【未来ifルート】アイギス本部の日常
アイギス本部、某所にて。
室内は重苦しい雰囲気に包まれていた。
「……で、これ。誰が出しに行く?」
「……」
4人のアイギス隊員は、任務の報告書を囲みながら、誰がこの書類を総帥に提出しに行くかで揉めていた。
「俺、前回行ったからパスで」
「あっ! ズルいぞお前!!」
「ここは公平にジャンケンで……」
「いやだあああ! 行きたくねええよおおおお!」
普段ならなんともない仕事。しかしながら、今回ばかりは事情が違っていた。
「今行ったら確実に八つ当たりされるじゃんか!!」
そう。総帥は今、最高潮に機嫌が悪い。
昨日から奥様に口を聞いてもらえないらしく、執務室に入った隊員は全員、等しく酷い目にあっている。
「今回はなんなんだ!」
「昨日の記者会見だよ。ほら、奥様のこと聞かれて時間いっぱい惚気たやつ」
「それ前にもやって怒られてたじゃねぇか!!」
「なにしてんだあの総帥!!」
「学べや!!」
とはいえ、嘆いても書類は提出しなければならない。
四人は顔を見合わせ、拳を握る。そして、自らの命運を懸けた命がけのジャンケンに挑むのだった。
絶賛不機嫌中の総帥──五金クロガネ総帥への、生贄を決めるために。
(うぅ……どうして俺がこんな目に……)
先ほどのジャンケンで見事に敗北したアイギス隊員の一人が、今にも泣きそうな顔で立っていた。
ノックしようと上げた拳は、恐怖で小刻みに震えている。
彼にとって、総帥は普段から「恐ろしくも頼れる上司」だった。
圧がすごいし、怒ると本気で怖い。けれど、実力は本物。世界最強と称されるその姿に、尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
──問題は、奥様だ。
いや、正確には「奥様が関わったときの総帥」である。
普段は鉄壁の精神力を誇る男が、奥様の話題になると一瞬でポンコツになる。
だが、誰も文句は言えなかった。
なにせ、結婚してからのアイギス本部は雰囲気が見違えるほど明るくなり、職場環境も劇的に改善されたのだ。
同僚も先輩も口を揃えて「奥様効果」と崇めている。
……ただし、総帥がその奥様を怒らせたときだけは別だ。本部全体が、戦場より恐ろしい修羅場と化す。
そして、今日もまた、その地獄が訪れようとしていた。
(ええい! 南無三!!)
覚悟を決めた隊員は、震える拳でドアをノックした。
「そ、総帥! 任務の報告書をお持ちしましたぁぁっ!!」
勢いに任せてドアを開けた瞬間、彼の視界に飛び込んできたのは──地獄絵図だった。
執務室の中には、重苦しい沈黙が漂っている。
床には書類が散乱し、壁には微妙な角度で突き刺さったカード。そして、部屋のあちこちに人の形をした「何か」が転がっていた。
恐る恐る視線を向けると、それはすべて同僚たちだった。表情を虚空に向け、魂を抜かれたように倒れている。
デスクの奥では、当のクロガネ総帥が椅子に深く沈み込み、額を押さえていた。
その姿は、かつて七大魔王の侵略を阻止した英雄とは思えないほどに、しょんぼりとしている。
「……なぁ」
「は、はいいいい!!」
掠れた声でそう呟く総帥の足元には、砕けたマグカップの破片と「愛の戦略プラン」と書かれたメモ用紙が、無残に散っていた。
(な、なんだ!? 俺は今から何を聞かれるんだ!?)
隊員の背中を冷や汗が伝う。
この問いを間違えれば、自分もこの屍累累の仲間入りだ。そう確信した隊員は、緊張でごくりと喉を鳴らした。
そんな彼の葛藤を知ってか知らずか、総帥はゆっくりと顔を上げた。
「……お前、結婚は?」
「してません!」
「彼女は?」
「いません!」
「できたことは?」
「ありません!!」
「チッ、使えねぇ」
「はい! すみません!!」
なぜ彼女がいないことを謝らなければならないのか。
彼女いない歴=年齢のこの隊員にとって、それは理不尽極まりない罵倒に等しかった。
(ちくしょう! イケメンで美人な奥様がいるからって調子に乗りやがって……愛想尽かされちまえばいいのに!!)
