ph174 建前だけじゃ守れない
視界が暗転し、空気が一変した。
──ここが、地下世界。
足元には確かな地面の感触があるはずなのに、底なしの沼に沈んでいくような錯覚に襲われる。
私たちが降り立ったのは、黒く濁った沼地の側だった。水ではなく、マナ。しかも、黒いマナだ。
実際に沼に入っているわけではないが、空気は冷たく湿り、皮膚にまとわりつくような嫌な重さがあった。
「……チッ、気色悪ィな」
渡守くんが短く吐き捨てる。舌打ちも、いつもより深く響いた。私も息を吸い、顔をしかめる。
濃すぎる。黒いマナが、まるで霧のように漂っている。
見た目では分からないが、肺が重くなるほどに満ちていた。足元の沼も、そこから立ち上る瘴気も、すべてが濃密な黒に染まっている。
「マナフの気配は……沼の中からします。でも……」
私は目を細め、前方を見据える。
「……この濃度じゃ、近づくのは危険です」
ただでさえ精霊界はネオアースよりマナが濃い。そこに黒いマナが加わっている。
いつもなら濃いマナで呼吸がしやすいはずなのに、黒いマナのせいか視界が歪み、耳鳴りがする。これ以上近づけば、マッチどころか、意識を保つのも難しくなるだろう。
「つまり、マナフの方から出てくんのを待つしかねェってことか」
「ええ。安全に戦うなら、それが最善です」
私は黒いマナの流れを探るように目を閉じる。
……やはり、動きがある。少しずつ、だけど、マナフの気配は上方へと上がってきている。おそらく、沼の底から姿を現すつもりなのだ。
「ただ……このまま地上に留まるのは危険です。高所で待つ方が得策かと」
「……チッ、仕方ねェ」
渡守くんがカードを取り出す。その手には、既にマナが集まり始めていた。
「来い、ヴェルグ」
風が巻き上がる。重たい空気が唸りを上げ、足元の沼地が一瞬だけ波打った。
次の瞬間、空間が裂けるような音が響き、そこから巨大な翼を広げた精霊──フレーズヴェルグが現れた。
「ヒャッハーッ! 俺様をお呼びかなぁ? ご主人様ぁ!!」
羽ばたきと共に風を巻き起こしながら、ヴェルグさんはいつもの高いテンションで叫ぶ。
「って、ん? ……セン、お前……」
ヴェルグさんは渡守くんに目を留めると、ピタリと動きを止め、目を細めた。
「ブッ、ヒャッハハハッ! なんだよ、おまっ……ちょーっと目を離した隙に、随分と小綺麗になってんじゃねぇか!」
そして、口を大きく開けて笑い出す。どうやら、渡守くんのマナが浄化されたことに気づいたようだ。何がそんなにツボだったのかは分からないが、腹の底から笑っているあたり、相当おかしかったらしい。
「なんだよ、なんだよ。俺様のいねぇとこで、随分と面白ぇことがあったみてぇだなぁ? んん?」
「適当抜かすな。なんもなかったわ」
「嘘つくなってぇ。ほら、大事な相棒にぐれぇ何があったのか教えろよ。どんな心境の変化だ? ん? もしかしてぇ、ついに素直になっ──」
「それ以上ふざけたこと抜かすとブッ殺すぞテメェ!!」
「必死かよ! ヒャハハッ!!」
緊迫した空気に包まれていたはずの沼地に、唐突に笑い声が響いた。いつも通りの二人のやり取りに、思わず場の空気が少しだけ和らぐ。
とはいえ、状況が状況だ。いつまでも続けさせるわけにはいかない。私は割って入ることにした。
