身投げした王妃は、辺境の魔法使いに甘やかされる
結婚して五年、ルシアは限界を迎えた。
公爵令嬢だったルシアは、十六歳で結婚し王太子妃となった。王太子ディランは、傲慢で女好き、挙げ句の果てに頭の出来も相当悪く、ルシアは婚約者時代から彼の尻拭いに追われていた。
そして、ルシアが十七歳になった年、先王が崩御しディランが国王となった。そこから、ルシアにとって地獄の日々が始まった。
ディランは自分の気に入った娘を次々に側妃に迎えるとやりたい放題し、国王としての仕事を全てルシアに押し付けたのだ。
玉璽を借りにディランの部屋へ赴いた時、複数の側妃たちと行為に及んでいた時は、頭が割れるかと思った。
国王と王妃の仕事を一人でこなし続けたルシアの体はボロボロだった。常に睡眠不足で肌は荒れ、食事もまともに取れずみるみるうちに痩せていった。
ディランは豊満な体型が好みらしく、痩せこけたルシアを抱くことはなかった。大嫌いな彼のお手つきがなかったのは、不幸中の唯一の幸いだった。
もちろんディランに不満を上げる臣下たちもいた。しかし、彼を諫めた臣下たちは、ことごとく暗殺されるか無実の罪で処刑されるかして姿を消した。それ以降、ディランに歯向かう者はいなくなった。
そして彼と結婚して五年。ルシアの精神は崩壊した。
全てをめちゃくちゃにしてやりたい衝動に駆られ、ルシアは全ての仕事を放棄し、そして玉璽を盗み出した。
もともとルシア一人で何とか保っていた国だ。あらゆる仕事を担っていたルシアがいなくなり、玉璽まで無くなれば、この国の機能は完全に停止する。
それで困るのは、全てをルシアに押し付けて日々楽しく過ごしていたディランと側妃、そしてルシアを助けなかった臣下たちだ。
彼らに罰を与えられた気がして、ルシアはなんとも清々しい気持ちで城を出た。
そして今、ルシアはひとり、山道を馬で駆け抜けている。頬に当たる風がなんとも気持ち良かった。王城から出られるなんて、いつぶりだろうか。
山道をひたすら走り続けながら、ルシアは壊れたように乾いた笑い声を上げた。
「ハハ……アハハハハ! ざまぁみろ! これでこの国もお終いよ! アハハハハ!!」
泣きながら笑い叫ぶルシアの声が、なんとも虚しく辺りに響き渡っていた。
そして、ルシアは目的の場所に辿り着くと馬から降りた。そこは切り立った崖になっており、覗き込むとずいぶん下の方に谷底が見える。
「お父様、お母様。親不孝な娘をお許しください。国民を見捨てたわたくしは、地獄行きかしらね……」
ルシアは玉璽と共に身投げするつもりだった。もう、生きるのに疲れてしまった。不思議と死ぬことに恐怖は感じなかった。
そしてルシアは最後の一歩を踏み出し、玉璽と共に谷底へと落ちて行った。
***
目が覚めると、ルシアは木でできた可愛らしいベッドの上に横たわっていた。どうやらログハウスの中のようで、そこは地獄にしては随分と温かな空間だった。
「やあ、目が覚めた?」
声の方に視線を向けると、そこには極めて顔立ちの整った青年がいた。
「ちょうど谷底を歩いていたら、君が落ちて来てね。女神が舞い降りたのかと思ったよ。ちょっと待ってて。今なにか飲み物を――」
その瞬間に理解した。自分が死に損なったことを。
「どうして!? どうして助けたのですか!? わたくしはあのまま、死んでしまいたかったのに!!」
ルシアは目の前の青年を激しく責めた。彼のことが許せなかった。なぜ邪魔をしたのか。
青年は取り乱すルシアを見て一瞬驚いた後、ルシアの背を優しくさすりながらゆっくりと言葉をかけた。
「ごめんね。でも、落ちて来た時、君に涙の跡があって、放っておけなくて。君、この国の王妃様だよね?」
「……わたくしのこと、ご存知なの?」
「流石に王妃様の顔くらい知ってるよ」
そう言いながら、彼は優しく微笑んだ。なんとも美しい笑顔だと思った。
そしてルシアは、彼の穏やかな声と優しい手のお陰で、少しずつ落ち着きを取り戻した。
「僕で良ければ、話聞くよ?」
青年の言葉に促され、ルシアはこれまでのこと全てを彼に打ち明けた。今まで誰にも不満を言えなかった、いや、受け止めてくれる人がいなかったルシアにとっては、話を聞いてもらえるだけで随分と心が楽になった。
