ph192 空に落ちて、君に落ちる
廊下を歩いていた私の足が、途中で止まる。施設の要所に設置されたセキュリティゲートで、任務のために特別に貸し出されたカードが認証されなかったのだ。
「……すみません。この階層、仮渡しのカードでは制御できない仕様になっているみたいですね」
私の付き添いをしてくれていたアイギスの隊員が、困ったように操作パネルを見つめる。
来たときは、何の問題もなく通れたはずなのに。と疑問を抱いたが、すぐに別の人が一緒だったことを思い出す。
あのときは、現地スタッフの人が同行していた。階層を移動するたびにその人が先に立ち、職員カードで操作してくれていたため、私達は何不自由なく通れていたのだ。
これは、どうしたものかと考え始めたとき、背後から静かな声がかけられた。
「もしよろしければ、私がご案内を」
振り返ると、そこに立っていたのは、ローズクロス家で絡まれた、あの分家の男だった。
──まさか、私を追ってきたのか?
会議室での、あの執拗な視線を思い出し、反射的に息が詰まる。
「ちょうど現場対応の任は他の者に引き継いだところでして。せっかくの機会ですし、お嬢様を正面までお送りできればと思いまして」
声音は穏やかで、態度も丁寧だった。だがその目の奥には、得体の知れない含みが潜んでいる。
「……お気持ちはありがたいのですが、こちらで対応できますので」
男のただならぬ雰囲気に気づいたのか、アイギスの隊員が控えめに口を開く。しかし、相手はローズクロス家の人間。たとえ分家とはいえ、財閥の一員に強く出るのは難しい。下手をすれば、財閥間の摩擦に繋がりかねない。
「ご心配には及びません。行動記録はすべて残していただいて構いませんし、途中で逸れるような真似もしません。ただ、お送りするだけです」
そこで男は、ほんのわずかに表情を変えた。視線を隊員に向け、丁寧な口調のまま言葉を重ねる。
「……それに、あなたがここを離れるのは、正直おすすめできません。現場の混乱は、まだ完全には収まっていないようですから。万一の際に対応が遅れれば、責任を問われるのはあなた方です。どうか、ご自身の任務を優先なさってください」
言葉の端々には、命令でも脅しでもない。それでも、“お前は消えろ”という意思がはっきりとにじんでいた。
案の定、アイギスの隊員は言葉を詰まらせ、返答に迷っている。
私は一拍、呼吸を整える。そして、静かに一歩、前へ出た。
「大丈夫です。ご案内だけなら、問題ありません」
この施設には、精霊の卵を回収するために多くのアイギス隊員が動いている。この男が私の力を狙っているのは明らかだが、彼もまた、五金家の目がある中で無茶はできないはず。少なくとも今は、お互いに手出しはできない。
「任務もまだ続いてますし、これ以上お手を煩わせるのも心苦しいです」
男は口元に微かな笑みを浮かべた。
「ご理解が早くて助かります。やはり“特別な方”は違いますね」
その言葉に、ぞわっと背筋が粟立つ。丁寧な言い回しなのに、やはりこの男が口にすると、どうしても気味が悪かった。
「……ですが、本当にお一人で大丈夫でしょうか? 万一のことがあれば……」
私は、なおも渋っている隊員に小さく頭を下げて告げた。
「本当に、大丈夫です。ありがとうございました」
それでようやく、隊員も短くうなずいた。
「……わかりました。何かあれば、すぐにご連絡を」
「はい。ありがとうございます」
それ以上、何も言わず。私は男のあとを静かに追った。
私は男のあとを数歩遅れて追いながら、できる限り距離を保つように歩いた。数度廊下を曲がると、行き着いたのはエレベーターの前だった。
男が職員カードをかざすと、静かに扉が開く。
……この男と、密室で二人きりになるなんて。
胸の奥に重たいものが沈んでいくような感覚が広がったが、引き返すわけにもいかなかった。私は無言のまま乗り込み、男の少し斜め後ろに立つ。
やがて扉が閉まり、エレベーターはゆっくりと下降を始める。機械の低いうなりとともに、密閉された空間に、息の詰まるような沈黙が満ちていく。
