第九章 「クレオスナ祭」
昔々、当時このゼンロ大陸の北に存在した大陸にあったと言われるゴルゴダという帝国に、『シオンの姫』と呼ばれる世にも美しい姫君がおりました。姫は世にも珍しいアメジスト色の瞳と、類い稀なる美しさを持ち、またこの上なく心優しい清い心も持っておりました。
姫は音楽の才能を生まれ持ち、彼女がオカリナを吹けば小鳥たちが集まり、その音色に聞き惚れました。またその笛の音は人々の傷ついた心を癒すことができました。それで彼女は、その才能を人々のために惜しみなく使いました。
ところでちょうどその頃、私達の住むこの世界は五十年の間続いたかつてない巨大な戦争のただ中にありました。これが現在も伝説として語られる『大戦乱』です。
運よく姫が育つ頃は、ゴルゴダ帝国は休戦状態にありましたが、やがて再び戦争に参加することを余儀なくされました。そしてかりそめの平穏のうちに育った姫も、『大戦乱』の悲惨な現状を否応なく実感することとなりました。国と国が戦争し、人と人が殺し合う、その余りに酷い現実を目の当たりにして、平和を愛する心優しい姫は悲嘆に暮れてしまいました。
自国の民だけではない、他国の民のことまでもも気にかけていた彼女は、戦争に対する恐怖のあまり、次第に心を閉ざすようになって行きました。何より、戦争を止めるために何もできない自分の無力さに対する己の身をも焼くような怒りが、彼女にとって最大の負担でした。
そんな頃、姫は奇妙な夢を見ました。その夢の中には煌めく光の球のようなものが現れて、不思議な美しいメロディーを響かせていました。その曲には神聖な魔力があって、それを聞いた姫の心は次第に癒されていきました。
そして光の球は姫に、この曲を奏でて、地上で苦しむ人々を救うようにと言いました。その奇妙な夢から醒めた時、姫の手には見たこともない模様が描かれたオカリナが握られていました。
その朝、姫はそのオカリナをくちびるにあて、夢の中で聞いたメロディーを奏でてみました。するとその瞬間、それまでどんよりと曇っていた空が、あっという間に晴れ渡りました。そしてその音を聞いたすべての生き物の傷や病気が癒され、満たされたような幸福感を覚えたのです。
それが、五十年間続いた史上最大の戦争が終結する、前代未聞の奇跡の始まりとなるのでした。
そのオカリナによって奏でられる音色によって、姫は人々を癒し、その心を惹きつけて行きました。すると、長く続いた戦争に疲れ果て、平和を望んでいた人々は彼女の元に集まり、いつしか大軍勢となっていきました。人々は、世界各地で続いている戦争を諌めるために、どの国家にも属さぬ平和維持軍、リィト騎士団を結成しました。
リィト騎士団は、世界に平和を取り戻すという大義の元に、強い団結力と士気を武器に各地の戦争を次々に平定していきました。そうやって平和を取り戻した国の人々はリィト騎士団に感化され、騎士団に加わって行ったので、リィト騎士団はその度にさらに強い力を手に入れて、それによって別の国を平定していきました。
そして遂に、たった一人の姫の行動によって、数え切れない犠牲者を出し、大地を荒らし切った戦争、大戦乱は幕を閉じたのでした。
「――んじゃ、もしかしてそのお姫様が使ったオカリナが、これなんですか?」
スゥは話のスケールのあまりの大きさに、到底信じられないという様子で聞いた。
「そういうことです。と言っても、なにせ千三百年前の事ですし、あくまで伝説ですから、この話のどこまでが本当だったのかは、今となってはもう分からないんですけどね」
語り終えて一息ついたミンネは、独特の語り口調を和らげて、元通りの声に戻して答えた。
「ふぇえ……」
スゥはため息を漏らし、手元のオカリナを見つめた。
「それじゃあ、幻の町でスゥが悪魔の幻影を消せたのも、その力を使ったっていう事なのか?」
ジークが合点がいったように言った。
「恐らく、そういうことなのでしょう。あなたの瞳の色の事を考えても、きっとあなたは『シオンの姫』と何か深い関わりがあるのでしょうね。そして、そのためにオカリナはあなたを主とみなした、と考えるのが妥当でしょう」
ミンネはスゥを見つめて言った。
「ふえ、でも、あたしは……」
スゥは少し当惑したように曖昧な声を出したが、ふと口をつぐんでしまった。事情を知らないミンネには分からないだろうが、ジークにはスゥが言いかけた内容が分かっていた。
まだ確かな証拠がある訳ではないが、スゥは悪魔だ。今まで、瞳が紫色なのも悪魔であるが故だと思っていた。そんなスゥが、本当に英雄的な存在である『シオンの姫』と関わりがあるのだろうか。