「ヴェルグさん、渡守くんで遊ぶのはそこまでにしてください」
「ざけんな! 誰が遊ばれてるか!!」
すかさず渡守くんが叫ぶが、ヴェルグさんは面白そうに首をひねる。
「何だいハニー、俺様に頼みごとか?」
「そうですダーリン。沼から七大魔王が出てくるまで、私達を乗せて飛んで欲しいんです。お願いできますか?」
いつもの軽口に対する私の返答に、ヴェルグさんは満足げに大きく翼を広げた。
「ハニーのためなら、喜んで」
ヴェルグさんの背に乗り、上空から沼を監視する。
けれど、空の上とはいえ、安心できる状況ではなかった。黒いマナの影響か、あたりにはいくつもの歪みが漂っている。
ヴェルグさんは器用に羽を操り、それらに捕まらないよう慎重に旋回してくれていた。
マナフはまだ姿を現していないが、その気配は確実に上がってきている。間違いなく、奴は近づいている。
……それなのに、妙な静けさだけがあたりに満ちていた。風の音と羽ばたき以外、何も聞こえない。
呼吸の音が、やけに大きく感じる。こんなとき、何か言うべきだろうか? 分からない。
答えの出ないまま、私はふと渡守くんの方に視線を送った。その瞬間、ぽつりと低い声が落ちる。
「……なァ」
「はい、なんですか?」
反射的に返事をしたが、彼はそれきり何も言わなかった。まるで、言葉の続きを迷っているかのように沈黙が続く。
私は、らしくない渡守くんの様子に眉をひそめ、そっと彼の横顔を覗き込む。
もしかして、緊張しているのだろうか。七大魔王との戦いが間近に迫り、さすがの渡守くんも気が張っているのかもしれない。
「渡守くん?」
名前を呼ぶと、彼の肩がわずかに動いた。顔を少し俯かせたまま、低く、ぽつりと呟く。
「……バカ女」
いつもの様に、私を蔑称で呼ぶ渡守くん。
でも、その声には、いつもの皮肉混じりの棘がなかった。そんな彼の表情は、髪の影に隠れてよく見えない。
「テメェは……マナフを倒したら……マジで、あのイカれ坊ちゃんのマナを浄化すんのかよ」
「……それは……どういう──」
言いかけて、言葉を止める。
彼が何を言いたいのか、私は悟ってしまった。渡守くんも、気づいていたのかと……クロガネ先輩を助けたその先に、どんな可能性があるのかを。
彼はそれを分かった上で、あえて聞いてきている。
私もまた、それに対する上手い答えを持たないまま、口を閉ざすしかなかった。
「……逃げねェか?」
「……っ!?」
思わず顔を上げて彼を見つめた。けれど、渡守くんの視線は、遠く、マナの霧が渦巻く地表を見つめたままだ。
「マナフさえ倒しちまえば、後はどォとでもなる。……あのイカれ坊ちゃんがネオアースになりゃ、それで全部終めェだろ」
確かに、それが一番“合理的”な解決策だ。
このままタイヨウくんがアフリマンを討ち、クロガネ先輩の中にそれを封じてネオアースにしてしまえば──。
アオガネさんがループの中で見てきた先輩とは違い、今のクロガネ先輩は自らの意思でアフリマンを受け入れ、ネオアースになろうとしている。
先輩を犠牲にすれば、七大魔王も、ネオアースシステムの問題も、丸ごと片付く可能性が高い。
けれど、もし私が先輩のマナを浄化してしまったら?
