ。その代わり、コイツは連れ帰らせて貰うしね。じゃあな!」
そう言ってメトネスはベリウスを抱えて、消えた。ジークは後を追おうとしたが、音を操り敵をたぶらかすというメトネスの発した呪文の効果がまだ続いているのか、思うように体が動かなかった。
ジークは『力』を解放されてから過敏になっている感覚で、辺りの気配を探ってみる。が、この辺りに悪魔の気配はもう無かった。
確かにやつらは逃げた。そう確信し、ジークは緊張を解く。それと同時に、『力』の効果が消えたのか、体から一気にエネルギーが抜ける感覚があった。と同時に、さっきまで『力』によって抑えられていたらしいベリウスからの攻撃で受けたダメージが、一気に蘇ってきた。
恐らくは『力』の反動もあいまったのだろう。その痛みは想像を絶するものだった。なす術もなく、ジークはその場に倒れ、意識を失った。
「シーゼル様! また仕事をほったらかしにして街をほっつき歩いていたのですか!?」
レイアークの中心にある屋敷、ルネア家の邸宅で、黒い服を着たシーゼルの秘書が怒鳴っていた。
「まあまあクイル、街のことを良く知るのも町長の仕事じゃない。いわゆる視察ってやつよ」
シーゼルは悪びれもせず言う。
「そんな言い訳して、シーゼル様のはただの散歩じゃありませんか!」
秘書クイルは、なおも語気を緩めず言った。
「それにそんなっ……子供まで連れて来て!」
クイルはシーゼルの後ろに半ば隠れるように立っているスゥを指差し、つい口に出しかけた『不吉な』という言葉をかみ殺して言った。
「彼女は私の客です。無礼は許さないわよ」
シーゼルも耐え兼ねて声を荒げた。まったく、この秘書と来たら……。と彼女は内心毒づいた。
「あのう……」
そこでスゥが恐る恐る口を挟んだ。
「どうかあたしのために、喧嘩しないでください……」
「あら、ごめんなさい、聞き苦しかったわよね。クイル、彼女を客間に連れていってあげて。丁重にね」
シーゼルはスゥに向かっては申し訳なさそうに、クイルに向かっては釘を刺すように言った。
「まったく、秘書を何だと思ってるんだか……」
クイルはぶつぶつ言いつつも、指示には逆らわなかった。スゥに手招きして、不機嫌そうに部屋の扉を開いた。スゥはこわごわその後に続いて行った。
そうして部屋はシーゼル一人だけになった。シーゼルは安楽椅子に深く座り、嘆息した。
少しして、扉を叩く音がした。シーゼルが入室の許可を告げると、扉を開いて、あらかじめ指示を出していたシーゼルの部下数人が入ってきた。
「シーゼル様、白銀の獅子が道に倒れていたのを保護しました。いかが致しますか?」
「客間に運んで頂戴」
シーゼルは、クイルもこんなに忠実だったらと思いつつ答えた。彼は有能だが、シーゼルにではなく今は亡きシーゼルの父に忠実な男だ。
シーゼルの指示を受けて、部下達は部屋を後にした。そして、シーゼルもまた自室へ向かうべく大儀そうに安楽椅子から立ち上がった。
ジークが目を開くと、目の前にシャンデリアのぶら下がった天井の景色が広がった。体に包帯が巻かれているのが、触感で何となく分かる。
「ここは……どこだ?」
ジークは無意識につぶやく。するとその声に気付いたスゥの顔が視界に入ってきた。
「ふぁ、ジークさん! よかったぁ!」
言うが早いがスゥは思い余ってジークに抱きつく。
「うわ、ちょ、スゥ、くっつくなって……」
ジークは顔を真っ赤にして慌てた声でそう言って、無理やりスゥを引きはがす。恥ずかしいのはもちろんだが、今は下手に触れられると傷が痛むことの方が問題だった。
どうやらスゥもその事に気づいたようで、はっとしてすぐにその腕を引っ込める。
「ごめんなさい、あたしのために、こんな……」
スゥはジークの様子を見て、申し訳なさそうに謝った。
「別に……オレの力が足りなかっただけだ。こっちこそ、あんな危ない目にあわせちまって、悪かったな」
ジークはそんなスゥを励ますように言った。スゥはその言葉に感極まったように目を潤ませた。
「泣くなよ。ったく、相変わらず泣き虫だな。それより、ここは……シーゼルの屋敷か?」
「あら、もう起きたのね、白銀の獅子」
