クラン
その少女は突然、私の前に現れた。
波打つ亜麻色の髪。意思の強さを示す凛々しい眉。目尻にかけて上がり調子なアーモンド型の目の中心に座す大きなオリーブ色の瞳。
勝ち気そうな子。
という見た目に反して、口を開く彼女はすこぶる穏やかで、なにより律儀だった。
「突然の訪問をお許しください。私はレイラ・アクヤークと申します」
八歳の少女がなす美しき淑女の礼に、こちらが恐縮してしまう。私は男爵家の、しかも三男。家からはなかば放り出されており、自由気ままに本を漁り読むだけのしがない末端貴族。
公爵家の姫に頭を下げられる身分ではなかった。
それにも関わらず、初対面であるその日からすでに、彼女は親しげに私を呼んだ。
「クラン先生。お会いしたかった」
不思議な子。
私がレイラ様に抱いた印象を言葉にすれば、そうなる。
その印象は、家庭教師としての交流を始めてしばらく経った今でも、私の胸の真ん中に居座っている。
アクヤーク家の広い庭に建てられた東屋に、私たちは本とノートを広げた。
「クラン先生。この前の続きから教えていただけますか」
「教えるだなんて。あなたはすでに一人前の論客ですよ。私のほうがいつも新鮮な気持ちで学ばせてもらっています」
彼女の知識は広く深く、およそ八歳の娘が持ち得るものではないように思えた。
私の前に優秀な家庭教師がいたのではないかと勘繰るも、どうもそうではないようで、レイラ様の教師は淑女の行儀の講師以外には私だけだという。
不思議な彼女から、先生、先生と、純粋な好意を受け取ってばかりいると、私も妙な高揚を覚えてしまって具合が悪い。
どうか呼び捨てをして敬語も外してほしいと言うのに、レイラ様は頑なだった。
「先生はいずれ、その知識をもってこの国に大いなる恵みをもたらしますの。だから私は、あなたを敬うのですわ」
まっすぐな瞳で賛辞を前貸しのように与えられては、私もなにかしらを成さねばならぬ気になる。
聡明な生徒の期待に応えるべく、アクヤーク家から得る潤沢な給金をつぎ込み、より一層の研鑽を重ねた。
その過程でいくつかの論文も書き上げ、それが運良く国の研究機関の目に止まったのは、あまりに出来すぎた僥倖だった。
「無礼を承知で申し上げますが、これもアクヤーク家の暗躍なのですか」
レイラ様はきょとんと瞳を丸めて、この時ばかりは年相応にころころと笑う。
「クラン先生の実力ですわ。言っておきますけれど、あなた、すぐにそのような枠を飛び越えてご活躍なさるのだから、しっかりなさいませね」
冗談として一笑に付すこともできない迫力がレイラ様から放たれている。
そういうところが暗躍を疑いたくなる要因なのだが、私の立身出世を無邪気に喜ぶ姿を見ていると、なんだがどうでも良くなってきた。
レイラ様がこの背を押してくださる限り、私も、行けるところまで行こう。
そう思うと気になるのは彼女の行く末だ。
貴族の、それも公爵家の娘とはいえ、アクヤーク家にはすでに優秀な跡継ぎがいる。
有力貴族に輿入れするのも、このままアクヤーク家の庇護のもとで社会活動に精を出すのも、彼女の決断しだいなのだろう。
けれど私はその御心を聞いたことはない。
出すぎた真似になる以前に、彼女は将来の話を意図して避ける節があった。
「あなたほど素晴らしき知性の持ち主は、どのような大人になるのでしょうね。なんだか私も楽しみです」
無責任な期待の投影に、彼女は静かに微笑む。
「どうかしらね。きっと私など大したものにはなり得ませんわ。生まれ育ちに恵まれた分、いろんな方にたくさんお返しできればと思いますけれど、それだけですの」
それは単純な謙虚でもなく、彼女なりの動かしがたき事実に裏打ちされた確定事項のようだった。
私は寂しかった。
自分の知識は私と家から与えたものだと言う彼女のなかで、学ぶことにひたむきであった彼女だけが透明なのだ。
私の目にはこんなにも眩しくあるのに。
「レイラ様。私は正式に研究職を得ました。自分の知識だけで地位を築く機会を得た。ですがこれは、あなたが私にもたらしたもの。あなたがもしも、知の探求者の道を志すのなら、私が必ずや力になります」
そういうと、彼女は決まってこう返す。
「私がいなくともあなたはその道を切り開いたでしょう。ただ私がその歩みを急がせたに過ぎませんわ。恩義があるというのなら、どうか私の手が届かぬ方たちにお願いいたします」
彼女は、天の遣いなのかもしれないなと、最近の私は考えている。