ph186 ダイレクトアタック不可避
学校が始まる二月までもう少し。その間、私は変わらずアイギス本部で仕事を続けている。
理由は単純。私が先祖返りだからだ。それだけで、特別扱いされた。悪い意味で。
本来なら、七大魔王との戦いが終わった時点で、アイギスでの役目も終わっていたはずだった。あのときの私とタイヨウくんは臨時職員という扱いで、戦いが終われば、希望しない限りは辞めてもよかった。
まぁ、戦いが終わってすぐの頃は、惰性のように続けていたけど……。でも、それも仕方ないと思う。世界中が混乱していたし、アイギスも対応に追われていた。まずは事態の収拾が優先されるのは当然だった。
実際に意思確認があったのは、戦いからしばらく経って、ようやく落ち着き始めた頃だった。タイヨウくんは「世のため人のために続けたい」って、即答していたようだ。
危険な仕事なのにね……ほんと、彼らしい。
一方で、私は辞められなかった。サモンマッチ協会が、横から口を出してきたせいで。
ローズクロス家から提出された内部評価書では、私の力は「危険なし」とされていた。制御はできているし、自分でも暴走の兆しは感じていない。
それでも、協会の一部の上層部は、貴重な駒を手放したくなかったのか、無理な理由をつけて引き留めてきた。最終的には、三大財閥の管轄で“管理対象”として扱われることになった。
その件については、後日、総帥から一言だけあった。「止めるには、私の権限では不十分だった」と。そう、申し訳なさそうに言われたが、私は別に、総帥を責める気はまったくなかった。
むしろ、そのあとでケイ先生から「ローズクロス家の預かりになりかけていた私を、止めてくれていた」と聞いて、感謝しているくらいだ。
そんな経緯もあって、今の私はアイギス本部所属という肩書だけを与えられている。
任務は基本的に回されない方針で、危険な案件が来ることも、よほどのことがない限りはないと総帥からも明言された。
だから本部に通っているとはいっても、実際にやっているのは、先祖返りの能力定期検査と協会への情報報告くらいだ。形式的なものだけど、定期的にやらなきゃいけないという決まりになっている。
……まぁ、検査だけで給料が出るなら、悪くない。わりとお得な立ち位置だと思ってる。
今日もケイ先生にちゃちゃっと検査されて、私は帰宅するために廊下を歩いていた。すると、前方からだるそうに歩いてくる渡守くんの姿が見えて、思わず足を止める。
渡守くんは、私と違って贖罪のためにアイギスに関わっている。
サタンの件で、精霊狩りとして活動していたことで捕まったけれど、その腕を買われて、捜査協力を条件に釈放された。……いわゆる、司法取引みたいなものだ。
とはいえ、七大魔王の件での功績が評価されて、その期間もかなり短縮されたらしい。目の前を歩いてくるその姿を見るのは、マナフとの戦い以来だった。
思わず、あのときの記憶がよみがえる。喧嘩、怒鳴り合い、そして強引すぎる転送──
……いや、アレはノーカンだ。というか、何もなかった。ちょっと顔がぶつかっただけだし、全くもって気にしてなんかいない。
けど、正直ちょっと気まずい。できればスルーしたい。
でも、一応はタッグを組んで訓練してきた相手だ。こうして鉢合わせたのに、何も言わずに通り過ぎるのは、やっぱり違う気がする。それに、渡守くんには言いたいことがあった。
私はひとつ息を吐いて、ほんの少しだけ距離を詰めた。それから、声をかける。
「……任務帰りですか?」
渡守くんは、気だるそうにこちらを一瞥する。
「見りゃわかんだろ」
「はい。でも、まぁ……なんとなく」
「なんとなくで話しかけんな。こっちは疲れてんだわ」
「そうですか。それはお疲れ様です。因みに、私は検査終わりです」
「ヘェ、そォかよ」
私のことなんて眼中にないと言わんばかりの、そっけない返し。けれど、その変わらなさに、どこかほっとしている自分がいた。
……よかった。変に気まずくなってたら、どうしようかと身構えてたけど、渡守くんはいつも通りだ。なら、大丈夫。言える。
「渡守くん、その……」
「あ?」
「……ちょっと、言いたいことがあって」
「……ンだよ」
「あの時の……マナフのこと、なんですけど……」
「……」