ジークが尋ねるのと同時に、部屋の扉を開く音がして、シーゼルが入ってきた。ジークが反射的に上体を起こそうとすると、体の右肩から左脇腹にかけて強い痛みが走った。その痛さに思わず呻きがもれる。
「一応手当はさせたけれど、まだ動かない方が良いわ。あなた、自分の体がえぐられてるって自覚してる? しばらくは絶対安静よ」
シーゼルが放った言葉に、ジークは戦慄した。ベリウスの一撃でそれだけのダメージを受けておきながら、『力』によって傷口が抑えられるのを良いことにベリウスと戦っていたのだ。『力』の効果が切れた今、傷口は攻撃を受けた時より遥かにひどくなっているに違いない。
「それと、荷物は宿屋から持ってこさせたわ。今日はここに泊まりなさいな」
シーゼルはそう言って、ジークが寝かされているベッドの脇の小机の上に置かれたジークの荷物を指し示した。
「悪いな、迷惑かけて」
「こんな時くらい、自分の心配しなさいよ。それに、あなたには恩がある。これくらい当然よ」
シーゼルはベッドに歩み寄りながら言った。
「その『恩』って一体何なんですか?」
それを聞いたスゥがシーゼルに尋ねた。
「あら、あなた、彼と一緒に居るのにそんな事も知らないの?」
シーゼルは呆れたように聞き返した。
「知らないから聞いてるんです」
スゥはそう言いながら、内心淋しさを感じていた。
「……なるほどね、言うじゃない」
シーゼルはおもしろそうに言った。
「おい、シーゼル、余計な事言うんじゃねえぞ」
そこですかさずジークが釘を刺す。
「……なるほどねぇ」
一を聞いて十を知ったように、シーゼルはにやっとした。
「あなたって案外シャイなのね、白銀の獅子」
「なっ、どういう意味だよ」
ジークはそう言って我を忘れて起き上がろうとしたが、再び痛みが返って来て、スゥによってベッドに押し戻される。
「すぐそうやってムキになって……そういう所はまだまだお子ちゃまね」
シーゼルはなおもおもしろそうに言った。
「でも、傷で動けない今のあなたに、私の話を止めることは出来ないわね」
ジークを見下ろして、悪戯っぽく言うシーゼル。それに対してジークは唸るしか出来ない。
「そーゆー事なら、教えてあげるわ。ちょっと遠回りになるけれど、我慢してね」
スゥに向かって茶化すようにそう言って、そして語り出した。
「今からちょうど四年くらい前、知っての通りこの国は長年続いたスピルナ動乱で荒れ果てていた。昔は風光明媚と歌われたこの街も、自衛のために戦うことを余儀なくされていたわ。
その頃のスピルナは、ゴート家・アルト家・ライアル家・ヒカナ家・シロトナ家の大きな五つの派閥に分かれていた。
そしてここ、レイアークは豊富な水資源がもとでヒカナ家に長い間狙われていたの。
私たちは必死に戦っていたけれど、当時の五大勢力の一角とたった一つの街とでは、戦力の差は歴然としていた。もはや万策尽きたかと思われたそんな時、彼・ジークはどこからともなく現れた。
当時の彼はどの派閥にも属さず、スピルナの国中を旅して、あの血で血を洗う悲惨な戦争から、関係のない人々を護るために戦っていた。
そして彼に助けられた人々は、その銀髪をなびかせる彼の姿を見て、彼を『白銀の獅子』という通り名で呼ぶようになった。各地の神話に残る、『総ての命の守護神』と呼ばれた、白いライオンの姿をした大地の神にあやかってね。
そして、彼はまさに一騎当千の強さを持って、ヒカナ家の軍隊からこの街を護った。彼がいなければ、きっとレイアークはヒカナ家の家来達に蹂躙されて、この街の人々は皆奴隷にされていたわ……だから、この街の人は皆、彼には大恩があるのよ」
シーゼルが語り終えた時、スゥはジークのことをより知ることができた嬉しさと、今までジークのことを何も知らなかった寂しさとを同時に感じていた。
「ジークさんがそんなにすごい人だったなんて……話してくれたら良かったのに」
「話す必要はなかった」
ジークはまるで他人事を話すかのように言った。
「でも、教えてほしかった……」
スゥは疎外感を感じながら言った。
「何でだよ」
「ふぇ……それは……」