その静けさを破ったのは、やはり男だった。
「……また、こうしてお話しできるとは。僥倖です」
分家の男は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。口調も丁寧で、礼儀も完璧。けれど、その柔らかさがかえって不気味だった。
「ローズクロス家では、今、空白が生じていましてね。当主が亡くなり、後継の座が宙に浮いたままです」
「……そうですか。興味ありません」
私が冷たく返すと、男は微笑を崩さず、やんわりと続ける。
「えぇ、もちろん。貴女を巻き込むつもりはありません。ただ……立場というものは、不思議と“血”に引き寄せられるものですから」
その視線が、ふと私に向けられる。穏やかな表情の奥に潜むものが、肌にまとわりつくような熱を帯びていた。
「先祖返り……その器は、まぎれもなく“才”の証です。我々としても、見過ごすわけにはいかない存在なのですよ」
口調は終始穏やか。それでも、言葉の端々に滲む執着の熱は隠せない。
「……私もかつては、その座に最も近い位置におりました。運と縁に恵まれなかっただけで」
抑えた声に滲むのは悔しさか、諦めか。だが、それ以上に──私を見つめるその視線が、あからさまだった。
「血を継ぐ者として、貴女のような“器”に出会えたことは、幸運の極み。若くとも、結びつきさえすれば……必ず、大きな“実り”をもたらすでしょう」
その一言で、背筋がすうっと冷えた。
はっきりとは言わない。けれど、コイツが私に何を求めているか、分かってしまった。
「……敬意を込めて申し上げています。どうか、誤解なきように」
言葉を締めくくるようなその声音に、私は何も返さなかった。返したくなかった。ただ、一刻も早く、この場を離れたい。それだけだった。
焦燥を押し殺しながら、私は男を無言で睨む。声に出す代わりに、その視線にすべてを込めた。
そのとき、空気の中に紛れるように、かすかなマナの揺らぎが走る。ぴたりと肌に張りつく、嫌な気配。私は反射的に男の手元に視線を向けた。
そこにあったのは、淡く光を帯びた魔法カード。効果欄に並ぶ文字を読み取った瞬間、胸が跳ねる。
拘束系のカード!? ……まさか、ここで使うつもり!?
施設内にはまだ、アイギスの隊員たちがいる。それすら無視して、強行する気なのか。
判断をためらっている時間はなかった。
「影法師、レベルアップ! レベル4、破戒僧影法師!」
「御意!」
呼応するように影法師が現れ、肩の数珠を高らかに鳴らす。直後、影の力に包まれた拳が天井を叩きつけた。鉄板がねじれ、鋼の音が低く響く。
それと同時に、警報音が施設中に鳴り響いた。赤い警告ランプが点滅し、空間を不穏な色に染める。
私はすぐさま跳び上がり、天井に開いた隙間へ体を滑り込ませる。腕を伸ばすと、影法師が下から押し上げるようにして支えてくれた。
その瞬間、足元に青白い魔力の帯が伸びてくるのが見えた。鎖のようにうねりながら、私のいた床面を這っていく。
──危なかった。一歩遅れていれば、間違いなく捕まっていた。
「つれないですね」
下から聞こえたのは、あくまで穏やかな男の声。その手には、もう一枚のカードが握られていた。
翳されたその瞬間、影法師の体が淡く揺らぎ、体がふっとしぼんでいく。
「なっ……!」
レベルダウン系のカードか!!
影法師はレベル2の姿に戻り、ふらりと膝をついた。肩が上下し、口元からは黒い煙が漏れ出している。
「影法師……!」
私は思わず振り返って叫んだ。すでに体は半分、脱出口に出かかっていた。両腕に力を込め、影法師の手を支えに、体を無理やり押し上げる。
限界寸前の影法師は、それでも私を最後まで押し出してくれた。
「……ありがとう」
息を切らせながら、影法師をカードに戻しつつ、天井裏の通路に転がり込む。後ろから追ってくる気配はない。けれど、安心はできなかった。
くっそ……! 完全に見誤った。この男は、普通の理屈が通じる相手じゃなかったんだ!