「実を言うと」
ミンネは言った。
「『シオンの姫』に関しても、そのオカリナに関しても、まだ分かっていない事が多いんです。だから私は、そのオカリナの真の持ち主を探し出すことで、その秘密について調べようとしていたんです。それで、カレハさんに渡して、誰かそれらしい人に出会ったら渡すようにお願いしていたんです」
「それが偶然スゥの手に渡って、スゥがそのオカリナの力を使った、って言うことか。偶然にしては出来過ぎだな」
ジークは考え込むように言う。
「ええ、きっと、始めからこうなるように運命が働いていたんでしょうね」
ミンネは言った。
「あの……」
しばらくの間が空いた後、スゥが遠慮がちな声を上げた。
「ミンネさんは、その、『シオンの姫』がオカリナで吹いた曲がどんなだったか、知ってるんですか?」
それを聞いて、ミンネはなるほどという風に頷いた。
「もちろん知っていますよ。実を言うと、彼女の吹いた曲は、人々の間に広く広まり、語り伝えられてきたので、知るのには苦労はしません。ただ、『シオンの姫』が吹いた時のような魔法の力を発揮できた人間は、今まで一人もいませんでしたが。もし良ければ、クレオスナ祭の間に教えてあげましょうか?」
「ふぁ、良いんですか?」
スゥは嬉しそうな声で聞き返した。
「もちろん」
ミンネはスゥの素直な様子に、つい顔を綻ばせて言った。
するとちょうどその時、ミンネの部屋の扉をノックする音があった。そこでミンネが立ち上がり歩いて行って扉を開くと、客人を部屋の中に招き入れた。
「……おや、ジーク殿、こんな所にいたんですか」
ジークとスゥの姿を認めて、どこか呆れたような声を出した客人は、アトルだった。
「城に来たという報告を受けたのに、いつまで経っても僕の部屋に来ないから、心配していたんですよ」
「悪いな。ついミンネと話し込んでたから、忘れてた」
ジークは悪びれもせずに言う。
「ふあ、そうだった!」
その時スゥが突然、思い出したように大声を上げた。
「ど、どうしたんだよ」
その大声を至近距離で聞いたジークは、キーンとする耳を庇いながら聞いた。
「あっちからおいしそうな匂いがしたんだった!」
言うが早いが、スゥは匂いの元を探り、それを腹一杯食べ尽くすという使命感に燃えて、早速部屋を飛び出そうとした。それをジークが服の首根っこを掴んで何とか捕まえる。
「何アホな事やってんだよ」
「ぶー」
ジークに諭されて、スゥは不満げに頬を膨らませた。
「まあまあ、焦らなくても料理なら後で好きなだけ食べられますよ」
アトルもそう言って宥める。
「バカ、コイツに好きなだけ食べさせてたら、アルト家が破産するぞ」
ジークは冷静な声で忠告する。
「はは、面白い冗談ですね」
アトルはそう言って軽く受け流したが、ジークがそれにまったく反応しないのを見て、ふいに底知れぬ不安に襲われた。
「も、もちろん、冗談……ですよね……?」
念のためと思って確認するが、それに答える声はなかった。
その後、ジークとスゥにはクレオスナ祭が終わるまでと、北の塔の二階にある一室が宛がわれた。その必要以上に広い豪奢な部屋には、茶色いカーペットが敷かれていて、二つの大きなベッドや見晴らしのよいバルコニーなどがあり、礼服を持ち合わせないジーク達へのアトルの配慮か、パーティーに出るときに着る為のドレスもあった。
夕食は時間になったら召し使いに運ばせるから、それまでは自由に過ごしていていい。そう言われて、長旅の疲れがとれないジークは夕食の時間まで寝て過ごそうと思ったのだが、城のパーティーに呼ばれるという貴重な体験に興奮してか、スゥの方はやたらと元気一杯だった。そういう訳で当然、スゥはジークに寝かせるような事はしなかったのである。
それで、その一日が終わる頃には、ジークは疲れを取るどころか、逆に新たな疲れを溜め込んでいた。そんな憂鬱な状況のジークにさえも、給仕によって部屋に運ばれてきた料理の豪華絢爛さには目を見張るものがあった。しかも、その料理でさえ、明日のパーティーで出される物に比べれば何でもないというのだ。
それを聞いてジークは、アルト家の掲げる『平等主義』とやらが、一体どこまで実現されているのだろうと疑わずにはいられなかった。ほんの数週間前までいたレグラ地方の現状から考えると、ゴールテス地方のこの繁栄ぶりは余りにも不公平に思えた。
まあ、それはともかくとして、普段は別段料理という物に何一つ特別な興味を示さず、そこらで売っている干し肉と新鮮で上等なカルビの違いも分からないという程に、食事のより好みもしない性格であるジークにもさすがにはっきり分かるほど、エトワル城の食事はおいしかった。ジューシーなステーキの一口を食べる毎にまるで、魔法のように疲れが取れていくような気さえもした。
