第1話 おお勇者よ、死んでしまうとは情けない
その空間には黒く濁った瘴気が満ち溢れていた。
黒煙にも似たそれは、まるで時間が止まったかのように重々しくその場に留まり続けている。
「哀れなものだ……」
血に塗れた禍々しい大剣を携えた男は、ゴミでも見るかのような凍てついた目でそれを見下ろしていた。
かろうじてまだ原型を保ってはいるが、それは……かつて人だったもの。この世界を救うはずだった、勇者の亡骸だった。
「うそ……だろ? おい、頼むから……目を開けてくれ」
全身ボロボロになった勇者の仲間の一人が力なく亡骸を揺さぶるが……それが息を吹き返すことはない。
人類の希望を背負ってこの地にたどり着いた勇者の命の灯火は、とうに消えてしまったのだから。
雷鳴が激しく轟き、暗雲に包まれた漆黒の城を閃光が刹那に照らす。
黒髪の男は大剣を地面に突き刺すと、紅蓮に輝く双眸でゆっくりと辺りを見回した。この地に訪れた勇者一行の人数は六人ほど、しかしほとんどがこの男によって屠られ、残るはわずか一人となってしまった。
人類からは魔王と呼ばれ、恐れられていたその男は深呼吸をすると、呆れたように口を開く。
「初めから分かっていたはずだ、その程度の力で俺にかなうわけがないと」
「うる……さいっ! テメェをここで……殺さなければ……世界はッ!」
「馬鹿馬鹿しい……、俺達は自然に溶け込んで静かに暮らしていただけだというのに。なにゆえにそこまでお前たちが魔族を嫌うのか、俺には分からない」
次の瞬間、勇者の傍らに倒れ込んでいたその男は、最後の力を振り絞ってゆっくりと立ち上がると、魔王を睨みつけた。
そして雄叫びを上げながら自身の体躯と同じくらいの斧を大きく振りかぶり、駆け出す……。
しかし……彼の斧の刃が魔王を傷つけることはなかった。
魔王は目にも留まらぬ速さで彼に近づくと、呼吸をする間も与えず、彼の鳩尾に強烈な正拳を叩き込んだのだ。
「ぐふぉっ!?」
「口程にもない……人族とはこの程度のものなのか」
斧は虚しく宙を数回転した後、鈍い音を鳴らしながら地面に転がり落ちる。そしてそれの持ち主である男は激しく壁に叩きつけられてしまい、血反吐を吐きながら気を失ってしまった。
この瞬間、勝敗は決した。
混沌の魔王に挑んだ勇者とその一行は、成すすべなく全滅してしまったのだった。
「……俺には分からない、人族がどうして魔族をそこまで嫌うのか。手を取り合う手段だってあったはずだというのに」
漆黒城の大広間にただ一人、残された魔王は面倒くさそうにコートを着直すして、土ぼこりを払って見せる。
勇者一向にとっては世界の命運をかけた大勝負だったかもしれない、だが魔王にしてみればこ戦い、準備運動になるかならないか程度でしかなかったのだ。
「せめてもの手向けだ、墓ぐらいは作ってやるとしようか」
敵対勢力とはいえ、同じ生きとし生けるもの。
それぐらいの情はあったのか、死体の後始末のためにゆっくりと踵を返したのだった。
――この時の魔王は知らなかった。
彼ら勇者一行が倒されたことで、この世界の歯車が狂い始めてしまったということを。
※ ※ ※
「いつもありがとうねぇ……うちの旦那はすぐに無理して怪我しちゃうから、危なっかしくてありゃしないよ」
「いえいえ、また何かあったらいつでも言ってください!」
私は依頼の品である薬草と報酬の500エルを交換してもらいながら、にこやかな笑顔を浮かべて頭を下げた。
依頼主である陽気な奥さんを見送った直後にどっと疲れが体に流れ込んできて思わずため息をついてしまった。
「今日もあんまり稼げなかったなぁ……はぁ、この調子だといつまでかかるんだろぉ」
この頃はよほどのことがない限りは、物騒なことが起こらない。
だから来る日も来る日も薬草採取の依頼ばかりをこなしているんだけど……ちょっと流石に飽きてきたかなぁ。
でもこれも全部、飛空船を買うという夢のためだ、頑張らないと。
「……うん。がんばれ、私!」
私は両手で頰を軽く叩いて自分を励ますと、報酬である500エルを腰につけているポーチに入れて帰路へつく。
私ことリリア・グロリアスは駆け出しの冒険家だ。
幼い頃は羊や牛を放牧しているような本当に小さな村で育ったんだけど、そこでの生活があまりにも窮屈すぎて思わず外に飛び出してしまったのだ。
世界は本当に広い、きっと私がまだ見たことないような美しくて心奪われるような景色がいっぱいに広がっているはず……!