でも、後悔している暇はない。今はとにかく、逃げるのが先決だ。
私は天井裏の通路を這いながら、微かなマナの流れに意識を研ぎ澄まし、近くにいるアイギスの隊員を探した。そして、すぐ近くに強いマナを感知する。間違いない、このマナはアイギスの人だ。
すぐに助けを求めにいきたかったが、行けなかった。目の前には遮断された壁が立ちはだかっている。そこへ向かうには、一度下の階へ降りるしかない。
でも問題は、この下にあの男の気配があるということだ。
冷たい汗が背中を伝う。戦えばどうなるかなんて、考えるまでもない。私の戦闘能力は低い。マッチならともかく、実戦ではまったく歯が立たない。頼みの綱だった影法師も、今は動けない。
このままでは、じわじわ追い詰められるだけだ。あの男に捕まったら、自分がどうなるかなんて……想像するのも気持ち悪い。
警報は鳴っている。でもこのタイミングなら、精霊による反応だと誤解されてもおかしくない。じっとしているのは、むしろ悪手だ。見つかる方が早いだろう。
隊員に助けを求めたくても、施設内の連絡先は知らない。本部に直接連絡? ……でも、ここは上空三千メートルの監視所。すぐに誰かが駆けつけてくれる保証なんてどこにもない。そもそも、貸し出されたカードでは、ゲートの一部は通れない。仮に動けたとしても、助けを呼んで、間に合う確率なんて……。
先輩にもらった指輪も、同じだ。繋がったとして、すぐにどうにかなるわけじゃない。
じわじわと迫る気配に、心臓がきゅっと締めつけられる。
どうする。どうすればいい。冷静に、この状況を乗り切るための最善手を考えろ。じゃないと私はあの男に──っ!?
焦りに思考が飲まれそうになった、そのとき。不意に思い出す。渡守くんが、すれ違いざまに言っていた、あの言葉。
──鳴らせば、わかる。
頼ってしまっても、いいのだろうか……。
面倒事が嫌いな彼を巻き込むのは、どうしても気が引けた。しかも今は卵の回収任務中。気づいてくれる保証なんて、どこにもない。
……それでも、今の私には、それしか思いつかなかった。
迷っている暇はない。私は震える手でMDを起動し、通話アイコンに指を伸ばす。
たった一度、呼び出し音が鳴ればいい。ワンコール。それで出なければ、諦める。
渡守くん、ごめん……でも今は君しか──
『……どォした、バカ女』
出てくれた!!
「わ、渡守くん……急にごめん。今、追いかけられてて、でも下に降りられなくて、隊員さんのところにも行けなくて──!」
ああ、違う。違うでしょ私。もっと冷静に、正確に伝えなきゃ。
「渡守くん、あのっ──!」
『いや、いい。状況は分かった』
渡守くんは、落ち着いた声のトーンで続ける。
『テメェの近くに、窓はあるか?』
「あるには、あるけど……」
チラリと下の通路を見る。そこには、大きな窓がこの施設を一周するかのように設置されていた。
『飛び降りろ』
「え」
と、飛び降りる!? ここから!? 正気!?
渡守くんにはヴェルグさんがいる。だから、もしかしたら空中で受け止めてくれるかもしれない。
ただ、マナの気配を探ると、渡守くんはかなり遠くにいる。それに彼はマナ探知が苦手だ。私を見つける前に、あの男が飛行系の精霊で先回りしてきたら終わる。
「渡守くん、私、君とかなり離れてて……」
『サチコ』
静かに呼ばれる名前。
『俺を、信じろ』
目の奥が熱くなる。かつて私が、彼に向けて言った言葉。まさか、それを返されるなんて、思わなかった。
あのとき私は、命がけでマナを浄化する中、彼に信じてほしいと願った。そして彼は、それに応えてくれた。
なら、今度は私が信じる番だ。
「……わかりました」
心を決め、身体を前に滑らせて通路の端まで移動する。目の前には、通路の継ぎ目から下の階に降りられる点検用のスペースがあった。
静かに、でも迷いなく、足を踏み外す。
降り立ったのは、施設内をぐるりと囲むように設けられた通路の角。ちょうど、広いガラス窓のすぐ脇だった。
──そこに、いた。
「これはまた……大胆な登場ですね」
振り返る間もなく、すぐ背後から声がした。
「流石は五金家次期当主の求婚を拒んだ方だ。驚かされてばかりです、実に……愛らしい」
そこに立っていたのは、やはりあの男だった。どこか愉しげに、それでいて諦めきれない執念を湛えた笑みで、私を見下ろしている。
