ph180 君にしか還れない
私の勝利が決まった瞬間、アフリマンの気配がゆっくりと薄れていくのを感じた。
これで、先輩の中からアフリマンはいなくなった。あとは、先輩のマナを浄化するだけ。そう思って顔を上げた、その時だった。
バトルフィールドの崩壊と呼応するように、先輩の身体が徐々に透けていく。まるで、存在そのものが、この世界から消えていくかのように。
「先輩!」
私は躊躇なく駆け出す。崩壊寸前のフィールドの中、消えかける先輩の元へと飛び込むようにして腕を伸ばした。
理由は分からない。けれど、このままマッチが終われば、先輩は本当に消えてしまう気がした。
そんなの、絶対に許さない。
私は先輩の体を抱き締め、そのまま大気のマナを強引に循環させる。
「っ! サチコ、何して──」
「動かないでください!!」
戸惑う先輩を押しとどめ、私は全神経をマナに集中させた。
消えかける先輩をどう助ければいいのか、正直なところ分からなかった。でも、はっきりしていることが一つだけある。今の私にできるのは、マナの浄化だけだと。
ただ、先輩の中に眠るマナはあまりにも膨大だった。私ひとりの力では到底足りない。だから私は、大気のマナを限界まで呼び込み、私の体を媒介にして、ひたすら先輩の中へと送り続ける。
「う、ぐっ……!」
頭が割れそうに痛い。血の味が、喉に広がる。
「サチコ! もうやめろ、無理だ! お前の体が保たねぇ!」
「……いやだって、言ったでしょう……」
私は先輩を抱く腕に、さらに力を込めた。
「私……決めてたんです。ちゃんと、告白の返事をするって……こっぴどく振って、一発ぶん殴ってやるって……だから……」
苦しさに喉がつまる。でも、止まってはいけない。止まったら、きっと後悔する。
「……いなくなっちゃ……いやです…………」
思わずこぼれた声に、先輩の体がわずかに震えた。呼吸が揺れ、張り詰めていた空気にわずかな変化が生まれる。
そして、ぐっと抱きしめられる私の体。その腕の強さに、先輩の感情が伝わってくるようだった。
マナが溶け合う。私と、先輩の命が重なって、共鳴している。
……あぁ、大丈夫。このままなら、きっと──
ぽたりと、肩に落ちた温かな雫。驚いて顔を上げると、先輩の瞳から涙がひとすじ、零れていた。
「せ、んぱい……?」
「……悪ぃ……サチコ、本当に……悪ぃ……!!」
小さく震える声。先輩は私の肩に顔を伏せ、抑えきれない想いを吐き出し始める。
「俺、最低だ……本気で、ネオアースになるつもりだったんだ。全部捨てて、全部終わらせて……それでいいって、本気で思ってた……」
歯を食いしばりながら、懺悔のように言葉を絞り出す。その声に、私は黙って耳を傾けた。
「でも……サチコが来てくれて……すげぇ嬉しかった……」
徐々に声が震え、堰が外れたように溢れていく。
「サチコが、ネオアースになるかもしんねぇってのに……それでも俺のことを心配してくれて……また会えて……こうして、触れ合えて……嬉しいって思っちまったんだよ……!」
嗚咽交じりのその声が、胸に深く染み渡る。
「ごめん、サチコ……本当にごめん……!」
全く、もう……この人は変わらない。あの時と、ぜんぜん変わっていない。
「自分勝手で、最低で、ごめっ──」
「馬鹿ですね。……先輩は本当に、馬鹿ですよ」
私はそっと先輩の頭を撫でた。責めるでも、怒るでもなく、ただ微笑みながら。
「そんなの、当たり前じゃないですか」
目を閉じると、あの光景がよみがえる。
「覚えてますか? 私がサタンを封印しようとした時、先輩を突き放して、一人で精霊界に行った時のこと……」
あの時の私は、本気だった。誰にも頼らず、全てを背負う覚悟でいた。でも。
