ph184 これから
先輩のマナを浄化し、大気のマナを使いすぎた代償でカード化してしまっていた私は、気がつくと人間の姿に戻っていた。
目の前には、クロガネ先輩の顔。
どうやらカードになったときと同じ体勢で、意識を取り戻したようだ。抱きしめ合ったまま、ふたり並んで横になっていた。
このままでは、動こうにも動けないと、先輩の腕に軽く触れて声をかける。
「先輩、起きてください」
けれど、返事はない。
アフリマンに抗ったこと。そして、黒いマナを一気に浄化した反動もあるはずだ。きっと、体力を限界まで消耗してる。無理に起こすのは気が引けた。
とはいえ、このまま冷たい地面に寝かせておくのもどうかと思い、少しだけ強めに揺すってみる。
「先輩。……クロガネ先輩!」
それでも、返事はなかった。
もしや、想像以上に深刻なダメージを受けて、目を覚ませないのでは?
そんな不安が胸をよぎり、思わず体に力が入る。
何度も呼びかけ、揺すっても、先輩が目を覚ます気配はない。
もし本当にこのまま起きなかったら……そう思った瞬間、ケイ先生の顔が浮かび、本気で診てもらわなければと考えた。そのとき、先輩の口元が、ふっと、かすかに緩んだように見えた。
「……先輩?」
私が呼びかけると、先輩の表情はすでに無表情に戻っていた。
……気のせいだったのかもしれない。でも、あの一瞬、確かに口元が動いたような……。
まさかとは思うけど、試してみる価値はある。私はわざとらしく、少しだけ声のトーンを変えて、ささやいた。
「今起きたら……キス、してあげなくもないですよ」
「マジでかあああああ!!」
瞬時に跳ね起きる先輩。思わず半目になる私。
「起きた! 全力で起きた! 完全に目が覚めた! サチコおおおお!」
「影法師」
「はーい!」
「へぶっ!!」
私の頬に手を添えようとした先輩を、影法師の影縫いで冷静に封じる。そして、自由になった体を起こし、あたりを見渡した。
もしここが次元の狭間なら、すぐに脱出しなければと身構えていたが、崩れた地形や見覚えのある風景が目に入ってくる。おそらく、ここはネオ東京都内の花園都市公園だ。
「サチコぉ……」
背後から聞こえる情けない声。
正直、少しうんざりしたけれど、放っておけばもっと面倒なことになると思い、仕方なく振り返ってあげた。
「はいはい、なんですか」
「……キス」
「“してあげなくもない”とは言いましたけど、“する”とは言ってません」
「あんまりだ!!」
影縫いから解放され、地面に崩れ落ちる先輩を横目に、私は空を見上げた。
周囲に人気はない。カード化が解けた理由はまだ分からないけれど、少なくとも、もう戦う必要はなさそうだった。
まだすべてが終わった実感はないが、空気は澄んでいて、マナの流れも穏やかになっている。……きっと、タイヨウくんがやり遂げてくれたのだろう。そう思いながら目を閉じ、馴染みのある気配を探った。
──あった。みんなの気配。天眼家の方角だ。
「ほら先輩。落ち込んでる暇があるなら、天眼家に向かいますよ」
「そんな小悪魔なサチコも好きだ! 結婚してくれ!!」
「うるさい」
求婚をきっぱり切り捨てながら、私はブラックドッグを呼び出してもらい、その背にまたがった。
この空の下で、またみんなに会える。そう思うと、ほんの少しだけ、笑みがこぼれた。
「サチコ! 五金先輩!!」
天眼家に到着した私たちを出迎えたのは、満面の笑みを浮かべたタイヨウくんだった。
「よかった……二人とも、無事だったんだな!」
「うん。なんとか、ね。他の皆は?」
「全員元気だぜ! 念のためにって、ケイ先生が診てくれてる!」
タイヨウくんの屈託のない笑顔。その表情が、確かな事実なのだと教えてくれる。
──そうか。本当に、誰一人……失わなかったんだ。
「タイヨウくん」
そう名前を呼ぶと、タイヨウくんは変わらぬ笑みで私を見つめる。
「やったね」
私が拳を差し出すと、彼はすぐにその意図を汲んで、同じように拳を合わせてくれた。
「おう! サチコもな!」
コツン、と拳が触れ合った。拳から伝わりぬくもりに、何も言葉はいらない。そう思っていた──そのとき。
「おい」