アフリマンを倒せたとして、それを抑えることのできる器は存在しなくなる。
そのせいで、封印が上手くいかず、アフリマンを完全に消滅させるしか方法がなくなったら──その代わりを勤めるのは、きっと……私だ。
先祖返りであることを打ち明けた今、ケイ先生や総帥、そしてサモンマッチ協会全体から、私がネオアースになるよう命じられ、それに逆らう術はないだろう
「ま、俺ァ最初っから適当なとこでズラかるつもりだったしな。……ここいらが潮時だろ」
渡守くんが、わざとらしく鼻で笑った。
「テメェのマナコントロールは使える。どうしてもってんなら、俺と──」
「渡守くん」
私は、彼の言葉を遮るように声を発した。
「……ありがとうございます」
たったそれだけの言葉だったけれど、渡守くんは少しだけ、目を見開いた気がした。
やっぱり、なんやかんや渡守くんは優しい。
柄も口も悪いし、人の弱みにつけこむのが好きな最低な奴だけど──
こういう時は、逃げ道を作ってくれる。その優しさには、何度も助けられた。
「それでも助けたいんです、私」
でも思い出す。あのとき、全てを捨てて、精霊界まで付いてきてくれた、あの背中を。
「このまま先輩を見捨てるなんて、私にはできない……そんなこと……したくないんです」
あんな最低な言葉をぶつけて、先輩の気持ちを踏みにじったのに……それでも、彼は追い掛けて来てくれた。
守ると、ずっと隣にいると言ってくれた──だから。
「……それに、それはあくまでも“最悪の可能性”でしょう?」
例え、周りからバカだと言われても、先輩から恨まれる結果になったとしても。
「私、欲張りなんですよ。君が思う以上に……すごく、欲張りで、ワガママなんです……ここで逃げてしまったら、一生後悔する。逃げた先で、私はずっとこの日を後悔する……だから……」
……このまま、何もしないで大切な友人を見捨てる。そんな、最低な奴にはなりたくなかった。
「誰も犠牲にならない……そんな可能性があるなら、それに賭けたい……叶わなかったとしても、覚悟はできてます」
渡守くんは何も言わなかった。ただ、じっと私を見つめている。私も見つめ返し、その答えを待つ。
「────」
渡守くんが、ボソリと何か言う。けれど、風の音に掻き消されて、何も聞こえなかった。聞き返そうとしたその瞬間、気怠そうに、いつもの調子で口を開く。
「あ゛ー。クソダリィ」
そう言って、彼は頭を乱暴に掻きながら続ける。
「ンなにイカれ坊ちゃんのとこに行きたきゃァ、とっとと行けや。……テメェなら、その辺の歪みから行けんだろ、オラ」
「うわっ、ちょっ……やめてください!! 何するんですか!」
突然落とされそうになり、私は慌ててヴェルグさんの背にしがみつく。
「あ゛ァ゛? 二人して足止め喰らうなんざ時間の無駄だろ。ウゼェし、今すぐ消えろ」
「はぁ!?」
渡守くんの信じられない発言に、私は意地でも落ちてたまるかと、必死に踏ん張る。
「まさか……一人でマナフと戦うつもりですか!? 危険です! 何考えてるんですか!」
「テメェだって一人でやるつもりだったろォが」
「私と渡守くんじゃ、条件が違うでしょう!!」
そう。私には、マナを循環させるという選択肢がある。
七大魔王と循環できれば、マナ保有量の問題はクリアできる。サタンとも、先輩とも循環できた私なら、それが可能だ。
でも、彼は違う。自身のマナだけで戦わなければならない。それがどうなるかなんて、考えなくたって分かる。
「なんのためにタッグの訓練をしてきたと思ってるんですか! 一人で戦うなんて、死にに行くようなもんですよ!」
「テメェにできて、俺にできねェわけねェだろ」
「こんなとこで変な意地張らないでください! 絶対ダメですから!」
私は必死に渡守くんの腕にしがみつく。
「だああああ! 離せや! 鬱陶しい!!」
「嫌です! 渡守くんが前言撤回してくれない限り、絶対に離しません!」
「ざけんな! つゥか、勝手に死ぬって決めつけてんじゃねェ! 俺ァ生憎と自殺願望なんざ持ち合わせてねェんだよ! 誰がンなとこで死ぬか!! 舐めんな!!」
「渡守くんが生き汚いのは知ってます! でもそういう問題じゃないでしょうが! 君だって分かってるはずです!!」