「……嬉しかったんです。あんな酷いことを言ったのに……先輩が来てくれて……側にいてくれて……すごく、嬉しかったんですよ……」
そう、あの時も。先輩は、何もかも捨てる覚悟で私を追ってきてくれた。その行動に、私は救われた。
「……こんな私は、最低ですか?」
「そんなことねぇ!!」
先輩が顔を上げた。その瞳は濡れていて、けれど、確かな想いが込められていた。
「お前は、全然最低なんかじゃねぇ。……あれは、俺が勝手に……サチコの側にいたくて、ただ、それだけで……」
「なら、同じです」
私は、彼の頭を撫でていた手をそっと頬へと移す。その温もりを、指先に確かめるように。
「先輩も……最低なんかじゃない。最低なんかじゃないんですよ」
「……っ」
私の言葉を聞いた瞬間、先輩の体が小さく震える。こらえていた何かが、音もなく崩れ落ちる気配がした。
「サチコ……」
泣きながら笑うような、ぐしゃぐしゃの表情で、先輩が言葉を吐き出す。
「……こんなに、優しくされたら……もう、抑えらんねぇよ」
腕が、ぎゅっと強くなる。心臓にまで響くほど、痛いくらいに。
「好きだ……サチコが、好きだっ……」
先輩の声が、叫びに変わる。
「どうしようもねぇぐれぇ、お前が好きなんだよ!!」
涙がぽたぽたと私の肩に落ちる。
「誰にも渡したくねぇ! 青髪にも、白髪にも! 他の誰にも、お前の名前すら呼ばせたくねぇ!」
叫ぶように、息を荒げながら先輩は続ける。
「ずっと……ずっと俺の側にいてほしい。俺だけを見て、俺だけに笑って、俺のために生きてほしい……!」
先輩の声が、哀願にも怒りにも似た熱で震える。
「……なぁ、サチコ……どうしたら俺を見てくれる?」
その一言には、すべてが詰まっていた。
「他の奴なんか見んな……笑うな、触んな、呼ぶな……サチコの全部がほしい!! 俺だけのサチコでいてほしい!!」
それは、どうしようもなくわがままで、醜いほどに執着にまみれた願い。
けれど、その言葉の裏には、心からの「想い」が溢れていた。
「……他の全部なんか、どうでもいい。お前さえいれば、それでいい……俺から、離れないでくれ……」
その想いに呼応するように、先輩の中から溢れ出すマナ。黒いマナが膨れ上がり、同時に私の意識に彼の記憶が流れ込んできた。
──五金家で冷遇され、冷たい視線にさらされる日々。暴走したマナを制御できず、拘束され、檻に閉じ込められている姿。唯一気にかけてくれていたアオガネさんの手が、ある日、先輩の首に伸びていた。明確な殺意を持って──。
これは、先輩が経験してきた現実。中学生の少年が背負うには、あまりにも過酷な過去だった。
……先輩。
私は、その憎しみと孤独に染まった記憶を、私自身のマナで包み込んでいく。深く刻まれた傷に、そっと手を添えるように。強くもなく、弱くもなく、ただ静かに、否定せずに受け止めていく。
その瞬間、景色がふっと変わった。
気づけば、私は見覚えのある空間に立っていた。棚にずらりと並ぶカードパック。小さな折りたたみ椅子。そして、床にしゃがみ込んで、悩むようにパックを見つめる、幼い男の子の姿。
その子の隣に、ひとりの女の子が近づいていく。
「……え?」
その顔を見た瞬間、思わず声が漏れた。
──そこにいたのは、幼い頃の私だった。
五歳くらいだろうか。はっきりと覚えている。影法師と出会い、初めて本格的にサモンマッチを始めようと決めて、デッキを作るために訪れたカードショップでの出来事。
『……主力モンスターを当てないと、帰れない……父さんに、怒られる……』
ぽつりと呟いた男の子の声がよみがえる。カードパックの選び方一つで怒られるなんて、どんな理不尽すぎる親だよと思った。