低くて不機嫌そうな声が、真横から飛んできた。
その直後、私たちの拳がクロガネ先輩の手によって、ぐいっと引き剥がされる。
「サチコに触んな」
拳を引き剥がされたかと思えば、ぴたりと私の隣にクロガネ先輩が収まっていた。無言のまま、タイヨウくんを睨みつけている。
「……先輩」
いや、空気読めよ、お前。
「ははっ! 先輩も相変わらずで安心したぜ!」
タイヨウくんは威嚇にも動じず、いつもの調子で笑ってくれる。私はちょっとだけ脱力しながら、息を吐いていると、背後から漂う慣れた気配に気づいて顔を上げた。
「アグ──」
「おヌシ、少し見ぬ間にずいぶん面構えが変わったのう」
けれど、想像していた存在とは違う声に、思わず目を丸くする。
「もっとこう、陰気で根暗な小娘じゃった気がするが……目の奥に芯が宿ったわい。……童の成長とは、つくづく早いのう」
まさか、そんな筈はと後ろを振り返ると、少し離れた場所で、腕を組んだドライグがこちらを見ていた。
「ど、ドライグさん!? 本物!?」
……え、あ、は!? なんで!? なんでドライグ!? 封印されてたはずじゃ……どうしてここに!?
ドライグの失礼な言葉なんて耳に入らない。ただ、その姿が信じられなくて、呆然とする。
そんな私の混乱に気づいたのか、タイヨウくんが気まずそうに後頭部をかいた。
「……実はさ、エンラたちが……サタンの封印、解いたんだ」
「ええええっ!? エンラくんたちが!? 封印を!?」
思わず叫んでしまった私に、タイヨウくんはバツが悪そうに目をそらして笑う。
「……その……俺がアフリマンと戦ってる間に、ドライグを解放するチャンスだって、陰で動いてくれてたんだ」
「そ、そうなんだ。でも、それ……大丈夫なの?」
「うん、まぁ……ネオアースシステムが変わったおかげで、歪みとかの心配はないってさ。再封印も終わってるって」
そう言いながら、タイヨウくんは申し訳なさそうに肩をすくめた。
「……でも今、ユカリの母ちゃんにめっちゃ怒られてる」
でしょうね!! サタンの封印を勝手に解くなんて、どんな命知らずよ!? 怒られるくらいで済んでるなら、むしろ感謝すべきレベルだよ!!
……とはいえ、だ。アフリマンは倒せたうえに、ドライグも戻ってきた。無茶ばっかりだったけど、それでも、今こうして笑えてるなら。……まあ、結果オーライってことでいいのかもしれない。
私は、ドライグの存在をもう一度ちゃんと確かめるように、顔をあげた。
ドライグの気配を、私は一瞬、アグリッドのそれと勘違いしてしまった。だから二重に驚いたのだが……考えてみれば、私が最後に彼と会ったのは、大気のマナも扱えず、刻印の力に縛られていた時だった。あのときは、目の前の状況に必死で、彼の気配をちゃんと感じる余裕なんてなかった。
今更ながら、ドライグとアグリッドのマナには、どこか共通する響きがあることに気づく。……同じ人の相棒になった存在同士だから、自然と似てるのかもしれない。
今後は間違えないように気をつけようと、ドライグのマナの気配をしっかりと覚えた。
その後、私はタイヨウくんと別れ、クロガネ先輩と共に天眼家の中へと入った。待っていたのは、ケイ先生による簡易的な診察だった。
カード化されていた影響から、何らかの異常が残っている可能性もある──そう説明されたが、結果は「異常なし」。クロガネ先輩も同様で、特に問題はなかった。
その報告を聞いたとき、心が軽くなった。身体のことだけじゃない。ようやく、“現実に戻ってこられた”という実感が湧いてきたのだ。
診察室を出て間もなく、MDにグループ通信が入る。表示されたのは、七大魔王と直接戦った全メンバー宛てのものだった。
『諸君、七大魔王との戦い、ご苦労であった』
画面に映し出されたのは、五金総帥──クロガネ先輩の父親であり、ネオアースの守人でもある人物。その姿を目にした瞬間、自然と肩の力が抜けた。
総帥は、ネオアースという世界を創っていたカードに深く関わる存在だ。今回の戦いで、もしものことがあったら──そんな不安が、心のどこかでくすぶっていたのだ。
でも今、こうして変わらぬ厳しい声で話してくれている。それだけで、胸の奥にじんわりと安堵が広がっていく。