さて、ジークにさえこれほど感銘を与え、感心させる料理である。当然、スゥが大人しく割り当てられた分だけを食べて気が済むはずがない。それも、弱冠十二歳の少女に大人の一人前の食事が食べられるはずがないだろうというシェフの無駄な気遣いのせいで、スゥの料理はジークに割り当てられた物よりもかなり少なかったのである。
自分の分をさっさと腹に納めてしまったスゥはしばらくの間、腹をゴロゴロ言わせながらジークの分を物欲しそうに見つめ、またジークに向かって懇願の眼差しを送っていたが、料理に夢中になっているジークは、その視線には気づかなかった。見つめても駄目、となれば、当然、行動に出る。
「……のわっ、おい! スゥ、それはオレの分だぞ!」
言った時にはもう遅い。もはやそこにさっきまであったステーキの面影はなく、ただスゥが至福の表情で口をモグモグさせているだけである。それ以外に、スゥの今の目にも留まらぬ一瞬の行動を証明できるものは何一つなかった。
スゥの小さな喉がコクンと肉を飲み込んだ。そして、まだ満足できないスゥは早速次の獲物に照準を定める。が、当然今度はジークもスゥの行動を予期していた。となれば、スゥより先に残りを全部食べてしまえばいい。
スゥとジークが同時にフォークを伸ばす。そして……今度もスゥの方がほんの一瞬早かった。最後のステーキはジークのフォークが届く直前に横から掻っ攫われて、そのままスゥの口の中に飛び込んで行った。
「ジークさん、このステーキおいしいね!」
そして悪びれもせずにジークに向かって微笑みかけるスゥ。こんなひどい事をしておいてどうしてここまで純粋な笑顔が出せるのか、ジークには不思議でならない。
「オレは誰かさんのせいで殆ど食べられなかったけどな」
ジークは怨みがましい声で応えた。実際、ステーキに手を付け始めたばかりだったジークは、全体の四分の一ほどしか食べられなかったのだった。
「えへへ、ごちそうさまでした」
満足げな声でそういうスゥに、ジークはこれで累計何度目だろうと思いつつ深いため息を吐くしかなかった。
その日の夜、ジークがベッドで眠っていると、部屋の中で誰かが裸足で歩く、ごく小さな足音が聞こえた。普通なら、疲れてぐっすり眠っている人間の目を醒まさせるには到底足りないような音だが、感覚が鋭敏なジークは、その音に気がついて目を醒ました。
ちらっと足音のした方を見てみると、カーテンも締め切って真っ暗になっていた部屋に、微かな星明かりが差し込んでいた。それを目で追って行くと、バルコニーへの扉が開いているのが見えた。そしてそこに、もうすっかり見慣れてしまった華奢な人影が立っていた。
その様子を見た時、ジークは何か奇妙な感覚に襲われて、急に目が冴えてしまった。そして何かに釣られて行くかのように、ベッドを出て、そっとバルコニーに向かって歩いて行った。
そっとジークが歩み寄ると、ネグリジェ姿のままで、手摺りに手を置いて空を眺めていたスゥは、ふっと無言で振り返った。光の加減で表情は分からなかったが、その動作から、スゥの感情が何となく分かるような気がした。
「ジークさん……」
スゥはごく小さな声で言った。もし、これほど辺りが静寂に包まれていなければ、聞き取ることはできなかっただろう。
ジークは何も言わずに、再び空を見上げるスゥの隣に来た。そして横にいるスゥに目をやると、星明かりで微かに青白く照らされたスゥの横顔が見えた。
何も言わずじっと星々を見つめるスゥは、複雑な表情をしていた。何かを訴えるような、懇願するような、問い掛けるような、そんな色々な感情の篭った、どこか物悲しげな表情だった。
そんなスゥの計り知れない表情に、ジークはどう声を掛けていいか、あるいは声を掛けるべきではないのか、まったく分からずに、ただ当惑している事を気づかれたくなくて、スゥに倣って淡々と夜空を見上げる事にした。紺碧の空には満天の星々が散らばっていたが、ジークにとってはそれはたいした問題には思えなかった。
そうして、どれくらい時間が経っただろうか、時間を示すものが何一つない真夜中のバルコニーでは、時間は一瞬にも思えたし永遠にも思えた。まるで、この場所だけが周りの世界の時間軸から切り離されて、独特の時間が流れているようだった。
「……あんね、ジークさん」
ふいに、今にも消え入りそうな声が、意味深な沈黙を破った。そのスゥの声音に、どこかいつもと違うものを感じて、ジークは下手な受け応えをしてしまうのを恐れて、黙って聞いていた。