心の中でそう毒づくが、相手はあのクロガネ総帥である。そんなこと、口が裂けても言えるはずがない。
泣く泣く怒りを飲み込みながら、彼の中で、今夜のやけ酒が決定した。
「……まぁいい」
唐突に総帥がそう言って、腕を組んだ。隊員は思わずビクッと身を固くする。
「お前は……どうすればサチコの機嫌が直ると思う?」
「へっ!?」
「一般的な意見でいい」
まさかの恋愛相談をされ、隊員は戸惑いの声を上げた。
「え、ええと……それは……」
任務の作戦会議よりも、よっぽど答えにくい議題がここにあった。
「す、素直に謝るとか」
「口聞いてもらえてねぇ」
「奥様のお好きなものをプレゼントされるとか」
「無言で拒否られた」
「スキンシップで愛情を示すとか……」
「スキンシップ……」
その言葉に、総帥がピクリと反応を示した。
これだ! と思った隊員は、このまま畳み掛けるしかないと続けた。
「そ、そうですよ! ご結婚されてますし、抱きしめたりキスしてご機嫌を──」
「キスだとぉ?」
総帥の目が座る。
あ、これ地雷踏んだなと隊員が悟った時には全てが遅かった。
「そのスキンシップを昨日から拒否られてんだよこっちはよおおお!!」
「はい! すみません!!」
「ベッドも別々にされたし! いつもなら『おやすみ』も『おはよう』も『行ってきます』のチューも全部してくれんのに!! 全部拒否されたんだぞ!! なんでだよサチコおおおおおお!!」
総帥が絶叫する。こうなった総帥は、もう誰にも止められない。
「いつもなら俺の腕枕で寝てくれるのに! 朝起きた時も、眠そうに目をこすりながら『おはようございます』って言ってふわって笑ってくれんのに! そんでキスしたら、恥ずかしそうに擦り寄ってくるんだよ! あああああ! 可愛いいいいいいい!!」
(上司のこういう話聞くの、きっついなぁ……)
「こっちもさぁ、真面目に謝ろうと思ってんだよ! でも拒否するサチコが可愛すぎるのが問題なんだ! なんだよあれ! ツンてそっぽむくのも、ムッとした顔も、全部可愛いんだよ! あれで怒ってる? 嘘だろ!? 誘ってるようにしか見えねぇよデレデレしちまうだろすきいいいいいいいいい!!」
(これ、定時に帰れるかなぁ……)
今度は隊員の目から、ゆっくりと光が消えていった。
聞きたくもない上司の惚気を延々と聞かされるのは、残業よりもつらい。これなら精霊界への長期任務に行った方がまだマシに思えた。
「これじゃあ『ただいま』のチューもしてもらえねぇよ……毎日の生きがいなのに……サチコぉ……」
(こいつ、一日に何回キスしてんだよ)
そう思ったが、隊員は何も言わなかった。
とりあえず、話の矛先が自分から逸れたことに安堵する。このまま書類をそっと置いて帰れば、床に転がってる人たちの仲間入りはしなくてすみそうだと息をついた。
「は、はは……大変ですね。じゃあ、自分はこれで──」
「待て」
だが、現実はそんなに甘くなかった。
「まだ話は終わってねぇだろ」
総帥は、絶対に逃がさんという目で隊員を睨みつけている。
「どうしたらサチコとキスできると思う?」
しかも、質問の内容が変わっていた。
(うるせぇ知らねぇよ自分で考えろ!!)
そう心の中で叫びながらも、総帥の圧がそれを言わせてくれない。
隊員は目を泳がせ、今度こそ床とお友達になる未来を覚悟しかけた、その時──
「……何してるんですか」
天の助けが来た。
「サチコぉ!」
「奥様ぁ!!」
サチコは深いため息をつき、隊員に軽く頭を下げた。
「夫がすみません」
その一言に、隊員は涙が出そうになるほど救われた気がした。
サチコは執務室を見渡したのち、クロガネを睨む。
「……業務に私情を持ち込まないでくださいって、何度注意すればいいんですか」
「さ、サチコ……でも……」
「言い訳は聞きたくありません。ブラックさん」
「はいよ」
サチコの言葉に呼ばれて、クロガネのデッキからブラックドッグが現れる。
「ここにいるアイギスの人たちを、医務室まで連れて行ってあげてください」
「了解。……そこの隊員くんも手伝ってくれないか?」
「は、はいっ!」
クロガネの相棒であるブラックドッグに指示された隊員は、即座に自分の精霊を実体化させ、転がっている仲間たちを回収していく。
そして、全員を運び出した一人と二匹は、クロガネがサチコに叱られているのを尻目に、静かに医務室への道を歩いていった。
全員が部屋を出て行き、静寂が戻る。執務室には、クロガネとサチコだけが残っていた。
「……まったく、どうして貴方はいつもそうなんですか」
「……悪ぃ……反省してる」
「何に対して反省してるんです?」
「……愛が重すぎるってのと……部下に八つ当たりしたこと」
「自覚はあるんですね」
サチコは呆れたようにため息をつき、腕を組んだ。
「……会見のときだって、私の話ばかりして。学生の時とは違うんですから、もっと五金財閥の当主としての自覚を持ってください」
「だって、『奥様とはどうですか?』って聞かれたから……」
「『夫婦仲は良好です』だけで済ませればいいでしょう」
「……自慢、したくて……」
「一時間半も、ですか」
「……ハイ。反省シテマス」
サチコは肩をすくめて、机の上に散乱した書類を整え始めた。その動きを見つめながら、クロガネがぽつりと呟く。
「……でも、口きいてくれて嬉しい」
「別に、ずっと怒ってたわけじゃありません」
「……じゃあ、その……仲直りのチューは──」
「しません」
「ですよね!」
元気よく背筋を伸ばすクロガネを見て、サチコは思わず吹き出した。
「ほんとに、貴方って人は……」
その声には、もう怒気はなく、少しだけ柔らかさが滲んでいた。
「部下に八つ当たりせず、ちゃんとお仕事を頑張れたら……ご褒美、考えてあげなくもないですよ」
「ほ、本当か!」
「えぇ。ですので、真面目に働いてくださいね」
「あぁっ! 頑張るっ!」
背筋を伸ばして答えるクロガネを見て、サチコは静かに息をついた。
「ほんと、昔から変わりませんね。……まぁ、そういうところ、嫌いじゃないです」
「サチコ……!」
「調子に乗らない」
「はい!」
サチコは目を伏せ、乱れた前髪を指先で整えた。その仕草を見ながら、クロガネはようやく安堵の笑みを浮かべる。
二人の間に流れる空気が、ようやくいつもの穏やかさを取り戻していた。