『動けぬ者もいるだろう。このまま、現在のネオアースの状況について説明する』
総帥の言葉に、私は思わず背筋を伸ばした。静かに始まったその内容は、今や世界の根幹となったネオアースの、これからを語るものだった。
建物の倒壊や地形の変化など、物理的な被害は深刻だったが、幸いなことに死者は一人も出ていないという。七大魔王や黒いマナの精霊に襲われた人々は、すべてカード化されていたためだ。軽傷者こそいたものの命は守られ、今は順次、復元作業が進められているとのことだった。
そして、更にもうひとつ、一番重要な内容。
それは、アフリマンとの決戦によって、タイヨウくんがネオアースシステムそのものを“書き換えた”こと。それにより、この世界の構造が根底から変わったのだという。
これまでのネオアースは、精霊界とマナを循環させることで、世界を維持していた。その代償として、人間の命がネオアースのカードとして捧げられていた。
選ばれた者たちは、ネオアースとなり、世界を存続させるために命を削っていたのだ。
──でも、もうそれは必要なくなった。
新たに構築されたネオアースシステムは、精霊界と同じく、マナを自給自足できるようになった。
これにより、マナコントロールに優れた者たちも、この世界に無理なく適応できるようになり、これまでのように短命となることはなくなった。
ただし、その一方で──マナが常に満ちる世界では、もはや精霊との関わりを完全に断ち切ることはできない。
良くも悪くも、精霊と共にある世界になったのだ。
通信の最後に、総帥は言った。
『──我らは変わった世界に立たされた。ただ生きるのではなく、選び取った未来に応えねばならん。私も動く。貴公らも、それぞれの責務を果たせ』
これからは、この世界と向き合っていかなければならない。そのために、私たち自身も、少しずつ変わっていく覚悟がいる。新しい世界に、置いていかれないように。
そう、背を正さずにはいられない言葉だった。
総帥との通話が終わる頃には、空はすっかり落ち着いていて、天眼家の庭には夕焼けの名残がぼんやりと残っていた。
赤でもなく、金でもなく。何色とも言えないその空が、今日という一日の終わりを、そっと包み込んでいるようだった。
「サチコ……」
静かな風の中、隣を歩くクロガネ先輩がぽつりと口を開く。
「……俺、お前の隣に戻れて、本当によかった」
その声には、まっすぐな安堵と、飾らない優しさがにじんでいた。そしてクロガネ先輩は、そっと手を伸ばし、ためらうように私の手を握る。
「今……すげぇ幸せだよ」
……ずるいな。そんなふうに、改めて言われたら。
私は少しだけ視線を逸らしながら、努めて素っ気なく返す。
「……私は、別に。いなくても困りはしませんけど」
言葉とは裏腹に、私はその手を振り払うことなく、そっと預けたままでいた。
それきり、会話は途切れる。けれど、その沈黙は、不思議と心地よかった。
私は歩を緩め、立ち止まって空を見上げる。
「……これから、どうなるんでしょうね。ネオアースも、私たちも」
小さく漏れた私の言葉に、クロガネ先輩が少しだけ間を置いて答える。
「……さぁな。未来のことなんざ、俺にも分かんねぇ。でも──」
その目は、空ではなく、まっすぐ私を見ていた。
「どんな未来になろうと……俺にとって大事なもんは、これからも、きっとずっと変わんねぇよ」
そのまっすぐすぎる言葉に、思わず息が詰まる。そして、ふっと小さく笑ってしまった。
「……そうですか」
胸の奥に染みこんでいくようなあたたかさに、知らず知らず笑みが深くなる。夕空の光に溶けるように、心に差していた影がそっと晴れていく気がした。
長かった。怖くて、苦しくて、何度も立ち止まりたくなった。
だけど──あの暗い視界の果てに、今こうして差し込む光がある。隣にいてくれる誰かがいて、同じ空を見てくれる温もりがある。
きっと、これからも困難は続く。それでも、もう“終わり”じゃない。これは、新しく始まる“私たちの未来”だ。
私はそっと、クロガネ先輩の手を握り直した。その温もりが、確かにここにいることを教えてくれる。
今はもう、それだけで、十分だった。