「君が引き受けてくれたおかげで、先輩のマナを浄化することができました。本当に……ありがとうございます」
その一言に、渡守くんの表情がわずかに止まる。何かを言いかけたように口が動いたが、結局、いつもの調子で肩をすくめる。
「チッ……別にテメェのためじゃねェ。勘違いすんな」
「そう、ですか。では、勝手に感謝するので聞き流してください」
「へーへー、勝手にしろ」
彼がそっぽを向いて歩き出したのを見送りながら、私はもうひと言だけ。今なら素直に言えると、静かに背中に向かって声をかけた。
「──渡守くん。……無事でいてくれて、ありがとう」
返事はなかった。言いたいことも言えたし、私も去ろうとした直後、盛大な舌打ちが響いた。
「……テメェは! ほんっとに!!」
急に振り返った渡守くんが、私のほうへ詰め寄ってくる。表情は怒りそのもので、こめかみには血管が浮き上がっていた。
「え、えっ? ちょ、……私、何か気に触ること言いました!?」
私は思わず数歩下がりながら問い返す。でも、彼は聞いちゃいない。怒りに任せてまくし立てるように、なおも睨みつけてくる。
「テメェのそォいうとこがイラつくんだよ!!」
「なっ!? 急に何なんですか!? 普通に心配しただけじゃないですか!!」
「ウルセェ!! 気色悪ィことすんなつってんだよ! マジでムカつくなァ!! テメェはよォ!!」
「君の沸点どうなってるんですか!? ていうか、どっちかっていうと君の方が──うわっ!」
言いかけた瞬間、背中が壁に当たった。気づけば、距離が近すぎた。渡守くんが半歩踏み出し、私のすぐ前で壁に手をつく。
いや、ちょっ……待て待て待て待て待て。なんか、近くないか? これ、ちょっ……下手すりゃまた顔が当たる!!
「テメェってやつァ……いつもいつも、人の神経逆撫でしやがって!! 人をイラつかせる天才だなァ!! オイ!!」
「ちょ、ちょっと待って渡守くん!? 一旦ストップ!! ストップです!!」
「あ゛ァ゛!? 知るか! テメェの都合なんざ──」
「いや、だから! 近いです!! 離れてください!!」
「…………あ?」
一拍置いて、渡守くんの視線がスッと自分の腕と顔の距離を確認する。
私はやっとこの異常な距離に気づいてくれたのかと安堵し、身を引こうとした。その時だった。
ふと、渡守くんの目が細められる。まるで、何かを観察するように。
「……へェ?」
呟いたのは、戸惑いと確信が半分ずつ混じったような声。その直後、彼の口角がぐいっと吊り上がった。
「……まさかテメェ、ビビってんのか?」
「は? ビビる? 何の話ですか」
「おーおー。無表情のまま、分っかりやすく引いたなァ?」
「反射的な距離感の話です。変な言いがかりはやめてください」
「ハッ……じゃあ何か? 今さら意識でもしてんのかァ?」
「はぁ!?」
一拍、言葉に詰まる。顔の筋肉が動かないまま、じわっと額に汗がにじむ気がした。
「意識? 私が? 渡守くんを? 天地がひっくり返えてもありえませんね」
「ンならよォ」
グッと距離が縮まる。これは完全に、意図してやっている。
「訓練のときゃァ、もっと際どくくっついてたろ? 今さら距離なんざ気にして……どォいう心境の変化だァ?」
「く、訓練とは違うじゃないですか! いい加減にしてください! 怒りますよ!!」
このっ、小学生のくせに!! 無駄な色気を出すな!! 教育的指導をかますぞこのやろう!!
「まァそォだよなァ? サチコちゃんに限ってェ? 俺なんざ意識する訳ねェわなァ?」
「あ、当たり前じゃないですか。何言ってるんですか。当然ですよ」
「そォだよなァ? ハジメテでもあるめェし、コレが当たったぐれェで今さら気にしたりしねェわなァ?」
渡守くんはそう言いながら、親指で私の唇に触れた。咄嗟に頭を引いた私は、壁に勢いよくぶつかって、その場にしゃがみ込む。
痛みで涙が滲みそうになるけれど、頭を押さえながらも負けじと睨み返した。
「と、当然です! ぜ、全然ハジメテなんかじゃありませんし!? ていうか、あんなのカウントしてませんけど!? 犬に舐められたのと同じで、全く気にしてませんが!? そうですノーカンです! ノーカンでハジメテじゃ……っ!?」
「へェえェェェ?」
くっそがあああ!! 口を開けば開くほどドツボにハマってる!!