だから私は言った。『じゃあ、練習してみたら』と。自分のパックを彼に選ばせて。
その手で引き当てた主力モンスターに、男の子は『やった……!』と小さく喜びの声を上げた。
私はその隣で、にっこりと笑って、彼にそのカードを差し出した。
『よかった。それ、あげるよ』
そう言って、私は別のパックを取り直して、レジへと向かっていた。
そのやり取りを、今の私は少し離れたところから見つめている。胸の奥が、じんわりと温かくなる。
あの時の男の子──
「……先輩だったんですね」
その記憶から流れ込んでくるマナは、驚くほど穏やかで、温かかった。幼い日の、ささやかな光景。けれど、それがどれほど先輩の心を支えていたのか、痛いほど伝わってくる。
私の何気ない気まぐれが、誰かの支えになっていたなんて。……当時の私は、知る由もなかった。
やがて、景色が次々と移り変わっていく。
影鬼を手に入れた先輩は、周囲の評価を得るために必死に戦っていた。総帥に認められようと、ただひたすらに前を向いて。
単身、精霊界へと足を踏み入れ、ブラックドッグと対峙する姿。孤独の中で、恐怖を押し殺しながら戦うその背中が、胸を締めつける。
そして、少しずつ成長していく先輩。けれど、何度挑んでも、総帥の目に届くことはなかった。認められることもなく、一人きりで投げ出された先に──ショップ大会で戦う日々があった。
その中で、彼は……私と出会った。
次第に、マナがさらにあたたかさを帯びていく。
そこから先は、私もよく知っている光景だった。
過去と向き合い、傷を抱えたまま、それでも前を見続ける先輩。私への想いが、時に行きすぎる形で表に出てしまうこともあったけれど、それすらも真剣さの裏返しなのだと、今なら分かる。
SSCでの張り詰めた攻防、SSSCを前にした焦りと追い込み、ダビデル島での死闘。そして、歪みの修復に奔走する日々。
記憶が今の時点に近づくほど、先輩のマナはどんどん澄んでいく。濁りが和らぎ、痛みと共にあった黒が、少しずつ透明になっていく。
もうすぐだ。あと少しで、先輩のマナを完全に浄化できる。
そして最後に映ったのは、先輩と向かい合ってマッチをする私の姿。全力でぶつかり合い、そして……私が勝利する。
同時に、先輩の中に巣食っていた黒いマナが、完全に消え去った。
残ったのは、力強く、それでいてどこか優しさの滲むマナ。白を基調としながら、ほんの少し赤黒く色づいた温かいマナ。
これが、先輩の本来のマナ。
「……っ、よかった」
成功の実感がじんわりと胸に広がる。安堵と嬉しさが溶け合い、心がふわりとほどけていく。
……もう、先輩がアフリマンに飲まれることはない。そう思った瞬間、私は自然と微笑みながら、少しだけ顔を上げて先輩を見た。
すると、そこには喜びでも安堵でもなく、なんとも言えない微妙な顔をした先輩の顔があった。
「せ、先輩? どうしたんですか?」
「………………サチコ」
やたら間を空けて名前を呼ばれ、なんとなく嫌な予感がして「はい?」と返すと、先輩がぐいっと顔を近づけてきた。
「ちょっ、何してるんですか!? 近いです!!」
「ふぐっ!」
慌てて両手で押し返すと、先輩はうめきながら仰け反った。
「この流れでセクハラって、何考えてんですか!!」
「だって白髪がやってただろ!!」
「……は?」
一瞬、思考が固まる。
けれど、すぐに理解してしまった。
先輩が知るはずのない、渡守くんのあの所業。それを知っているという事はつまり、私が先輩のマナを浄化していた間、彼の記憶が流れ込んできたように、私の記憶が流れ込んでいたという事だろう。
……え、嘘!? それどこまで!? 前世とかまでとかだったらどうしよう!? それって大丈夫なのか!? え、大丈夫だよね!?
