地蔵・・・歯医者へ行く
僕自身甘い物が好きだから、大福や饅頭などの菓子をお供えしてくれるのは本当に嬉しいこと……。
なのだが、ここ最近はそれが多すぎて困っている。一人で食べきるというのが無理だと頭でわかっていても、いつも意地で食べ切れてしまう自分に驚いている。戴ける物は有り難く受け取れというのがルールだからそれに従っているけれど、今回ばかりはさすがに根を上げていた。
今も左の奥歯がズキズキと痛む。
地蔵だけど、なぜか虫歯になっちゃったよ……。
まあ、原因はわかっている。
お彼岸にぼた餅を作りすぎたと言って近所のおばちゃん達がお裾分けしてくれ、大皿に何十個と入っていたぼた餅を完食した。その一皿だけならまだよかったのだが、先に置かれていてもお構いなしにぼた餅を敷き詰めた皿を並べていき、終いには「これだとお地蔵さん太っちゃうかな」と微笑んでいた。
これまでも沢山の優しさを溢れんばかりに味あわせて貰い、それが季節ごとの楽しみでもあったのだが、今回は少しばかりその愛が多すぎて本当に太ってしまうかも知れない。別に誰が悪いとかはないのだが、少しでも僕の心配をしてくれているのなら、サラダの一つでも置いていってほしいというのが本音ではあった。
上層部に頼み、時間を作って治療しにいかないと今後に影響する、という思考が頭の中に浮かんだ。
基本的に僕たち地蔵は二四時間無休で修行に励んでいて、今回のように体の不調を訴えるなどこちら側から訴えない限りはほとんど休みなどない。まず病気にかからないし、疲労もないから休みが必要ないのだ。けれど、体というのは不可思議なもので、今回のようにごく稀に異変が起こることもたまにあるという。こういったケースは異例中の異例だが、上層部に伝えれば代わりの者を一時的によこすと過去に説明があった。
それにしても……奥歯が擦れる度に痛む。
街の保護、という天界から与えられた修行をこなすべく、安全を守る為に張り巡らせている結界が安定しないのはこの虫歯のせいだ。
僕はどんぐりを頬につめたリスのように少し膨らんだ左の顎に触れた。
保護、と一括りにいっても僕たちのような地蔵ができる仕事は街に潜む悪魂という異物の侵入を防ぐこととその成長を阻止することだ。悪魂というのは生前に真っ当な人生にそぐわない行いをした人間達が変わり果てた姿で、この悪魂が成長するとそれがまた厄介で、人間に取り憑いて悪さをするのだ。それを僕たちが食い止める必要があった。
普段なら悪魂の成長はもちろん、侵入された際には即座に気がつくことができ、排除が可能なのだが、今は痛みのせいでそれどころじゃなかった。今も僕が担当している区域に悪魂が入り込んで木々の影や、ビルとビルの隙間などに即席の根城を作り、人間達の発する負のエネルギーを取り込んで徐々に個体を大きくしている。
……失態だ。
窪みのできてしまった結界の一部を複数の悪魂が力業でこじ開けてきて、そこから河川のごとく流れ込んできている。
悪魂は最初はただの丸っこいテニスボールくらいの球体なのだが、成長するに従ってサイズを増し、次第に生前の姿へと変わっていく。記憶も段々と鮮明になっていき、恨みを抱えていた悪魂はそれを晴らしに行くというケースもある。悪玉の成長は様々で、何が正解と言うことはないのが怖いところだ。
僕はこの事態を黙っていたことがバレたときのリスクを考えて、すぐに脳内から上層部へと交信し、今置かれている状況を説明した。
『それで、すぐにでも代わりの者がほしいということだな?』
『はい』
『わかった。すぐ手配しよう』
『ありがとうございます』