「ジークさんは……あたしの事なんか……嫌い、だよね」
スゥは声を搾り出すように言った。
「なんで、そう思うんだ?」
ジークは夜空を無心に見つめたまま聞いた。
「だって、あたしなんか可愛くもないし、わがままだし、ジークさんに迷惑かけてばっかりだし、それに……」
「そんな事、問題じゃないだろ」
ジークはどうしていまさらそんな事を言い出すのだろうと思いつつ言った。
「でも……」
スゥは手摺りに乗せた左手を動かすようなそぶりを見せたが、結局くじけたように元の位置に戻した。
「なにかあったのか」
ジークが聞いた。
「夢を、見たの」
スゥはそう言って石作りの手摺りをぎゅっと掴んだ。
「ジークさんが、あたしを置いてどっかに居なくなっちゃう夢……」
スゥは微かに震えた声で言った。それを聞いてジークはやっとスゥがこんな真夜中に起き出してきた理由が分かった。
「あたし、怖いの……大変だけど楽しい今の生活が、ジークさんが、いつかどこかに消えちゃうんじゃないか、って」
「そんなの、ただの夢だろ。気にすることないって」
ジークは言った。
「それにしても、この前の事といい、お前はいつも怖がってばっかりだな。そんなんでよく今まで生きて来れたもんだ」
「誰かさんと違って、苦労してるもん」
ジークの言葉にスゥも少し安心したのか、つい釣られて軽口を叩いた。が、そんな自分を恥じるかのようにすぐに顔を俯けてしまった。
「……お前は自分を過小評価し過ぎなんだよ」
そんなスゥの様子を見て、ジークは言った。
「お前の過去に何があったのかは知らないけど、少なくとも今のお前は、お前が思ってるほど嫌われものじゃないと思うぜ」
「……ほんとに?」
スゥは何かを見透かそうとするかのようにじっとジークを見つめた。星明かりが、潤みがちな二つの瞳にキラリと反射した。
「だって、そうだろ」
ジークは後押しするように言った。
「そりゃ、確かにちょっと、もとい、だいぶムチャクチャなところもあるけど、そういう所も含めて、全部がお前の魅力だろ?」
スゥはまるで放心したかのようにジークを見つめ続けていた。それから、しばらくの間、落ち着いた静寂が漂った。ジークは相変わらずスゥとまっすぐ目を合わせるのが気恥ずかしくて、ずっと星空を見つめていたが、気持ちは空とはまったく別の方向に向かっていた。
その時、突然スゥが口を開いた。
「ふあ、ジークさん、あれ流れ星だよ!」
「え、どこだ?」
スゥの言葉に反応して、ジークの注意が一瞬、空にそれた。
すると、その瞬間を見計らったように、何か温かくて柔らかいものが、ジークの右頬に優しく触れた。
始め、ジークには何が起こったのか分からなかった。少し経って、やっと今起こった現象を理解しはじめて、顔が熱くなるのを感じながらスゥに目をやった。
「……スゥ、お前、今……」
ジークは自分の右頬に手をやりながら、信じられない思いでのろのろと口を開いた。ジークの心臓は今や破裂しそうなほど激しく脈打っている。
「もう、ジークさんったら、単純なんだから」
スゥはそんなジークの反応を楽しみ、また少し恥じらうように、愛おしげなほほ笑みを浮かべて言った。
「えへへ、おやすみなさい、ジークさん!」
スゥは照れ臭そうな声でそういうと、放心状態のジークを一人残して、スキップするように自分のベッドに戻って行こうとした。
「……スゥ、ちょっと待ってくれ」
その時、ジークは自分が何を考えているかも分からずに、ただ、自分の中の何かが『今しかない』と言っているのを聞きながら、スゥを呼び止めた。
「なあに? ジークさん」
スゥは首を傾げて振り返った。ジークはスゥの問いには答えず、自分のベッドの脇に掛かった外套のポケットを探った。
「……これ、やるよ」
ジークは自分の声が照れと緊張で上擦っているのを感じながら、手に持ったものをスゥに手渡した。暗さのお陰で真っ赤になった顔を見られないのが、せめてもの救いだった。
スゥはジークからの思わぬプレゼントをよく見ようと、ベッド際のランプに火を入れた。すると、スゥの周囲数メートルがぼうっと赤く照らし出された。
「ふわあ、綺麗……ジークさん、これ、どうしたの?」
スゥは感嘆の声をあげた。その手の中にあるペンダントは、ランプの光を存分に受け止めて、美しくキラキラ煌めいていた。
「レイアークで買ったんだ。ずっと渡そうと思ってたんだけど、なかなかタイミングが掴めなくて……」
ジークは気恥ずかしく思いながら説明した。
「それじゃ、あたしなんかの為に、わざわざ買ってくれたの?」
スゥは、信じられないような思いをその眼に宿してジークを見た。