「そっか。それは、つらかったね、ごめんね。これまでよく頑張ったね」
ルシアの話を全て聞き終わった彼は、苦しげな表情を浮かべながら、なぜか謝罪の言葉を口にした。
この青年のことを何も知らないことに気づいたルシアは、彼のことを尋ねてみることにした。
「あなたは一体……?」
「ああ、自己紹介がまだだったね。僕はミシェル。辺境の魔女って言った方がわかりやすいかな?」
辺境の魔女の話は、ルシアも聞いたことがあった。人里から離れた谷底に住み、恐ろしい魔法の研究をしていると噂されている魔女だ。まさか本当に実在するとは思わなかった。
だが噂とは違って、目の前の青年は全く怖くなかった。とても優しい面差しをした、美しい青年だ。
「辺境の魔女って、男の人だったのですね……」
「そこ?」
的外れな感想を抱くルシアに、ミシェルは苦笑していた。そんな彼に、ルシアも思わず顔が綻んでしまう。だが、この優しい空間にいては、決意が鈍ってしまう。彼に別れを告げ、早々に立ち去らなければ。
「助けてくださって、ありがとうございました。でも、もう生きることに疲れてしまったんです。だから――」
しかしルシアは、最後まで言い切ることができなかった。ミシェルがその綺麗な長い指でルシアの唇にちょん、と触れたからだ。
ルシアは突然のことに大いに驚き、目を丸くしてミシェルを見上げた。
「目下の僕の目標は、君のその死にたい願望を無くすことだね」
そう言う彼は、とても優しい瞳でルシアのことを見つめている。
「何か好きなものはある?」
「え?」
「やりたい事とかは?」
質問の意図がよくわからないまま、ルシアはとりあえず聞かれたことに答えようとした。
「ゆっくりお茶が飲みたい……」
「うん。それから?」
「刺繍をして、美味しいご飯を食べて、ふかふかのベッドで昼頃までゆっくり眠って、お庭でお花を愛でて、誰かに恋をして、世界中を旅して、それから……」
そこまで話して、ルシアは自分が泣いていることに気がついた。そして気づいた途端、ポロポロと涙が溢れて止まらなくなる。
今まで仕事に追われ何一つとして自由に過ごせなかったルシアは、そんなこと望む余裕さえなかった。
「わかった。君のやりたいこと、全部叶えよう」
ミシェルはそう言うと、涙を流すルシアの頭を優しく撫でた。そして、力強い視線と声で、彼はこう言った。
「大丈夫。全部僕に任せて」
***
「こんなにゆっくりするの、いつ以来かしら……」
ルシアは今、ログハウスの庭にあるテーブルで、アフタヌーンティーを楽しんでいた。ミシェルはルシアが望んだことを、本当に叶えてくれているのだ。
「ありがとう、可愛い妖精さん」
ルシアは、紅茶のおかわりを持って来てくれた小さな妖精たちに礼を言った。どうやらこの子たちは、ミシェルの使い魔らしい。
ミシェルの元に来てから、ルシアはそれはそれはゆっくりと過ごした。毎日遅めに起床し、朝日をたっぷり浴びて、美味しいご飯を食べ、庭でお花を眺めながら刺繍を楽しむ。今まで忙殺されてきたルシアにとって、これ以上ない幸せな時間だった。そしてこの数日で、ルシアの肌艶は随分と良くなり、もともとの美貌を取り戻していた。
一方のミシェルは、なんだか毎日慌しそうに出かけていた。しかし家にいる時は、ルシアと過ごす時間を大切にするかのように、たくさん話し相手になってくれた。
そして数週間が経ったある日、ルシアはミシェルから唐突にとんでもないことを言われた。
「離婚を成立させに行こう」
「え?」
「この国で生きていくに当たって、あんなやつと結婚したままは嫌でしょ?」
「それは嫌だけど……」
しばらくミシェルの元で過ごすうちに、ルシアからは死にたいという気持ちはすっかり消えていた。しかし離婚どうこうの前に、玉璽を盗んだルシアはこの国では大罪人で、さらにはこの国は崩壊寸前である。もし今後も生き続けるなら、この国を出ないといけないだろう。
そんな不安をよそに、ミシェルは微笑みながら軽くウインクしてみせた。
「僕に任せて」
その後ルシアは、ミシェルによってあれよあれよと王城に連れてこられていた。
そして彼は今、玉座の間に続く扉に手をかけている。
「あの、ミシェル。これは流石に」