家業を継いで欲しそうにしていた両親には申し訳ないけど、まだ見ぬ世界をどこまでも冒険したくて、私は世界の果てへと向かう旅へと出発することに決めたのだ。
ただ……残念なことに、そう簡単に物事は進まなかった。
実はこの世界は空に浮いている、と言えばわかりやすいかしら? 私達人族が住んでいる島々は、どこまでも続く蒼い空にポッカリと浮いているの。
だから島と島を行き来するのは簡単なことじゃない、島から出る空飛ぶ定期船を乗り継いで渡らなければならない。更に言えば、冒険者ならば人がまだ踏み入ったことのない島へ行くために、自分専用の船を持つ必要性があるの。
……んで、それを買うためには家ひとつは軽く買えるくらい、膨大なお金が必要。だから、こうして便利屋のごとく街でちまちまと冒険稼業をして稼いでいるの。
冒険稼業と言えば、ドラゴンを討伐したり、魔物から人々を華麗に助けたりするのを想像するかもしれないけど……実際はかなり雑用が多いわね。特に多いのが、マナの力が封じ込められている魔石や薬を調合するために必要な薬草を採取する依頼。
特に最近は魔除けの結界などの技術が発達している影響で、魔物による被害はほとんど起きない。起きたとしてもゴブリンやオークが一匹二匹程度、間違えて街に侵入してくるくらいなものだ。
平和なのはとてもいいことだと思うけど……もう少し稼げる依頼が欲しいんだよなぁ。
いっそのこと、この街に留まるのをやめてもっと遠くの街まで依頼を探しに出かけたほうが結果的にいいのかしら……?
そんなことを考えながら小さな石で舗装された道をとぼとぼ歩いていた時だった。
街の方からだろうか、普段は聞き慣れない喧騒が響いてくる。
「この時期にお祭りごとなんてあったかな?」
依頼を探すため、街に張り出されているチラシやポスターは隈なくチェックしているはずだけど、なにか催し物があるなんて聞いていない。そんなことを考えていたら妙な胸騒ぎを覚えた。
何かあったのかもしれない、そう思ったら居ても立ってもいられなくなり、気づいたら街に向かって駆け出していたのだ。
しばらく帰路を急いでいると街の方からこちらへ走ってくる少々小太りな男の姿が見える。
間違いない、いつも私に魔石調達の依頼を頼んでくれる商人のエヴァンさんだ。
「はぁ、ひぃ……っ、リリアさん。ここに居ましたか……!」
「エヴァンさん。あの……なにかあったんですか?」
「ええ……実は先程ゴブリンの群れが魔除けの結界を破ってなだれこんできたんです。衛兵が応戦してくれているのですが、数が多くて人手が……っ!」
ゴブリンの群れが魔除けの結界を……?
本来だったらゴブリンは魔物の中でも下位、迷い込んでくるならまだしも結界を破れること自体、ほぼありえない。鋭い危険信号が私の脳内でけたたましい音を鳴らす。
「わざわざ伝えに来てくれてありがとうございます、エヴァンさん。今すぐに向かいますっ!」
「ありがとうございます、貴方が手伝ってくださるだけでも心強い限りです……!」
こうしては居られない、私は地面を勢いよく蹴ると街に向かって全力で走り始めた。
穏やかで平和な日々が終わるのはいつも突然、それが不吉な出来事の始まりではないことを祈りながら、私は街に向かうのだった。