「ま、まあ、な」
ジークは頭の後ろを掻きながら言った。
「ふわあ、嬉しい! ありがと、ジークさん!」
スゥは心から嬉しそうに礼を述べたが、ふいにちょっとだけ顔を曇らせた。
「どうしたんだ? 気に入らなかったか?」
「そんな事ないよ。ただ……あんまり綺麗だから、あたしなんかじゃ、釣り合わないんじゃないかなぁって思って……」
スゥは苦笑を作って言った。
「……ね、ジークさん」
少ししてスゥはちょっと控えめな声を出した。
「なんだ?」
ジークが先を促す。
「もしいつか、あたしがこのペンダントに似合うような、立派な女の人になったら……あの……その時は、あたしのこと……」
スゥはそこで言葉を切った。そして、その続きを言うべきかしばらく迷っているようだった。ランプの赤い光に照らされていたせいで、スゥの顔が、尖り耳の先端まで真っ赤になっていることにジークは気づかなかった。
「何が言いたいんだ?」
一方、すこぶる鈍感なジークにはスゥの考えている事が全く分からず、半ば先を急かすように聞いた。その言葉がスゥに複雑な思いをもたらしたということも知らずに。
「……ううん、ごめん……何でもないの」
スゥはついに断念して言った。
「おやすみなさい、ジークさん」
そして、ジークに真意を尋ねさせる隙を与えずそう言って、ベッドに戻って行った。
「相変わらず、変なやつだな」
ジークはそうつぶやきながら自分も自分のベッドにもどり、ランプの蓋を開いて中の火をふっと吹き消すと、あっと言うまに眠りについた。
次の朝、ジークはバルコニーから差し込む朝日で眼が覚めた。何となく気持ちのよい朝だった。まるで、記念すべきクレオスナ祭の第一日目を、天が祝福しているかのようだった。あるいは、クレオスナ祭を心から祝う人々の心が、その雰囲気が空気の中を流れていて、それがこの朝を気持ち良く感じさせるのかもしれない。
「おはよ、ジークさん!」
ジークが目を覚ましたことに気がついて、バルコニーへ続く扉の枠に手を添えて外の景色を眺めていた、どこか楽しげな表情のスゥが言った。桜色のネグリジェがそよ風にヒラヒラと揺れている。
「……ああ、おはよう」
ジークは欠伸を噛み殺しつつスゥに応える。
「それにしても、いい朝だな」
ジークはそう言いながらベッドを出て、スゥの近くへやってきた。
「ほら、ジークさん、寝癖ついてるよ」
スゥは傍に来たジークの顔を見上げると、そう言って少し背伸びをしながらジークの頭を撫で付けた。
「寝癖ならお前の方がひどいだろ。もしかして、寝相悪いのか?」
そんなスゥを一瞥して、ジークは言った。
「ふえ、そんなことないよぅ。そりゃたまに、起きたら枕がベッドから何メートルか離れたところに落っこちてる事とかもあるけど……」
「……なにをどうしたらそんな事が起きるんだよ」
ジークは側頭部に跳ね出した自分の寝癖を撫で付けながら言った。
「そんな事言われたって、寝てる間のことなんか分かんないよぅ」
まだ寝ぼけているような間延びした声で、もっともな事を言うスゥ。
その時、部屋のドアをノックする音がした。
「はあい」
スゥはそう言ってドアに駆け寄った。そしてドアを少し開いて訪問者を確認すると、パアっと顔を輝かせた。
「ふあ、おはようございます、アトルさん!」
スゥがドアを開くと、アトルが部屋に入ってきた。
「おはようございます、ジーク殿、スゥさん」
アトルは二人に挨拶した。
「オレ達になにか用か?」
とジークが尋ねる。
「ええ、今日の予定について話しておこうと思いまして」
アトルは言った。
「本日のエトワル城でのパーティーは夕方の六時から始まることになっています。ですので、それまでの間は、好きにしていてください。街でも色々な催しがあるので、街を見学してみるといいと思いますよ。
今日はお二人は城は自由に出入りできるようにしてありますから、六時までには城に戻って、ドレスに着替えていてください」
それでは、と言うとアトルは部屋を出て行った。
「……だって、ジークさん!」
スゥは大はしゃぎで言った。
「ね、街に行ってみようよ!」
「ああ、そうだな。別に城の中にいても、することなんか何もないしな」
ジークは欠伸混じりに言った。今まで何度同じ事を思ったか分からないが、どうしてスゥは、朝っぱらからこんなテンションでいられるのだろう。いくら本人が楽しくても、振り回される側は堪ったもんじゃない。
だが、逆にそんなスゥの存在のお陰で、今のジークは、今までの人生の中で一番、生きていると実感することができているのも事実だった。どうか、こんなスゥと一緒の時間がいつまでも続きますように。ジークは心の中で、生まれて初めて神というものに祈った。