そう聞かれてスゥは言葉に詰まった。自分でもどうしてなのか具体的には分からなかったのだ。
「気にしないで。この人はいつもこうなのよ」
そこにシーゼルが口を挟む。
「いつも自分の事を隠したがって、何て言うか……常に自分の事は二の次にして、他人のために無茶ばっかりしちゃうのよね」
その時、部屋の扉をノックする音がした。シーゼルが行って扉を開くと、屋敷の女中らしき人が顔を出した。
「お客様、お風呂が沸きました。よろしければお入りください」
女中はお辞儀をして言った。
「あら、ちょうど良かった。スゥ、入ってきたら? あなた長旅で垢が溜まってるでしょう? それに、服も汚れてるし……この子に合う服も用意してくれるかしら?」
シーゼルが言うと、女中はまたぺこりとお辞儀した。
「それと、ジークは怪我があるから今は無理ね」
シーゼルは、ベッドに寝ているジークを一瞥して言った。
「それでは、ご案内致します」
女中はそう言うと、スゥを連れて部屋を出て行った。スゥはシーゼルにお礼を言ってから、その後に続いた。
「それにしても本当、あなたって意地悪なのね」
スゥがいなくなった部屋で、シーゼルは言った。
「そうかもな」
ジークは寝返りをうって、シーゼルに背を向けながら言った。
「あなた、自覚してないんでしょ」
シーゼルはため息をついて言った。ジークはすぐには答えず黙っていた。
しかし、シーゼルが答えを諦めかけた時、ジークは口を開いた。
「なあ……何が悪かったんだ?」
その答えにシーゼルは思わず吹いてしまった。
「あれほどたくさんの人間を救った英雄も、こういう事になると年相応って訳ね。案外と可愛いところもあるじゃないの」
シーゼルは笑いをこらえつつ言った。
「ったく、うるせえな」
ジークはぶすっとした声で言う。
「ほら、そんな拗ねないで!」
シーゼルはクスクス笑いを漏らしながら言った。しかし、ジークはその言葉に無視を決め込んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ね」
込み上げてくれる笑いを何とか抑えつつ、シーゼルは謝った。
「それで、『何が悪かったか』ですって? 知りたいならシーゼルお姉さんが教えてあげますよ♪」
しかしジークはまた無視する。
「もう、そんな怒らなくたって、冗談に決まってるじゃない!」
シーゼルはそんなジークの様子を見て可笑しそうに言った。しかし、これ以上ジークをからかっても意味がないと思ったのか、話をもとに戻す。
「そうね……あなた、大事なことが解ってないわね。誰だって、好きな相手の事は少しでも良く知りたいって思うものでしょ?」
「好き……? 誰が?」
ジークは内心驚いてシーゼルを振り返って尋ねた。
「え? もしかしてあなた、気がついてないなんて言わないわよね?」
シーゼルは驚いたように言った。
「だから、何に?」
なおも訳が分からないようすで、ジークは尋ね返す。
「スゥがあなたの事を好いてるっていうことに、よ」
シーゼルが当たり前のように放ったその言葉に、ジークは心臓が跳ね上がる思いがした。
「そ、そ、そうなのか!?」
「まさかとは思ったけど、気付いてなかったのね……」
シーゼルはやれやれという風に言った。
「ていうか、何でお前にそんな事が分かるんだよ」
「彼女を見ていて、気づかない方がおかしいわよ」
そう言われてジークは、信じられないといった様子でシーゼルを見た。まるで、シーゼルが次の瞬間には冗談だと言い出すのではないかと訝っているかのようだった。
「……とにかく、」
シーゼルは呆れて言った。
「好きな人の事を知ってるって、すごく嬉しい事じゃない? それだけ相手のことを理解してるってことになるし、相手から直接教えてもらえたら、それだけ相手に信頼されてるってことになるから」
「そういうもんか?」
「……相変わらず、本当に鈍いのねぇ」
そう言ってシーゼルは、扉の方に向かって歩いて行った。
「とにかく、スゥはあなたの事がもっと知りたいのよ。しかも、できればあなたの口からね。それじゃ、私は仕事があるし、あなたも休息が必要そうだから、これで失礼させてもらうわよ」