渡守くんは、壁に置いた腕を軸に、私の目線の高さまでしゃがみ込む。せっかく空いた距離を、また詰めてきた。
「ちょっ、なんっ!」
「そっかァ。サチコちゃんはァ、ハジメテだったんでちゅねェ? そりゃァ悪いことしちまったなァ?」
こいつ、絶対反省してない!! だってめちゃくちゃ腹立つ顔してるもの!! 人を見下すことに全力を注いでるようなクズの顔をしているもの!!
「ハジメテがあんなじゃァ、そりゃァショックだよなァ。気ィきかなくて、悪かったなァ?」
「ちょっ、本当に! それ以上近づかなっ──」
「仕切り直してやろうかァ?」
……………………は?
「もっと、ロマンチックによォ」
や、やめろおおおおおおお!! 頬に手を添えんな!! 本気!? 本気でするつもりなの!? ちょっ、力強っ!
私は慌てて顔を逸らしつつ、そっと渡守くんの顔を確認する。そこには、からかい甲斐のある獲物を見つけたときのような、満足げな笑みが浮かんでいた。
やる気だこの男ォ!! だって人をいじめるのが生き甲斐な最低趣味してるもの!! そのためなら手段選ばないタイプだもの!! だからあの時もダイレクトアタックかましやがったもの!!
「サチコ」
それっぽく名前を呼ぶなああああ!! 待って! 本気で待って!!
いや、私だってね? 小学生同士のちゅーなら微笑ましいと思うよ? タイヨウくんとハナビちゃんがやって照れてるの想像したら、ニヤニヤが止まらないもん。ほほえま可愛いかよ早く付き合えよって思ってるもん。
でもこれは違うだろおおおお!!
悪意全開、いじめ全開、最低の動機で迫ってくる小学生にチューされるとか、どんな罰ゲームだよ!!
そもそも私は今こそ小学生の姿だけど、転生前は成人女性だったんだよ!? 精神年齢が体に追いついてないんだよ!? つまり……!
罪悪感がえげつないんだよおおおおおおお!!
これはもう完全に犯罪だ。におう。罪のかほりがする。違うぞ! 私は断じてショタコンじゃない! こんな小学生がいてたまるかとは思うが、断じてショタコンではない!! 私の好みのタイプはヒョウケツさんみたいな年上のっ……ちょっ!
顔が、吐息がかかりそうな距離まで迫ってくる。逃げようにも、肩を押さえられて動けない。
ちょっと待って!? 嘘でしょ!? えっ、マジですんの!? ほんとに!? や、やめてやめてやめてやめ──私はぎゅっと目をつぶった。
……けれど、何も起きない。おかしいと思って目を開けかけた、その瞬間。
ほんの一拍、息を呑むような気配があった。
「……バァーカ」
そして、額に走る衝撃。
「いっ!!」
反射的に頭を押さえて、目を見開く。目の前には、デコピンを決めたまま、満足そうに嗤っている渡守くんがいた。
「ヒャハハハッ! なァにプルプル震えてんだよ。本気でするわきゃねェだろ!」
「…………は?」
渡守くんはひょいと距離を取って、腹を抱えながら私を指差す。
「もしかしてェ、サチコちゃんはァ……期待しちゃってたんでちゅかァ?」
………………は?
「ヒャハハハハッ! 目ェぎゅって閉じちゃってよォ、クッソ笑えるわァ!」
そう言いながら、渡守くんは踵を返す。まるで用済みとでも言いたげな態度で、軽い足取りで背を向けかける。
「じゃァな。気が向いたらまた遊んでやるよ、ビビりのサチコちゃん?」
「……」
私は無言で立ち上がりながら、あの時の決意を思い出していた。
「影法師」
「はいはーい!」
「……あ?」
ダイレクトアタックかましやがって、絶対に許さんと決意していたことを。
「影縫い」
「はァ!? ちょっ、テメッ!!」
動けなくなった渡守くんを前に、私はそっと拳を握った。
「歯ァ食いしばってください」
「ザケんな!! 影縫いはズルっ──」
この後、私が本当に渡守くんを殴ったかどうかは、ご想像にお任せする。