「けれど──貴女のように完成された器を、無駄に損耗させるわけにはいきません。いずれ“未来”を宿していただくためにも、今は万全な状態を保っていただかなくては……粗雑に扱って、中身まで壊れてしまっては困りますので……」
足元に、わずかなマナの気配が走る。すぐにでも魔法を放とうとしているのがわかる。
相変わらず、奴の発言には嫌悪がこみ上げるし、思考を凍らせるほど、気持ち悪い。
……けれど、もう迷いはなかった。
右手に持ったMDの通話画面は、まだ接続が続いている。渡守くんは、きっと聞いている。──なら、伝えなきゃ。
「渡守くん」
窓に目を向け、私は静かに言った。
「命、預けます」
ためらいなく、窓に向かって駆け出す。
男の声が何かを叫ぶ。けれど、それはもう、私には届かない。
私は魔法カードの力で窓を破壊し、外の空へと身を投げ出した。
風の奔流が視界を奪う。眼下には、雲と空と地上の境界線。高所からの落下。風の轟音が耳を打つ。
そのすぐ後ろで、男の怒声が聞こえた。何かを叫び、魔法カードを翳しているのが視界の端に映る。マナの波動が、肌にまとわりつくように迫ってきた、そのとき。
「バカ女あァァァァァ!!」
聞き慣れた怒鳴り声が風を裂いた。巨大な影が上空から滑空してくる。ヴェルグさんだ。そして、その背に立っているのは、渡守くん。
「ヴェルグ、やれ!」
「ヒャハっ! 楽しくなってきたなぁ!!」
彼の指示と同時に、ヴェルグさんが男の魔法カードに向かって猛然と突っ込んでいく。その瞬間、渡守くんはヴェルグさんの背を蹴り、空中に身を投げ出した。
──まっすぐ、私のもとへと。
「……っ!」
その勢いのまま、彼が私の体を強く抱え込む。迷いも、ためらいもない動きだった。
「……マジで飛ぶとはな。バカにもほどがあるだろ」
呆れたような声。その奥に、安堵の気配がにじんでいた。
私はぷっと笑いそうになりながら、軽く言い返す。
「信じろって言ったの、渡守くんじゃないですか」
「……あァ、そォだな……言ったのは、俺だ」
そのまま空を切って落ちていく。ヴェルグさんがすかさず追いつき、私たちを受け止めるように滑空を始めた。
渡守くんの腕の中で、私は小さく息を吐く。助かった。信じた。そして、それはちゃんと届いた。
言葉にしなくても通じるって、きっとこういうことなんだろう。今はただ、それが妙に誇らしく思えた。
落下の衝撃がようやく和らいだころ、ヴェルグさんの大きな翼が静かに地面を撫で、着地の振動が体に伝わってきた。
風のざわめきが遠のいていき、私と渡守くんを乗せたその背は、浮遊監視所の真下、施設外縁部の小さな着陸区画に降り立っていた。
地上の空気は、思っていたよりも暖かかった。けれど、私の指先はまだわずかに震えていた。
「……ありがとうございます、ヴェルグさん」
「退屈な任務で暇してたからちょうどよかったわ、なぁ? セン」
ヴェルグさんが冗談めかすのをよそに、渡守くんは何も言わず、私の腕をそっと支えてくれた。
そこへ、数人のアイギス隊員が駆け寄ってくる。隊員の一人がMDを確認しながら言った。
「渡守くん、連絡ありがとう。……例の男は拘束済みだ。施設内での不審な接近行動が検知されていて、警備班が動いた」
「そォかよ。……本部には、後で戻る」
その言葉に、隊員の一人が一瞬だけ目を見開き、私にちらりと視線を向けた。けれどすぐに頷き、穏やかに言葉を継いだ。
「勿論だ。ここは安全だ。しばらく休んでくれ……危険な目に合わせて、申し訳ない」
私は、うなずくことも返事をすることもできなかった。
飛び降りた時は、必死で何も考えられなかった。けれど今──ふいに、あの男の目が脳裏によみがえる。
背筋をなぞるような感触。冷たい何かが、内側をゆっくりと這っていく。
……あれは、ただ怖かっただけじゃない。言葉では形にしきれない、別のものが、私の中でずっと居座っている気がした。
気づけば、私は無意識に渡守くんの服の袖を握り締めていた。自分でも、なぜそうしてしまったのかは、うまく言葉にできなかった。
慌てて手を離そうとしたそのとき、渡守くんがそっと、その手を握り返してくれた。
……そうか。本部に後で戻るって言ったの、私のためなんだ。
心が落ち着くまで、ここにいて良いということ。彼なりのやり方で、気遣ってくれていたんだ。
感謝の言葉を口にするのは、なんだか気恥ずかしかった。だから私は、黙ったまま彼の手をぎゅっと握る。
その手は、振り払われることはなかった。
「サチコさん……!」