『話は変わるが、不摂生な生活習慣には気をつけろよ。今回は大目に見てやるが、次はないと思え』
『いや、その……はい』
『戴ける物は有り難く懐に収めるというのがルールだが『全てを無理してでも食べろ』とは言っていない。欲張りなお前の事だ、全部平らげていたのだろう。少しは自制しろ。以上だ』
話を終えると上層部との交信は途絶えて一瞬脳内にノイズが走り、顔をしかめた。
上層部というのは僕が生まれ育った故郷の天界にある司令塔で、その辺の建物とは比べものにならないくらいの広さを誇っている。人間界の野球場と近い規模かそれ以上。昔話だが、広大な牧場をそのまま買い取ってそこにそれを建てたという噂がある。それが本当かどうかは知らないが……。基本的には地蔵本人の意思で行動させるというのが前提にあり、何か事を起こしてしまった時の対処や相談が主な仕事だ。簡単に説明すると暇そうな部署かと勘違いするが、地蔵の数は何千何万と世界中にいて、かなりのタスクをこなしているという話だ。
僕が一人で上層部の事を考えていると、白髪でパーマのかかった六〇代ほどの女性が歩いてくるのが見えた。両手には小さな子供が抱きかかえられる程の段ボール箱を持っている。濃紺のコートに紫のロングスカートを合わせていて上品な装い。
僕はこの方を知っている。
修行を始めてから何年も経つが、毎月かかさず月初めに来て、雨風にうたれた僕の体を綺麗な布巾で拭いてくれたり、色あせた赤いよだれかけを取り替えてくれたりしてくれているのだ。
その他にも、頻繁にお供え物をしてくれる人。ぼた餅を最初に持って来たのもこの方だ。
女性は僕の前で立ち止まると、他にもお供えしてあった近所のどら焼きなどの隣に、七つほど小ぶりのミカンが入った段ボール箱をしゃがんで丁寧に置いた。
「お地蔵さん。これ、親戚から頂いたみかんです。どうかお納め下さい」
女性は両手を合わせて必死に念願するように瞳を閉じていた。
「孫が……何て言ってたか忘れてしまいましたが、今高校二年生で来年東京の大きな大学の入試を受けると勉強に励んでいます。どうにか合格させてあげたいのです。どうか、お願いいたします」
女性は言い終わると立ち上がって一度深くお辞儀をして帰っていった。
いつも来てくれているから他の人よりもひいきしていると思われるかも知れないが、そのお孫さんには受かってほしい。けれど、お願いされても僕たち地蔵にそんな大層な願いを叶えられる能力などないのだ。そんな事ができるのは選ばれた一部の神様だけ。それに、目標を掲げている当人の努力次第で叶うかどうかなど変わってくる。実際、杖を振っただけで人の人生を変えられるようなそんな能力などなく、簡単に受からせてあげる何てことはできないのだ。神様にも無理だ。実力で勝ち取るしかない。地蔵ができる事と言えばその願いを聞き入れて、できうる限りその人のサポートをすること。運を味方にすることや、目に見えない力でモチベーションを保たせてあげる。その程度しか力には慣れない。本当に一握りの神様だったらそれが可能なのかも知れないけれど、その領域の話なんて僕にはまだわかりっこなかった。一つ言える事は、僕の所にお願いするよりも神社に行った方が可能性はかなり上がるという事くらいだ。まあ、そちらはそちらでかなりの人がお願いに来ているから渋滞していてまず見つけてもらえるかどうかの運が関係してくるから結論は運に尽きる。
僕は女性の姿が曲がり角で見えなくなるまで眺めていた。哀愁漂う後ろ姿というのは今までも見てきたが、きっとこれからも慣れることはない。願いというのは誰にでもある事で、それが必ず叶うと保証されているわけでもない。ただ、願いが叶い、一人でも多くの人が笑顔で良い報告をしに来てくれるといいと願う。
