ライアン・アクヤーク
私の天使が青ざめている。
青ざめながら、父ゆずりの暗緑の瞳に強烈なまでの光を宿している。
彼女は怖がりながらも、決意したのだ。
「御兄様、お願い」
震える唇で紡ぐのは決して甘やかな声ではない。
「王弟殿下に、苦難が迫っているかもしれない。それを、お助けしたいの」
今日、会ったばかりのあの無礼な男。
私の天使、レイラに、あろうことかアルマも会いたがっていたと吹き込んだ男。
思い出しただけでも腸が煮えくり返る。
本来、アクヤーク家と王家は、付かず離れず。
陛下より賜る栄誉も、直接には受け取らない。だから向こうは王弟をたてて、私たちも当主を控えさせる。
儀礼的なものである体裁をとってきたのだから、話し合いも無難に済ませればいいものを、奴め。
意図せずして浴びせかけられたアルマの話題に、水をかけられた子猫のように縮こまった私の天使が、哀れでならない。
それなのになぜ、私の天使は、奴を助けたいなどというのか。
それは、彼女がレイラ・アクヤークだから。
「いいよ。兄が手伝ってあげる」
そう言うとレイラは、ようやく、ほっと息をついた。
手まねくとソファの片側に腰かけてくる。
膝の上に置かれた手に左手を重ね、右手で彼女の頬にかかる一房を耳にかけてやる。
「けれど天使よ。いいのかな? あなたが選ぼうとしている道の最中には、必ずやあの王子が立っている。それでも、頑張れる?」
レイラは小さく肩を震わせながら、呟いた。
「わからないわ」
率直で素直な明言。
同い年の王子を、この子がいつからこんなにも恐れだしたのか、私たちは知らないでいるけれど。
一度、王妃から茶会への招待状を受け、その文面にアルマにもぜひ会ってほしいとあるのを見ただけで卒倒したレイラを、私たちが心配しないわけがない。
己の家名への誇り以上に、王家との距離をとるには十分な事件だった。
父も母も私も、この妹がなにより大切なのだ。
成長過程にある体も、まだまだ不安定になりやすい心も、見守っている。
たどたどしく口にする言葉の揺らぎ一つ、逃さないように耳を澄ます。
「前にお話したでしょう。私の不思議な夢のこと。成長したアルマ王子と出会ったお話。そこではね、現実にいる人にも会ったわ。陛下にも王妃にも側近たちにも。けれど王弟は、もう、会えない方になっていた」
アクヤークの血が私の天使に見させた夢の話。
十三歳の妹が、同じく十三歳のアルマに出会い過ごした五年間。本人は語らなかったけれど、妹はアルマに恋をしてしまったのだ。
そしてきっと、その恋を実らすために努力して努力して努力して、そして砕かれた。
悲しい夢の話。
「私が十歳から十三歳になるまでの間に、なにかあるのだわ。それが防げることなら、防ぎたい。お会いしてわかったわ。あの方は、必要な方だったのよ。死なせてはだめ」
「落ち着きなさい。兄に教えて。なにが、だめになるの?」
唇を噛み、私の天使は答えなかった。
しかし私には、その薄い目蓋の裏に浮かぶ赤毛に金目のあの王子を、察することができたのだ。悔しいことに。
「レイラ」
顔をあげる彼女は、大きく揺れながらも、眼差しは真っ直ぐに前に向いている。
「兄と父は、実を言えばもうすでにその不穏を察知していたのだ。まだ明確には掴めていなかったけれど、あなたの冴え渡る夢見により、少なくともなにが起こるのかが見えてきた」
レイラが大きく息を吸い、目を見開く。
叫びだしそうな唇に、そっと人差し指をおしあて封じる。
「付かず離れずと言いつつも、王家にふりそそぐ影を払うのは我らアクヤークのつとめ。ここ最近の天使がずいぶんと活躍してくれただろう。そのお陰で、私や父の仕事に余裕ができた分、より範囲を広げた諜報ができたのだよ」
さて、ここからが選択の分かれ道だ。
「よって、その件については遅かれ早かれ、私か父が裏工作により潰す予定となっていた。しかし、私たちの天使がその役を担いたいと言うのなら、私たちも補助にとどまろう。……どうする?」
「どう、というのは……」
「あなたがこの件に関わるかどうかを、あなたが決められるということ。それは王子と関わるかどうかを決めることにもなる。……頑張れるかわからないのなら、ここで立ち止まってもいいのだよ」
天使の瞳が潤んだ。
それでも、私は迫らなければならない。
レイラがどちらを選ぶかで、アクヤーク家の将来は左右される。
王妃の招待状といい、王弟の話しぶりといい、アルマはだいぶ私の天使に興味を抱いている。
こちらから近づけば向こうから接触してくるだろうことは、予測せずとも導き出せる。
それは、王家と付かず離れずを貫いてきたアクヤーク家に、大きな影響を及ぼすだろう。
レイラもそれに気づいている。
息をのみ、目を伏せ、震えて怖がり青ざめ泣きそうになって。
「私にお任せください」
それらをすべて抱き締めるようにして、私の天使は高らかに宣言した。
「私は受けた恩を返すためにこの二年を過ごしてきた。なのに御一人だけ、避けてきてしまった方がいる。その方へのご恩を返さずには、私は完結しないのよ」
ほとばしる眼差しに、私は深く胸を打たれた。
「あなたの勇気に必ずや栄誉を与えよう」
レイラは恥ずかしそうに笑い、そして首をかしげた。
「御父様も御母様も御兄様も、どうして私にはこんなにも甘いのかしら」
「それはね、あなたが私たちの天使だからだよ」
「もう、御兄様ったらそればっかり」
頬を膨らませて微笑む天使に微笑みを返しながら、私は胸奥に秘めた記憶の鍵穴を指でなぞる。
そこに眠るのは生涯の秘密。
アクヤーク家の血がもたらす一度だけの奇跡。
レイラが見たような、現実に酷似した夢を、私も、父も母も見たことがある。
その時の私たちは、ただ王子に恋しただけのレイラに、アクヤーク家と王家のしきたりから恋を諦めるように厳しく接した。けれどレイラは諦めきれずに一人で思い詰め、どうしてだか過激な道をひた走り、最後は同じく王子に恋した他の令嬢に濡れ衣を着せられ断頭台に送られた。
そんなもの受け入れられないとはねのけたとき、私たちは揃って過去に戻ってきていた。
そして、まだ王子に恋する前の、無垢なるレイラを目にしたとき、私たちは誓ったのだ。
今度こそ、この子を幸せにする。
その結果がレイラの夢だったとして、つくづくこの子とアルマは結ばれない運命なのだろうけれど。
それは彼女が諦めなければならない理由にはならないと、今の私たちなら言える。
アルマと結ばれなくともいい。
ただただレイラが心のままに生きるのなら、私たちはその道を舗装するためになんだってする。
ただそれだけのことなのだ。