ジークとスゥが着替え終わって、街に行くために廊下を歩いていると、途中で通り掛かった中庭に、誰かがいるのを見つけた。
その人影は、中庭の中央に据え置かれた噴水の縁に座っていた。まだ早朝の為、中庭には余り日光が入り込まず、大部分は影になっているのだが、その人影は影の中に座っていた。そのせいで、ジーク達のいる場所からは顔は余り見えなかった。
ジーク達が近づくと、その足音に気付いたのか、その人影はゆっくりと立ち上がって、こちらを振り返った。
「お前は、ジークか?」
そう言って歩み寄ってきた人物は、黒装束を着込んだ、漆黒の髪の少女だった。背の高さは、ジークよりちょっと下ぐらいで、女性にしてはまあまあな高さだった。
「なんだ、カーラか。久しぶりだな」
ジークはわざとらしくつまらなさげに言った。
「なんだとはなんだ。これでもこの国一番の精鋭部隊の隊長のつもりなんだがな」
カーラはため息をつきつつ言い返した。
「ねえ、ジークさん、この女、誰?」
スゥはすぐさまジークを睨んで、冷たい声で尋ねた。
「スゥ、お前、オレが女性に会う度にそれ言わないと気が済まないのか? ちょっとはオレのことも信用しろよ」
ジークは呆れた声で言う。
「コイツはカーラ・ゴート。精鋭部隊トランプの隊長で、アトルの上司だよ。これで充分か?」
とジークが説明する。
「おいジーク、今私を『コイツ』呼ばわりしなかったか?」
そこにすかさずカーラが割り込んだ。
「気のせいだろう。それよりカーラ、コレはスゥ・ロ・ヤマ・イシュラーグ。オレの旅の道連れだ」
ジークは軽くあしらって話を進めた。
「ジークさん、今あたしのこと『コレ』って言わなかった?」
「……気のせいだろう」
ジークは言った。
「それよりスゥ、早く街に行こうぜ。じゃあな、カーラ」
ジークはそう言うと、スゥの手を引っ張ってさっさと行ってしまった。
「……まったく、いったい何のつもりなのだ?」
取り残されたカーラは、訝しげに一人ごちた。
「照れてるんですよ、きっと」
突然、背後からアトルの声がして、カーラは飛び上がりかけた。が、隊長の威厳を保とうと、ギリギリで平静を装った。
「アトル、お前、いつからそこにいた?」
カーラが尋ねた。
「さっきからずっといましたよ。それにしても、隊長は僕と二人きりになると、性格が一変するはずなんですがね。つまり……」
そう言ってアトルは一瞬言葉を切って、周りを見回した。
「ここから見えるどこかに、スパイがいるということになりますね」
カーラは、幼なじみであるアトルの前でだけ、いつも隠している本音が表に出てきてしまうという習癖がある。もしカーラがそれ以外の人間の気配を感じ取っていると、本人がそれに気づいているかどうかに関わらず、自然と本音が隠れてしまうのだ。
しかし、アトルが神経を張り詰めさせても、スパイがどこに隠れているかは分からなかった。
「はあ……今夜のパーティーくらいは、平穏に終わらせて欲しいんですがねえ」
「というかアトル、私を探知器がわりに使うな!」
アトルが余りにも当たり前のように自分の特性を利用するので、カーラは少し苛立って言った。しかしアトルはマイペースに、
「いいじゃないですか、便利なんだから」
と窘めるのだった。
「チィッ、あの『継承者』、なんでオイラの存在に感づいたのさ!?」
中庭に面した二階のある部屋で、真っ黒な腕の長い悪魔・メトネスは一人呟いた。どうやら場所まではバレなかったようだが、存在が気付かれただけても大きな損失だ。
「せっかく苦労して城に入り込んだのに、無駄にする訳には行かないしね。といっても疫病神は出掛けちゃったみたいだし、仕掛けるのは今夜にするしさ」
メトネスはそう言ってケケケ、と笑った。
「コレが終われば、オイラ達の最終目的まで、後一歩だしね。この計画のために、耐え抜いてきた日々が、ついに報われるのさ!」
その時、メトネスのいる部屋のドアを開く音がした。メトネスが振り返ると、そこにはメトネスを見て唖然として、声も出せないでいる召し使いがいた。メトネスは心底面白そうにその召し使いの表情を眺めた。
「ケケケ、飛んで火にいる夏の虫! その体、使わせてもらうしね!」
数秒後、そこにメトネスの姿はなく、ただ、どこか様子のおかしい、糸で釣られた人形のようになった召し使いがいるだけだった。
―フェルメ・エトワル城 城下街・アルス―
「ふわあ、ジークさん、見て見て!」
大はしゃぎのスゥはあっちこっちに面白いものを見つけては、指差して喜んでいた。しかしその声も、周囲の人々の騒ぎ声のせいでよく聞こえない。