ルシアが不安げな表情を浮かべミシェルを制止すると、彼は低く優しい声で一言だけ返した。
「大丈夫。僕を信じて」
気づけば彼は玉座の間の扉を大きく開け、堂々と中に入っていった。
「やあ、兄さん。久しぶり」
「……兄さん!?」
ミシェルの後ろにいたルシアは、驚いて思わず声を上げた。すると彼は小さく振り返って、とんでもない事実を伝えてくる。
「実は僕、一応王家の人間なんだ。ディラン兄上とは異母兄弟。王城にいた頃は、ずっと魔法の研究で部屋に閉じこもってたし、政権争いが面倒で早々に王城を後にしたから、君が知らないのも無理はないね」
そんなやり取りをしていると、突然の侵入者に驚いていたディランが眉を顰めながら言葉をこぼした。
「お前……ミシェルか? 今さら何しに帰ってきた?」
「いや、ちょっと兄さんに用があってさ」
こちらを睨みつけるディランをよそに、ミシェルはニコニコと微笑みを浮かべている。
すると、ディランがミシェルの後ろに隠れていたルシアの存在に気づき、頭に青筋を浮かべながら怒りをあらわにした。
「ルシア、貴様……! とんでもないことをしてくれたな!!」
「それは兄さんの自業自得でしょ?」
すごい剣幕で怒鳴りつけるディランに、ミシェルはルシアを背で庇いながらそう返した。しかしディランはその言葉を無視し、玉座の間にいた臣下たちに罵声を浴びせた。
「何をしている、このウスノロども! さっさとこの二人を捕えろ!! 玉璽を盗んだルシアは大罪人だ! 即刻処刑する!!」
しかし、ディランの命令に動く者は一人もいなかった。その様子に、流石のディランも焦った様子を見せる。
「……どういうことだ。おい、ミシェルお前――」
「ルシアと離婚してくれないかい? 兄さん」
困惑するディランの言葉を遮り、ミシェルは静かにそう告げた。
「なんだお前、いよいよそいつが欲しくなったのか? そんな貧相な女くれてやる! いいから、さっさとこの状況を説明しろ!!」
「ありがとう、兄さん。良かったねルシア、これで君は自由の身だ」
ミシェルはそう言うと、どこからともなく取り出した紙切れを破り捨てた。それは、ディランとルシアの婚姻証明書だった。王城で厳重に保管されているこんな重要な物を、彼は一体どうやって入手したというのだろう。
「さて、状況説明だったね。残念ながら、今の王城に兄さんの味方は一人もいないよ」
「お前、まさか……」
「お察しの通り、クーデターってやつだよ。それにしても、随分と城の人間に嫌われてるね、兄さん。僕が王位を簒奪したいって話を持ちかけたら、みんな泣きながら歓迎してくれたよ」
ミシェルが笑顔でそう説明すると、状況を理解したディランの頭から血の気が引いていくのが見て取れた。
「なぜ今さら! お前は王位に興味などなかっただろう!!」
「うん。そうだったんだけど、気が変わってね。国が滅んで、魔法の研究が思うようにできなくなるのも困るし」
するとディランは青い顔のまま、最後のあがきを見せた。玉座から立ち上がると、剣を抜きミシェルに斬りかかろうとしたのだ。
しかし、ミシェルが指をクイッと下におろす動作をした途端、ディランは床に倒れ縫い付けられたように動かなくなった。
「さて、兄さん。どういう最期がお望みかな?」
ミシェルはディランを見下ろしながらそう言った。
一方のディランは激しくミシェルを睨みつけるも、もはや国王ではないこの男にはどうすることもできない。
「お前……こんなことをして許されると思うな!?」
「許されないのは兄さんの方でしょう? 全部聞いたよ。散々好き放題したことも、ルシアをひどい目に合わせてたことも」
そう言うミシェルは、ひどく冷たい目をディランに向けていた。そして彼は、ルシアを振り返りニコッと笑うと、よくわからない質問を投げかけてきた。
「ルシア、苦手な生き物、いる?」
ルシアは質問の意図がよくわからないまま、とりあえず聞かれたことに答えることにした。
「ええと、カエル、とか?」
「いいね! カエルにしよう!」
ルシアの答えにミシェルは満足そうに笑うと、なんと彼は『えいっ』と言ってディランをカエルに変えてしまったのだ。その場にいた全員が目を丸くしながら、そういえばこの人物が辺境の魔女であることを思い出していた。