思わず血の気が引く私に、構わず顔を近づける先輩。
「俺だってサチコとキスしてぇ! あいつがいいなら、俺もいいだろ!!」
「やめてください!! 真面目に殴りますよ!!」
必死に先輩の顔を押し返す。多分、本気を出されたら止められないけど、少なくとも、強引に来ないあたり、多少は理性が残ってる……はず。
「サチコの初めては、俺がよかったのに……! 全部、俺がよかったのに!!」
「あーもう、うるさい!!」
頭を抱えたくなった私は、ついに観念して、先輩の頬に手を添えた。そして、顔を近づける。
「サチっ……!?」
ほんの少し頬に触れただけ。それだけなのに、慣れていないせいで顔がどんどん熱を帯びていく。私は思わず目を逸らし、ぎこちなく呟いた。
「……私からするのは、その……初めてなんで。……これで、勘弁してください」
「へ、へへ……」
先輩は、とろけたような顔で、心底幸せそうに笑っている。
「……俺……今、最高に幸せだ。ほんと、すっげぇ嬉しい」
「はいはい、よかったですね」
「でも白髪は殺す」
……渡守くん、どんまい。
こればっかりはどうにもならないなと、内心でため息をつく。けれど、先輩の顔を見ていると、自然と力が抜けていく。
本当にしようがない人。そう思って身を引こうとした時、自分の手がふわりと霞んでいるのに気づいた。
「……え?」
「カード化だな」
戸惑いをにじませた私の声に、先輩はあまりにもあっさりと答えた。
「お互い、無理しすぎたみてぇだな」
あまりにも他人事みたいに淡々とした口ぶりに、まるで天気でも語っているようで、私は思わず眉をひそめた。
「……ずいぶん余裕ですね」
「カード化してすぐなら、天眼家がどうにかしてくれる。問題ねぇよ」
「へぇ、だから落ち着いてるんですね」
「違ぇよ。お前が隣にいるから、だ」
一拍置いて返されたその言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。顔が熱くなるのを、なんとか誤魔化すように視線を落とす。
先輩はすとんとしゃがみ込み、私を抱きかかえたまま、そっと地面に座る。私も自然と、その腕の中に体を預けた
「……あとは、熱血野郎がアフリマンを倒しゃ、全部終わりだな」
変わらぬ調子で呟かれたその言葉に、私は静かにうなずいた。
「タイヨウくんなら、大丈夫ですよ」
「……だろうな」
予想以上に素直な返事だった。てっきり皮肉の一つでも返ってくるかと思っていた私は、少しだけ驚いて目を瞬かせる。
「否定しないんですね」
「別世界とはいえ、俺を倒した野郎だ。アフリマンなんぞに負けるかよ」
……別世界。もしかして、アオガネさんが言っていたループの話ことかな? やっぱり、私の記憶は先輩にも流れていたんだ。
「そうですか……じゃあ、今の先輩も、タイヨウくんには……?」
「負けねぇよ」
きっぱりとした口調でそう答えると、先輩はごろんと仰向けになった。私はその胸に抱き寄せられたまま、そっと頭を預ける。
「俺は、お前以外には、絶対に負けねぇ」
「……ふふっ、そうですか」
不思議だった。体が消えかけているのに、不安も恐怖も浮かんでこない。
きっとそれは……先輩が、こんなにも変わらず隣にいてくれるから。例え、どんな終わりが来ようと、この瞬間だけは守られているような気がした。
「なあ、サチコ」
「なんですか?」
「これからも……ずっと、俺の隣にいてくれるか?」
真剣な声だった。どこか怯えるように、それでも強く願うように。
一瞬だけ黙ってから、私は言った。
「それは、ちょっと……」
「なっ!?」
先輩の体がびくりと固まる。驚きと動揺が、露骨に伝わってくる。私は、ついくすりと笑った。
「……けど、今だけは。一緒にいてあげますよ」
「……そっか」
その返事に、先輩の腕がふわりと強くなる。ぎゅっと抱きしめられて、私はその温もりを全身で感じた。
怖くなんてない。体が霞んでいく感覚さえも、どこか心地よく思える。
だって私は、ちゃんと信じている。
タイヨウくんなら、きっとアフリマンを倒してくれる。この物語を、ちゃんと未来へと繋いでくれるって──。
そう願いながら、私はそっと目を閉じた。