置かれたミカンに手を伸ばし、皮を剥く。
僕は地蔵の姿の時は幽体離脱のような形で半径五メートルくらいの幅なら自由に身動きがとれるのだ。その状態の時にいつもお供え物食べている。端から見たらミカンが浮いているなんて事にもならない。その五メートル以内で僕が触れた物も見えなくなるから問題ない。
フルーツなら食べられるだろう、という安直な考えで手に取ったが、数秒後には後悔へと変わった。反対側の歯で慎重にミカンを噛んだがミカンの薄皮から飛び出る果汁が口内で方々に飛び散り、その一部が虫歯へと当たり、体をのけぞらせる程の激痛へと変わる。
食べられそうにないな……。
半分以上残してミカンを元あった場所へと戻すと、そのミカンを証拠隠滅化のようにカラスが咥えて飛んでいく。
カラスが青々とした雲のない清らかな空へ消えていくのをしばらく眺めていると、急に隣から話しかけられて体がビクッと跳ねた。
「こんにちはっす。代わりに来た『おまち』と申します」
振り向くと人間の姿をした団子結びで前髪を眉毛の上で切りそろえた少女が気遣わしげな様子で立っていた。
ダウンジャケットにスラックスというさっぱりした服装で少し大人びた印象を受けたが、多分まだ一三か一四歳ほどの容姿で、修行を始めたばかり。そんな子にこの地域では広いと言われている区域を任せられるのかと思ったが、それが可能だから来たのだろうと勝手に納得する。
僕は地蔵の姿から人間の姿へと変わり、乗っていた台から飛び降りた。
着地と同時に砂利同士がぶつかり合う音が鳴る。
「助かるよ。ありがとう」
「はい。どれくらいでお戻りですか」
「二時間か三時間で戻れるはず。できるだけ早く戻るよ」
「承知しました」
「結構な数の悪魂が入り込んでしまっているんだけど、無理に対処する必要はないからね。それ以上の侵入を防いでもらえたら嬉しいです」
僕が言うと、頷いてからおまちは台に飛び乗って地蔵へと変化する。
墓地やお寺へと続くこの通路には比較的人が多い上に見渡しがいいが、先ほどの交代は少し無防備すぎたのではないかと反省する。木々が生い茂っているとはいっても隙間から容易に窺える。隣接する保育所には迎えの親たちや職員だって出入りしているのだ。そう言った点を踏まえても今の行動は危ない。新人はともかく、僕が気をつけなければ。
ブツブツと考えながら歩道を歩いていると、いつの間にか歯医者へと辿り着いていた。
「今からだと……一時間くらいですかね」
受付の男性に言われて壁に設置された電子時計に目をやる。
もう少し先に行けば別の歯医者もあるが、そこが空いているとも限らない。
「わかりました」
僕は頷いて、順番を待つことにした。
中は混雑していて五つあるソファーも全て満席。立っている人もちらほらいて、僕もそれに倣って隅に立つことにした。
置かれている雑誌を手に取り、興味もないけれど『最新のファッションとは食事である』みたいなよくわからない記事を真剣に考えてしまった。なんだ、ファッション界のトリュフって。書かれている意味が全然理解ができない。
頭を抱えていると「地蔵太郎さん」と呼ばれる。
時計を見ると、いつの間にか時計は一時間以上進んでおり、僕は持っていた雑誌を戻して呼ばれた方へと向かう。
複数ある診察台の一つに案内され、僕が座って待っていると、歯科衛生士さんは手際よく紙コップを自動給水装置に置いたり、紙エプロンを着けてくれたりしてくれる。
「今日はどうなさいましたか?」