「どうする? 踏み潰す?」
「……いいえ、やめておきます」
ミシェルにそう尋ねられ、ルシアはカエルの内臓が飛び散るさまを想像して、流石に断った。
「そう? じゃあ、兄さんは鳥か蛇の餌にでもなるといいよ」
ミシェルはそう言うと、カエルになったディランをつまみ上げ、城の窓からポイと投げ捨てたのだった。
「さて、邪魔者はいなくなったところで、ここからが本題だ」
ミシェルはパンパンと手を払いながら、ルシアの前に戻ってきた。
そして、真剣な表情をしながらその場で跪き、優しくルシアの手を取る。
「ルシア。もしよかったら、僕と結婚してくれない?」
「え……?」
いろいろと急展開すぎて頭が追いつかないルシアは、突然のミシェルの求婚にポカンと口を開けてしまった。すると、その様子を見たミシェルが慌てて弁明をする。
「ああっ、誤解しないで! 君をこき使うためとかじゃないから! まだ君がやりたいこと、全部叶えてあげられてないだろ? もちろん嫌なら断ってくれていいし、他国に行きたいならそれ相応の手配をする。とにかく、君の自由にさせてあげたいんだ」
あまりに必死に言葉を紡ぐミシェルを見て、ルシアは思わずクスリと笑ってしまった。
「ありがとう、ミシェル。でも、どうしてここまでしてくださるの?」
ルシアのその問いに、ミシェルは少し恥ずかしそうに答えを返した。
「実は僕、昔から君に惚れてたんだ」
「え!?」
ミシェルの告白に、ルシアは目を丸くした。そもそも彼に会ったことがあっただろうかと記憶を辿るが、すぐには思い出せそうにない。
するとミシェルは、ルシアの反応を見て苦笑しながら言葉を続けた。
「やっぱり覚えてないよね。まだ随分と幼い頃の話だけど、魔法の研究に使う薬草を取りに薬草園に向かう途中、怪我をしちゃってね。そこで、手当してくれた優しい女の子がいたんだ。それが君」
そこまでの情報を与えられて、ルシアはようやく思い出すことができた。王城の中庭で、ひとり泣いていた男の子。あれは、ルシアがまだ十歳の頃だっただろうか。
「ごめんなさい、全く気が付かなくて……!」
「仕方ないよ、一度しか会ってないんだし。それで優しい君のことを好きになったんだけど、兄上の婚約者って知ってね。もともと王城から出ていくつもりだったのもあって、諦めちゃったんだ」
そこまで話した後、ミシェルは苦しそうに顔を歪めながらルシアに謝罪した。
「でも、諦めなきゃよかった。僕は王城から出て俗世からも離れてたから、君が追い込まれてたのを知らなくてね。ごめんね、もっと早く助けてあげられていればよかったのに」
「いいの。だってわたくしは、あなたに出会ってから随分と助けられたもの」
ひどく後悔するミシェルに、ルシアは優しくそう声をかけた。そしてルシアは、彼の瞳を見つめ、力強く宣言する。
「ミシェル。わたくし、もう一度王妃になります」
ルシアの言葉を聞いたミシェルは一瞬大きく目を見開いた後、すぐに顔をほころばせた。
「僕の求婚を受け入れてくれてありがとう、ルシア。一生大切にする」
「こちらこそありがとう、ミシェル。もちろん王妃となった以上、全力で貴方をお支えする所存です」
ルシアが当たり前のようにそう告げると、ミシェルは焦ったように言葉を返してきた。
「えぇっ!? 頑張らなくていい、頑張らなくていい! 僕は君を甘やかしたいんだから!」
「そういうわけにもいきません。わたくしが城を離れていた間、きっと仕事が溜まりに溜まってますわ。早急に取り掛からなければ! それに、ミシェルの研究の時間も捻出する必要があります!!」
真剣な顔でそう言うルシアに、ミシェルは苦笑しつつも頭を抱えた。
「全く……君ってやつは!」
その後王位についたミシェルは、妻のルシアとともに国の復興に励んだ。そして国は、二人の尽力によって大いに発展したという。
ミシェルが仕事人間のルシアを甘やかすのに苦労することになるのは、また別のお話。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
いかがでしたでしょうか。
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。