「テメェこそ! 15分しか大気のマナ操れねェんだろォが! マナフと殺りあった後に、イカれ坊っちゃんの相手なんぞ出来んのか!? 出来ねェだろ!!」
「それはっ……! でも、私はちゃんと対策してます! 渡守くんの方が無理です! 絶対死にます! 百パー死にます! 無理なもんは無理!!」
「上等だゴラァ!! 絶対ェ一人でも生き残ってやるわ!! 余裕でブッ飛ばしてやるよォ!!」
怒鳴り合い、睨み合う。もはや、意地のぶつけ合いだった。
「ンだァ? サチコちゃんはァ、そンなに俺と離れたくないんですかァ? どんだけ俺のこと大好きなんだテメェは!! キメェ! しね!!」
「ちょっ、心外なんですけど!? 嫌な勘違いやめてくれません!? 私はもっと年上で、落ち着いてて、包容力のある男性が好みなんです! 渡守くんなんて論外です!!」
「あーあーあーあー、よく言うわ。みっともねェ顔で泣き喚きながら“死が二人を分かつまで〜”とか言ってたくせによォ! 違ェんなら、今すぐ離せや!!」
「人の揚げ足取るのやめてくれません!? あの時は状況が状況だったでしょう!? それに、友人が死にに行くのを無視できるわけないでしょうが!!」
まさに、売り言葉に買い言葉。勢いに任せて、思いのままに言葉が飛び交う。
「だァかァらァ、死なねェっつってんだ! バカにすんのも大概にしろや!!」
「馬鹿になんかしてません!! 私は本気で心配してるんです!!」
「その心配がバカにしてるっつってんだよ!! あ゛あ゛!? 何だァ!? 死なねェって神にでも誓えば満足すんのか!? 誓いがどォとか言ってたもんなァ!?」
「こんなときに何ふざけたこと言ってんですか! そもそも、神様とか信じてない質でしょ君は! 私は、ただ──」
「クソが! ……もういい、こんままじゃ埒が明かねェ」
渡守くんが、苛立ちを吐き捨てるように呟いた。
次の瞬間、そのトーンが少しだけ変わる。
「サチコ」
「え? あ、は……っ!?」
急に落ち着いた声。しかも、始めてちゃんと呼ばれた。思わず言葉を止めた瞬間、渡守くんの顔がすぐ目の前にあった。
────は?
彼の、真剣な赤い瞳に、呆けた私の顔が映っている。何が起きているのか、頭が追いつかない。ただ、唇に触れた柔らかな感触と、ほんのりした温もりだけが、やけに鮮明だった。
「ハッ……隙だらけなんだよ、お前は」
本当に、一瞬の出来事だった。まだ理解が追いつかないまま、とん、と軽く胸を押される。
「間抜け面」
その言葉とともに、体がふっと浮いた。ヴェルグさんの背から落ちて、歪みの中に飲み込まれる。
そこでやっと思考が追いつき、問い詰めるように見上げた先。視界に映った渡守くんの顔は──この上なくムカつく、心底腹の立つ笑みを浮かべていた。
……あ、あ、あの野郎!! マジかよ!! やりやがった!! 自分の主張を通すためだけに、思い切りやりやがった!!
渡守くんのとんでもない行動に、私は混乱しつつも、思わず口を手で押さえた。
信っっっじらんない!! 先輩ですら、ダイレクトにしなかったのに!! 何してくれてんだアイツは!!
目的のためなら手段を選ばないにも程があるでしょ!? ほんっと、そういうとこなんだよ!! ああもう! これで殴る相手が増えたじゃないか!!
私は心の中で、渡守くんに対する罵詈雑言を思いつく限り叫び続ける。
もう知らない! 渡守くんなんて、勝手に一人でマナフとマッチすればいいんだ! 後で泣きを見たって、ほんっっっとうに知らないからね!!
……というか、私のファーストキスあれかよ!! 最悪だ!! いや、あんなんノーカンだ! ノーカン!! いい歳した大人は、小学生からのキスなんて真面目に数えないんだよ!! 言わばあれは犬に舐められたのと同じ!! 残念でした! ザマーミロ!! でもやっぱりムカつくから、後で絶対に殴る!! 本当に、思い切りかましてやる! 顔か変形するぐらいの強烈な一撃をかましてやるんだ! …………っ、だから──
「…………死んだりしたら、一生許しませんよ」
私は拳をギュッと握りしめ、目を閉じた。
呼吸を整え、胸の内をぐるぐると駆け回る感情に気づかないフリをしたまま、歪みの中へと身を投じた。