右斜め後方に座って僕に尋ねる。
「奥歯が痛くて……」
「なるほどー。少し見てみますね」
歯科衛生士さんは複数あるボタンの左から二番目を押して背もたれを倒して見やすいように調節していた。
「あー、少し虫歯になってますねえ……」
「ひどいですか?」
口を開いたまま僕が聞く。
「いえ、早く受診してくれたおかげで多分今回の受診で何とかなると思いますよ。少し削って詰め物入れれば大丈夫です」
マスク越しでも心に染みる微笑みと優しい声音のおかげか、僕は安心して体を預けられた。
一通り歯のチェックが済んだ頃に白衣の男性が隣に立ち「こんにちは」と話しかけてくる。
黒髪の中に所どころ白髪が見受けられるこの男性のことを歯科衛生士さんは先生と呼んでいた。先生は座ると同時に僕の顎に軽く触れ、口を開けるよう促す。言われたとおりにすると、ビニール手袋をした手で前歯から順番に確認していく。少々扱いに疑問を覚えたが、これが歯医者なのだと割り切ることにした。
その後はビニール手袋を取り替えて、銀の棒のようなもので、右の奥から手前に行き、順番に左側まで確認していく。
「少し削りますか」
銀の棒を歯科衛生士さんに渡しながら僕にそう言った。
歯を削るために用いられるエアータービンという機器を高速回転させている。不快さで言えばトップクラスの甲高い音が僕の耳元で響き渡った。
「何をするんですか?」
上半身を起こし、先生の方に向き直るが、歯科衛生士さんに「すぐ終わりますから」と肩に手をかけられ、そのまま元の体勢へと戻される。
徐々に上がっていく心拍数は、誰にも理解してもらえないだろう。アリに気づかず人間に踏み潰されそうな時と同じような心情かも知れない。相手側に悪気はないのだ。まあ、アリになった事がないから真相は謎なのだが……。
ドリルが虫歯の歯を削り始めると、共鳴したかのように僕も一瞬揺れた。
痛み事態は悲鳴を上げる程ではないが、瞳から滴り落ちる涙が、僕の心情を物語っている。
最初こそ痛みに悶えながら足の指に力を入れて気を紛らわしていたが、次第に慣れてくるものだった。実際痛いのだが恐怖心からその痛みを増長させてしまっていた節もあり、思い込みは怖いのだと改めて実感した。
このまま早く終わってしまえばいいと願っていたが、そんな願いはどこも聞き入れてくれず、痛みが徐々に増していく。「痛いときには左手を挙げて下さい」と言われていたのを思い出し、僕は悩みながら左手を動かす。尻目に先生を見ると、真剣な面持ちで僕の虫歯と対峙していて汗も垂らしていた。この先生の一世一代の大仕事に僕は水を差してもいいのかとも思ったが僕も現状に耐えられそうになかった。
潔く上げてしまおうという時、先ほどとは比べものにならない激痛が体に走る。痛みや怪我などと無縁な体で育ってきたからこそ少しの異変に敏感だった。身体中に危険信号が送られ、人間状態の制御がままならず、両手両足をばたつかせ、大きな悲鳴を上げた末に地蔵の姿へと戻ってしまった。
突如、目の前に現れた地蔵に周りは困惑し、それは後に騒ぎへと変わる。
一つの怪奇現象に近い。幽霊を見たような感覚だ。
先ほどまで顔色一つ変えずに平然と仕事をしていた先生も、歯科衛生士も尻餅をついて顔の造形が歪むほどに驚いている。気がついた他のスタッフや患者も同じような反応をとっている。それでも、慌てないように気をつけている人も中にはいて、患者を不安な気持ちをさせまいと声をかけている者もいた。
使用していたドリルの先端は見事になくなり、重さに耐えられなくなった診察台は真っ二つに折れ曲がっている。治療中にもかかわらず逃げ出す患者にスタッフ、落ち着くように声を荒げる数少ない先生方。