そう言ってシーゼルは扉を開き、部屋を出て行った。
スゥは口の上までお湯につかり、ぶくぶくと息を吐いた。
ルネア家の邸宅の浴場は、スゥが予想していたよりも相当豪華な物だった。大理石でできた、プールとしか言えないような大きさの浴槽の側面や、壁や床、銀色に輝く蛇口のひとつひとつにまで細やかな彫刻が施されていて、貧乏生活が体に染み付いているスゥにとっては、触ることすら億劫になるほどだった。
備え付けている石鹸もまた高級な物のようで、これもスゥは、自分なんかが使ってしまうのを勿体なく感じつつ、それで長年溜まった垢を落としたのだった。
スゥはその浴槽につかり、その浴槽の中央にある、口からお湯を吐き出しているライオンの姿の彫像を眺めつつ、先程シーゼルから聞いたことに関して考え込んでいた。
ジークはスピルナ動乱で沢山の人々の命を救った英雄だった。あまり実感は湧かないが、恐らく助けられた人々から見れば、ジークは偉大な人間なのだろう。
それを知ってスゥはまず驚き、次にどこか誇らしくなり、しかしその次には淋しく感じた。
その理由は大きく二つと言っていいだろう。その一つ目は、なぜだかジークが唐突に遠い人間になってしまった気がしたからだ。人々から嫌われてばかりの『不吉』なみすぼらしい孤児である自分とジークでは釣り合いが取れる訳がない。その気持ちが、スゥの胸を締め付けたのだ。
そしてもう一つは、ジークが自身の事を自分に話してくれなかったことに対する多少の恨めしさだった。
改めて考えてみると、ジークは今まで自分の事をほとんど話そうとしなかった。ジークが旅をする理由を尋ねた時も、ジークの出身地を聞いた時も、ジークは答えようとしなかった。
一度だけ、自分に家族がいたかどうかさえ知らない、と話してくれた事があったが、本人から聞いたのはそれっきりだった。
(どうしてジークさんはあたしに自分の事を話そうとしないのかな……)
とスゥは思った。
(あたしの事、信用してくれていないのかな)
そこに考えに至ったとき、スゥは微かな怒りを覚えた。
しかしその瞬間、スゥは突然不思議な感覚に包まれた。
(あれ、あたし……怒ったのっていつ以来だっけ……)
それは普通の人間からすればありえないような妙な気分だった。もし例えるなら、出掛けるときに大事な物を家に忘れ、その事に後になって気づいたような感じだった。ただ、スゥが特殊なのは、その『忘れ物』が感情だったということだ。
自分はいつからか、怒りという感情を忘れていたのだ。スゥは悪寒を感じて、反射的に自分の肩を抱いた。
その時、自分の中にスゥは『何か』を感じた。その何か、スゥから怒りという感情を奪っていた何かが、自分の中にいるのだ。
それは、まるで真っ暗な闇その物のようであり、スゥは一瞬、自分の中のその闇に飲み込まれるような錯覚を覚えた。
しかし、その『何か』は出てきた時と同じように突然その気配を消し、それと同時にさっきジークに対して感じた怒りも、自分が闇の中に飲み込まれるような感覚も消えうせた。スゥは訳も分からず落ち着かなくなって、急いで浴槽から出た。
今、一瞬自分の中に感じた『何か』は、もしかすると自分の正体に関係しているのかも知れない、とスゥは直感した。自分の中にいる漆黒の闇、恐らくはそれがスゥを普通の人間とは違うものにさせ、それが他の人間にスゥへの根源的な敵愾心を抱かせているのだ。言い知れない不安を感じて、スゥは半ば走るように浴場を後にした。
ジークは窓越しに、レイアークの街の風景を眺めていた。流石に町長の邸宅だけあって、街で最も高い丘の上に建っているので、湖に囲まれた美しい街の全体を見渡すことができるのだ。
その時、ドアをノックする控えめな音がした。その叩き方が誰の物なのか、ジークにはすぐに分かった。そこでジークが入ってくるように言うと、ドアを開いて案の定スゥが顔を出した。しかし、顔を覗かせるだけで、なぜか中には入ってこない。
「どうしたんだ、スゥ。入ってこないのか?」
ジークがその様子を訝しんで尋ねると、スゥはなぜか恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「それは、その……」