クレオスナ祭第一日目の今日、アルスの活気はジークの予想を遥かに超えていた。あちこちでパレードやら大道芸やら出店やらが混在していて、それが様々な色彩で、それぞれの民族のありようを主張するので、ジークには目がチカチカしてたまらなかった。
「ね、ジークさん、あそこにワッフル屋さんがあるよ!」
スゥはジークの腕を掴んで言う。
「あるから、なんだよ」
ジークは答えを分かっていながら尋ねた。
「一緒に食べようよ!」
しかしスゥの答えは、ジークの予想していたものとはまったく同じではなかった。
「スゥ、お前が『一緒に食べよう』なんて珍しいな。いつもは自分だけ食べられれば満足するのに」
ジークがそういうと、スゥは照れ臭そうにほほ笑んだ。
「えへへ、だって、たまにはジークさんのことも大事にしてあげなきゃ、いじけちゃうでしょ?」
「いじけねーよ」
ジークは言い返した。
「もう、強がっちゃって、可愛いんだから」
スゥは何故か嬉しそうな様子で言った。
「強がってないし可愛くもない!」
ジークはつっけんどんに言い返した。
「そうやって人をからかってると、ワッフルも買ってやらないぞ」
「じゃ、もうからかわないからワッフルちょーだい!」
それを待っていたと言わんばかりに、スゥはジークの言葉尻を捉えて言い寄った。
「……なあ、いっつも思うんだが、お前の言葉って、どこからどこまでが本気なんだ?」
ジークは嘆息して言った。今のスゥの言葉のうちでも、どこまでが本音で、どこからがワッフルを買ってもらうための策略なのか、まったく分からない。
「もう、ジークさんったら、分かってるくせにぃ」
スゥはそう言うと、じゃれつくようにジークに擦り寄った。
「分かんねえよ。っていうか、くっつくな」
ジークはぶっきらぼうに言い、スゥの手を振り払った。
「ぶー」
スゥは不満げに頬を膨らませたが、ジークがワッフル屋に足を向けている事に気づいて、表情を一変させた。
「ふあ、ありがと、ジークさん!」
スゥは嬉しそうにそう言うと、人混みの中をジークについて行った。そして、はっきり言うのが恥ずかしいので、本人にも周りの群集にも聞こえないように小声で付け足した。
「……ワッフルなんかより、ずっとずっと大好きだよ♪」
―フェルメ・エトワル城―
「それでは、これより、ユースナ歴1337年度・クレオスナ祭祝賀パーティーを始めたいと存じます」
主催者であるアルデバラン・アルトの声が響く。場所はエトワル城の大広間。昼間の街の賑わいとは打って変わって、上品で優雅に飾り付けられ、中央にダンスをするための広い空間を設けたパーティー会場は、まさに上臈の舞踏会というイメージそのものだった。ジークやスゥやミンネ以外の客は、恐らく皆、他の国などからやってきた賓客なのだろう。その見た目も、身のこなしも、それだけでその身分をはっきり表しているようだった。
「ふあ、ジークさん、この服歩きづらいよ」
周りの豪奢な様子におどおどしつつ、スゥが言った。スゥが着ているのはアトルから渡されたすみれ色のドレスで、スカート丈は地面に擦れるほどある。それに加えて随所に施されている繊細で美しい装飾のせいで、ドレスというものを生まれて初めて着たスゥは、歩くのも一苦労だった。
「やっぱり、こんなに豪華な服、あたしには似合わないんだよ」
ドレスのすみれ色や、右のこめかみに着けられた同じ色の髪飾りが、スゥ自身の紫色の瞳ともマッチして、とてもよく似合っているのだが、スゥはどうしても自信が持てないようだった。
「そんな事ないですよ、スゥちゃん」
黄緑色のしなやかなドレスに身を包んだミンネは、ほほ笑んで言った。
「とてもよく似合っていますよ」
「……そうかなぁ」
スゥはまだ信じられないようすで言った。
「じゃあ、ジークさんは? この服、似合ってると思う?」
「え? ああ……ま、まあまあ、かな」
ジークは、スゥに見惚れて顔が火照っているのがバレないように急いで顔を逸らしながら、心にもないことを言った。
「どうしたの、ジークさん?」
ジークがわざとらしくそっぽを向いているので、スゥは心配した声で聞いた。
「え、あ、いや……なあ、スゥ、ちょっとテラスに行ってみないか?」
ジークはそっぽを向いたまま言った。パーティー会場は、この大広間だけでなく、外に張り出したテラスもある。もう日は暮れたから、テラスに行けば明かりはオレンジ色のランプだけになる。そこでなら、スゥにもジークの顔が赤くなっていることにも気づかないだろう。
「ふえ、いいけど……ジークさん、どうしてあたしの方を見てくれないの?」
「べ、別に……それより、早く行こうぜ」