大惨事と呼べるこの光景を僕はただ見ている事しかできなかった。
今、元に戻ってもこの騒動が収まるどころが飛躍してニュースにでもなりかねない。地蔵が人間になれるなんて都市伝説にもないのだから。今までよくこんな事態にならずに生活出来たのも奇跡だとこの現場にいると思う。
これは……まずいな。
まず、前提にこの姿が人間に見られるのが御法度なうえに、騒ぎを大きくしてしまった。どうやって終息させるか考えてはいるが、何も思い浮かばない。
先生がこんな状態というのはまずいと思ったのか、立ち上がって周りと冷静に相談をしている。
「おい。こういう時はどこへ電話するんだ?」
白衣に付いた埃をはらい、付近に転んでいた一人の女性に手を差し伸べると「ありがとうございます」と立ち上がった。
「ま、まずは警察でしょうか?」
先生は顎に手を当てて眉間にしわを寄せる。
「特に事件は起こっていないからな……なんと説明するべきだろうか。患者が急に地蔵になったと言って信じてもらえるかが謎だ」
「な、なら研究職ですよ。連絡すれば喜んで回収していくはずです。人体解剖したりして」
僕はそれを聞いて冷や汗が止まらなかった。
様々な声が方々で飛び交っている。
「いや、それはひどくないか? まずは救急車を呼んで……」
「呼んでどうするんですか? 相手は地蔵ですよ」
「おいおい、元は人間だったんだぞ」
「あっ、そうか。いや、でもそんな物語みたいな話……」
「実際に起こってるんだから仕方ないだろ」
「だったらお寺のお坊さんを呼ぶのがセオリーなんじゃ?」
しばし考えていた先生が目を開いて迅速に指示をした。
「まずは近所の寺に電話してこの地蔵がその寺の物かどうか確認してくれ。残りの人達は患者さんのメンタルケア。突然の事だからな、気が動転している人がいてもおかしくない。治療中だったらそれをできる限るすぐに済ませておかえりになってもらう。待合の人や今日の予約の人にはキャンセルして貰ってくれ、説明は俺がする。明日の診療をするかは後で考えよう……もしかしたらしばらく休診かもしれない事だけは心に置いておいてくれ。根も葉もない噂でニュースになる可能性もあるからな」
先生は言い終わると白衣を着直して、待合室へと向かっていった。
スタッフは冷静さを取り戻し、言われたとおりに行動する。
一人の男性職員が受話器を耳元に当てたときだった。
あれほど喧騒に満ちていたのにも関わらず、一瞬にして真夜中のように静まりかえる。人間達は手作りのマネキンのように動きが止まり、壁に掛けられたアナログ時計の針も動かない。
地蔵の幽体離脱を利用して周りの様子は見ていたが、僕は人間の姿に変わって当たりを確認した。先生の目の前に言っても微動だにしないし、待合室も、外のカラスも、何もかもが止まっている。けれど、尚且つ僕は動けているのだからこれは僕の知りうる人間が助けてくれたと思っていい。
『間に合いましたか?』
『おまちか』
『はい。なんか慌ただしい気を感じて探ってみたら何かまずそうな状況に見えたので時間を止めました。まずかったですか?』
この能力は新人が簡単にできる芸当ではないのだが……。凄まじい才能だな。
僕なんか一瞬で追い抜かされてしまうかもな。いや、もう既に超されているのかも知れない。
『いや、助かったよ。ありがとう』
『よかったです。あの、診察台に戻れますか? 時間を戻して彼らの記憶を消しておきます』
やけに手慣れてるな……。
若く見えただけで僕よりも年上なのか?