スゥはしどろもどろな声で言葉を濁す。
「だから、どうしたんだよ」
「ふえ……だから、その……」
スゥは目を泳がせつつ言った。
「あんね、ジークさん……お風呂から出たら、女中さんが新しい服、用意してくれてて……そのう……」
そこでスゥはにわかに決意を固めたようにゆっくりと部屋に入ってきた。
「……これ、似合うかなあ」
ジークはしばし、そのスゥの姿に見惚れた。スゥはシーゼルが用意させたらしい緑色の綺麗な長い服を着ていた。スゥには多少大きいようではあったが、そのおっとりした雰囲気はスゥに似合っている。その服にかかる長い髪の毛はまだしっとりと湿っていて、石鹸の物らしいほのかな香りを漂わせていた。
「ど、どうかな……?」
スゥは落ち着かなそうにそわそわして尋ねた。
「別に……」
ジークも居心地が悪くなって心にもないことを言ってしまう。しかし、ふと気付いたように言った。
「そう言えばお前、意外と綺麗な肌してたんだな。今まで汚れてたから気付かなかったけど」
「ふぇ……そお?」
スゥは袖をまくって自分の腕を眺めて言った。ジークは恥ずかしくて口には出せなかったが、その腕はそれこそまるで絹のような、色白できめの細かいほっそりとした腕だとジークは感じた。
「ああ。なんつーか、こうして見ると、真珠みたいだな」
ジークは内心緊張しつつ、自分でも気障だと後になって恥ずかしくなるような台詞を言った。
「えへへ、そんな事ないよぅ。ジークさんたら、おせじが得意なんだから」
スゥは照れつつ言った。
「べ、別に世辞じゃねえよ。ただ、何となくそう思っただけだ」
ジークは目をそらして言った。
「そう? そう言って貰えると嬉しいなぁ」
スゥはその言葉通り嬉しそうに顔を綻ばせる。
「やっぱりあたし……あの日ジークさんに出会えて、ホントによかった!」
「なんでそんなこと藪から棒に言うんだよ」
ジークは訝しむように言った。
「だって、ジークさんに出会えてなかったら、今頃もう死んじゃってたかもしれないもの」
「それは……そうかもしれないけど」
ジークが初めてスゥを見た時、スゥは例の魚屋に泥棒したと誤解されて追われていたのだ。そしてその魚屋は、その直後にメトネスにたぶらかされてパテルに火を放ったのだった。
そう言えば、とそこでジークはふと思った。メトネスはあの時、
『オイラはこのニンゲンの中に巣くっていた『闇』を、このニンゲンの願いが叶えられるように、力に還元してやっただけだぜ?元々すべてはコイツが願ったことだったんだぜ』
と言っていた。もし魚屋の『願い』が破壊衝動だったとしたら、その原因を作ったのは恐らくあの昼の出来事だったのだろう。だとすれば、魚屋がメトネスに操られた責任は、間接的に自分にもあるということになる。
「でも、もしかしたらお前はこれから、オレに出会ったせいで死ぬことになるかもしれないんだぞ」
その言葉は、ジークの口から自然に出ていた。
「……きっとジークさんが護ってくれるから大丈夫だよ」
スゥは愛くるしい微笑みをジークに向けた。
「ったく、そんなこと言って、死んでから恨むなよ」
ジークも少しつられて、顔を綻ばせて言った。
「そしたらあたし、化けてジークさんの背後霊になって、荷物の中の食べ物ぜーんぶ食べちゃうよ」
「それだけはホントに困るからよしてくれ」
ジークはスゥの表情を見て、スゥなら本当にやりそうだと思いつつ言った。もしスゥの背後霊などに取り付かれたら、本当に食糧を食い尽くされて行き倒れになってしまうこと請け合いだ。
「……だから、絶対に死ぬなよ」
「うん!」
表の意味と、裏の意味、二つの意味をこめてジークが言った言葉に、スゥははっきりと頷いた。
護るべき人がいる―その幸福さをジークは噛み締めていた。もう、昔とは違う。オレは、誰かのために生きることができるんだ、と。
しかし、もうあの頃のように自分のために生きる世界には戻りたくない。そう強く思えば思うほど、心の奥底にうごめく、大切な人の死への恐怖感は募っていくばかりであった。
四章「The Strength For Someone」