スゥは首を傾げながら、どこか様子のおかしいジークについて行くのだった。
おいしそうな食べ物を見かける度に手を出そうとするスゥを、ジークは半ば強引にテラスまで引っ張って行った。むろん、その間一度もスゥには顔を向けずに。
その途中、ジークとスゥは何人かのウェイターとすれ違った。そして、その中の一人―なぜか他のウェイターよりもぎこちない動きをする一人―とすれ違った時、スゥは何か奇妙な音を聞いた。周りの人間達の魂が発する響きが、緩やかなハーモニーを奏でている中で、一人だけ歯車が狂ったような音、無理矢理に動かされて軋んでいるような音、そして、ジークと初めて出会った日に聞いたのと同じ音―
「ジークさん、ジークさん!」
スゥに呼び止められてジークは足を止めた。
「どうしたんだ、スゥ?」
ジークはスゥをちらっと見て言った。
「あんね、あそこにいるウェイターさん……」
スゥは周りを憚って一旦言葉を切ると、ジークに近寄って耳打ちした。
「……ったく、なんでよりにもよって、こんな日に……」
ジークはパーティーの客に対して申し訳ない気持ちを募らせながら、ため息をついた。
「こんなところにいたんですか、隊長」
テラスの外の林の中にあった空き地で、カーラを見つけたアトルが言った。
「パーティー会場にいないと思ったら、こんなところにいたんですね。ユピティエネが心配していたので、わざわざ探しに来たんですよ」
「私はパーティーは苦手だ。それより、『隊長』ではなくカーラと呼んでっていっつも言ってるじゃん」
だんだんカーラの言葉遣いがくだけてくる。本音モードがだんだん表に出てきていた。
「そう言われても、隊長は隊長ですから」
対するアトルは礼節をまったく揺るがせずに言った。
「アトルったら、相変わらずお堅いのね」
カーラは子供みたいに頬をぷーっと膨らませた。
「それだけが取りえですから」
アトルは冷静に返した。
「それだけがアトルの短所じゃん」
とカーラは言い返す。
「だいたいアトルはいっつも――」
その時、突然林の中から一人の少女が飛び出してきた。
「――あっ、カーラさまったら、こんなところにいらしたんですか!」
それはさっきアトルが、カーラを探していると言っていた人間で、カーラの侍女であるユピティエネだった。
「なんだ、ユピティエネだったか。人を驚かせるでない」
他の人間が乱入してきたことで、カーラの第二の人格は一瞬にして心の奥底に逃げ込み、トランプ隊長としての人格が現れた。
「カーラさま、そんな言い方ないじゃないですか。折角心配して探しに来たっていうのに!」
ユピティエネは侍女とは思えないような言い方で言った。
「それで、パーティーにはご出席なさらないおつもりですか?」
ユピティエネは言った。パーティーが始まる前から、カーラは不満タラタラだったのだ。
「まあな。私はパーティーは苦手だ」
カーラは腕を組んで言った。その顔は、自分の意見を頑として崩さないという意志を表明している。
「それなら、ちょうど良かった!」
するとユピティエネは、なぜか嬉しそうなようすで言った。
「そういうことなら、アトルさま、こんな所にいないで、会場で私と踊りましょうよ!」
ユピティエネは、すかさずアトルの腕に抱き着いて言った。そして、あからさまな優越感の篭った、意味ありげな一瞥をカーラに投げかける。
「え、それは構いませんが……」
アトルはユピティエネの不意打ちに多少戸惑いつつも、気遣わしげにカーラの方を見る。しかし、それを見たユピティエネはここぞとばかりに言い募る。
「ほら、アトルさま、こんなつれないカーラさまなんてほっといて、私たちだけで楽しみましょうよ♪」
「で、でも……」
ぐいぐい押してくるユピティエネに戸惑いつつ、アトルは心を決めてため息をついた。
「しょうがないですよね。どうやら隊長は乗り気じゃないみたいですし――」
「アトル!!」
突然、怒号にも近いカーラの声が林に響いた。
「は、はい?」
その余りの迫力に、アトルはその場に直立した。
「私と踊れ! 今すぐに!」
ふつふつと沸き上がってきた嫉妬の念につき動かされたカーラは、命令口調で言った。
「はい!」
アトルは、これ以外の受け答えをしたら、ただじゃ済まされないだろうなと思いつつ答えるのだった。
「おい、お前!」
ジークはスゥが指し示したウェイターの肩を掴んで呼び止めた。
すると、そのウェイターはゆっくりと振り返った。
その真っ赤な丸い目と、同じく真っ赤な三日月状の口をしたウェイターは、スゥを見てケケケ、と不気味に笑った。
九章「Kreosna festival」完