時間を止める能力といい、段取りといい、ぽっと出の新人にできるとは思えなかった。いや、それすらも考えすぎなのか? 嫉妬かも知れないな。こういう才能溢れる若者がきっと近いうち変革をもたらすのだろう。凡人が何年もかかって取得するものを簡単に手に入れる。そういう地蔵が出世する。それは過去も現在もかわらない。
『どうかしました?』
『すまん。少し考え事をしていた。本当に助かるよ』
おまちのおかげで大事にならずに済んだ。
多分、まだ上層部にも連絡はいっていないだろうし、ここだけの秘密にしてもらえれば罰も免れる。
僕が瞼を閉じ、次に光を見たとき、目の前には何事もなかったかのように歯を削る先生の姿があった。容赦なく虫歯を削っていく。突然の激痛だったから驚いてしまったが、来るとわかっていれば対処のしようもある。
さっきのような事態にならない為に、力を制御することばかり考えていたらいつの間にか治療は終わっていた。
帰り道、あれほど痛かった虫歯が嘘のようになくなり、嬉しさのあまり何度か必要もないのに歯ぎしりをした……。
痛みがないって素晴らしい。
おまちの所へ戻ると、僕のことに気がついたのか人間の姿に変わったのだが、今、目の前に手を合わせて拝んでいる人がいるというのに何をしているんだと慌てる。顔を上げたときに地蔵がいなかったらそれこそ問題だ。
けれど、一向に彼らは顔を上げない。
それどころか飛び降りたおまちにも目をくれたりもしなかった。
時間が止まっていることに気づいたのはおまちが僕の目の前に来た時だった。白目の部分が微かに輝きに満ちている。
「本当に助かったよ。それで、その……今回の事なんだけど……黙っててくれないかな?」
僕は深くお辞儀をした。
「大丈夫ですよ。言わないです」
「ありがとう」
顔を上げ、おまちの顔を見てガッツポーズをしていると、不適な笑みが映る。
「あはは。だって……」
言うと、突然おまちは煙で包み込まれた。
突如現れた白煙はしばらくの間纏続け、物の数秒で晴れたが、そこにいたのはおまちではなく、すらりと背が高く、濃い赤い口紅に妖艶さを引き立てられた大人の女性が立っていた。錦鯉が描かれた着物にかんざしで髪をくくっているその女性は、僕が先ほどまで脳内で交信していた上層部の方だ。大きく見開いたつり目は僕を見据え、上げられた口角は恐怖さえ感じた。
「ミカさん……」
すごい才能のある新人かと思っていたが、納得がいった。
「君は本当に昔からそそっかしいな……。でも、まあ今回のことは何とか丸く収められたからなかったことにしてやる。感謝しろよ。もしこれが天界で知れ渡れば修行が一〇年延長されるだけじゃ済まない」
「ありがとうございます」
伸びた長い黒髪を払うミカさんに僕は一礼した。
「けど、どうしてここに?」
顔を上げて僕は首をかしげた。
「手の空いている者が見つからず、数時間なら天界を離れても支障がなかったから私が来たんだ。新人が少ないのも困ったものだ。昔とは変わったな、一つの配属先で修行を終えるなんて事はなかったが、人員が足りないから慣れたところをずっと任せられる。それが当たり前になっているのだからな」
ミカさんはしみじみと雲のかかった空を見上げ、フッと小さな吐息を漏らすと僕に視線を向ける。
「君みたいな人材も貴重なんだ。立場上いつも君を責めるようなことしか言えていないが、君みたいに優しい者ばかりじゃない。君は本当に人間に親身になってくれる良い子……。だから、気にかけてしまうのかも知れないな。中にはお供え物を食べずに廃棄するような者もいるんだ。だから、その気持ちは忘れないで欲しい」
僕は静かにミカさんの話を聞いていた。
「君が人間から貰ったお供え物を大切にしているのは知っていた。それをできる限り食べろと言ったのは我々だ。だから、今回の件はこちら側にも多少なりとも非があると思っている。助けたというのでおあいこでもいいか?」
「もちろんです」
僕は二,三度顔を縦に振る。
「そうか、それならよかった」
優しい声音と朗らかな微笑みがそこにはあった。
話を終えると僕はいつもの台に飛び乗って地蔵に戻り、ミカさんが天界に戻ると同時に時は動き出した。
今拝んでいた人達も、墓地の方へと歩いて行く。
さっき女性が持って来てくれたミカンを一つ手に取る。褒められたからだろうか、ただ喜んで食べていたこの行動に意味を見出されたような気がした。
「甘くて……美味しい」
皮を剥いて一房口へ放る。
食を楽しめるというのは幸せな事なのかも知れない。
「大学入試、受かるといいな」
そう願いを込めて残りも全て平らげた。