突然、清らかな声が響いた。振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。黄の上衣に淡い赤のリボン──記憶の中と同じ、けれどどこか背筋が伸びた印象を受けた。そのすぐ後ろには、控えめに佇む女性執事の姿。
「ご無事で、本当によかったですわ。ローズクロス家の一員として、心よりお詫び申し上げます」
「アスカちゃん……」
「お久しぶりでございます、サチコ様。再会がこのような形となってしまい、残念です」
「セバスティアナさん……」
二人とも、あの時と変わらない。けれど今のアスカちゃんには、どこか決意のような気配が宿っていた。
「今後はこのようなことが二度と起きぬよう、家内での管理体制を見直しております」
「ありがとう。でも、アスカちゃんの責任じゃ──」
「いいえ……たとえ直接の責任でなくとも、見過ごせませんわ」
言葉を遮るように、一歩前へ出たアスカちゃんは、美しく深いお辞儀を見せた。
「わたくしは、七大魔王との戦いにおける功績が認められ、ローズクロス家の次期当主の筆頭候補として指名されました」
「えっ……アスカちゃんが……?」
あまりに唐突な事実に、思わず息を呑む。
「そして、だからこそ──このような事態が起きた以上、家を代表する者として、責任を果たさなければなりません」
その表情は、年齢に似合わないほど凛としていた。
「……あの男は、かつて次期当主と目されていた者でした。地位を失い、焦りと欲に飲まれ、今回のような蛮行に至ったのです」
アスカちゃんはまっすぐに私を見つめる。
「ローズクロス家は、技術や知識で人々を支えてきた家です。けれど、いつの間にか、その力を私利私欲に使おうとする者も、増えてしまった。わたくしは、この家を、本来あるべき姿に戻したいのです」
その声には、揺るぎない意志があった。
「先祖返りの力など、我が財閥には必要ありません。わたくしが、この家を、もっと……強く、正しく、美しく生まれ変わらせてみせますわ」
「……アスカちゃん……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張りついていた緊張が、ふっと緩んだ。
先祖返りの力など必要ない──そう断言されたのは、初めてだった。
たったそれだけの言葉なのに、心がじんわり温かくなる。
「……本当に、すごいな……アスカちゃん」
ぽつりとこぼれた本音だった。感嘆でも称賛でもなく、ただの実感として。
すると、その横でセバスティアナさんが小さく微笑んだ。
「ええ。あの方は……私の誇りです」
その声は、静かで、やさしかった。
その後、私が落ち着くまで、アスカちゃんは時間ギリギリまで話し相手になってくれた。
本当に、強くて優しい、素敵な女の子だと思う。あの子が将来の次期当主になるのなら、ローズクロス家もきっと良くなっていく……そんな確信を、私は持てた。
そして──。
「渡守くん、もう大丈夫です」
ずっと手を繋いでいてくれた渡守くんに、お礼を込めて声をかける。そのまま手を離そうとしたが、なぜか渡守くんは手を握ったままだった。
「……渡守くん?」
「……送る」
ただ一言、そう言って私の手を引いて歩き出す。そんな渡守くんらしくない態度に、私は少し戸惑った。
「わ、渡守くん? どうしたんですか?」
「……すんだろ、レート戦」
「え……」
まさか、この状況で覚えてくれてたなんて。驚いて、私は思わず目を丸くする。
「本当にどうしたんですか? なんだか、らしくないですよ」
「別に……ただ」
そう言いながら、渡守くんは私の目をまっすぐに見た。
「俺ァ、相当な負けず嫌いになっちまったらしい」
「……元からでは?」
私が「わけがわからない」と言いたげな顔をしていると、渡守くんは気にも留めずに続けた。
「勝てねェからって引っ込んでんのが、我慢ならなくなったんだよ」
余計に意味がわからない。レート戦の話だろうか? いや、まぁ、確かに私のほうが渡守くんとのマッチの勝率は高いけれど……。
「つまりだ……」
渡守くんは勿体ぶるように言葉を溜めてから、ぐっと顔を寄せてきた。
「これからは本気で奪りに行く。だから、覚悟しとけよ? 影薄サチコちゃん」
「……よくわかりませんが」
まぁ、この流れならレート戦のことだろうと察して、私はMDを構えた。
「全力で、受けて立ちますよ」
──このあとのレート戦は、私が勝った。