ph173 君を支えたくてーsideハナビー
「おまえ! あれだけ大口叩いたくせに、飛べないとはどういうことなのです!!」
ナナちゃんが振り返り、あきれたように叫んだ。
「ご、ごめんなさい……!」
私は思わず縮こまる。実際に、今の私はナナちゃんの精霊の力を借りて、どうにか宙に浮いている状態だった。
「ちょっとあんた! あたしのマスターを悪く言うなら許さないわよ!」
背後から鋭い声が飛ぶ。透明な蝶のような羽を揺らしながら、ベスタが身を乗り出してナナちゃんを睨みつけていた。
「ふん。そのマスターを飛ばせない役立たずは黙るのです」
ナナちゃんも負けていない。小さな体から放たれるその言葉は、妙に鋭く、堂々としていた。
「なんですってぇ!?」
「べ、ベスタ、やめて!」
私が慌てて声をかけると、ベスタはぷんすかと怒った顔をしながらも、渋々引っ込んでくれた。
そんなやり取りを、ナナちゃんの精霊であるバンシーは、どこか微笑ましそうに見守っていた。
けれど、その空気がふっと張り詰める。
遠くから、空気を震わせるような重い音が響いてきた。何かが激しく衝突する音。風を巻き起こす衝撃。木々の奥で閃光がきらめき、一瞬だけ空が明るく照らされた。
「……っ、今の……!」
ナナちゃんが息を呑み、反射的に顔を上げる。
「マナの爆発……誰かが、戦っているのです……!」
その小さな体がぴくりと震え、明らかにただごとではないと察している。そして、視線を木々の奥へ向けたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……まさか、アスカお嬢様です……?」
その言葉に、私の胸もざわついた。
アスカちゃんは今、どこかで危険にさらされているかもしれない──。そう考えるには十分すぎるほど、さっきの爆音と光は強烈だった。
「ナナちゃん、落ち着いて……!」
私が声をかけるより早く、ナナちゃんはバンシーとともに飛び出していた。羽ばたきが強まり、彼女の小さな身体を乗せて、まるで引き寄せられるように木々の向こうへと加速していく。
「待って!!」
私もベスタとともに、そのあとを追った。揺れる枝葉をかき分けながら、ナナちゃんの残した風の跡を辿るように。
やがて木々が途切れたその先で、私たちは見つけた。たくさんの黒いマナを纏った精霊と交戦する、一人の男性の姿。──ケイさんだった。
「ケイさん!」
私はとっさにカードを構え、震える手に力を込める。マナを集中させながら、必死に言葉を絞り出す。
「お願いっ、発動して……魔法カード、聖導の祈光弾!」
白金色の光が弾けるように放たれ、黒い精霊の胸を正確に撃ち抜いた。光の残滓が宙に揺らぐ中、聞き慣れた声が届く。
「ハナビちゃん!? なんで君がここにいるんだ!」
黒い精霊との応戦を終えたケイさんが、険しい表情でこちらへ駆け寄ってくる。その声は冷静さを保ちながらも、明らかに怒気を帯びていた。
「ここは危険だ! 今すぐ避難所に戻りなさい!」
「あ、でも……私……」
思わず一歩、後ずさる。説明したいのに、うまく言葉が出てこない。胸の奥がざわついて、焦りばかりが先に立ってしまう。
「言い訳は結構だ!」
「……っ!」
その一言に、全身がびくりとこわばる。だけど──その隣から、小さな怒声が鋭く割り込んだ。
「おまえ! 何様なのです!!」
ナナちゃんが怒りをあらわにしながら、ケイさんを真っ直ぐ睨みつける。
「ハナビは、ナナのために来てくれたのです! ナナが頼んだのです! アスカお嬢様を探すために必要だったのです!!」
「ナナ、ちゃん……」
その声はまっすぐで、迷いがなかった。私が勝手についてきただけなのに、ナナちゃんは私を庇ってくれていた。ケイさんの威圧的な雰囲気にも怯まず、言葉を重ねる姿に、思わず胸が熱くなる。
「君は……ローズクロス家の分家筋だね?」
ケイさんがナナちゃんを見て、静かに言葉を続けた。
「君も本来なら避難所で保護を受けるべき立場だ。今すぐ戻──」
「ナナは絶対に戻らないのです!」
ナナちゃんが鋭く遮った。小さな体に宿る強い意志が、その声にありありと現れていた。
「アスカお嬢様を見つけるまでは、絶対絶対戻らないのです!!」
その言葉に、ケイさんは一瞬だけ目を細めた。そして、短く息を吐くと、静かに言った。
「……その必要はないよ。アスカちゃんなら、今は天眼家本家の医療区画にいる。きちんと保護されているから、安心してほしい」
「……え?」
ナナちゃんの目が大きく見開かれる。
「嘘、なのです……?」
「本当だよ。セバスティアナちゃんと共に、一時的に天眼家の医療施設に収容されている。現時点では、肉体的損傷はなく、意識の安定も図られている」
ケイさんの言葉に、ナナちゃんの肩がふっと落ちた。頬に一筋涙が伝うが、それでも表情を崩さぬよう、必死に唇を噛んでいる。
私はその背に、そっと手を伸ばす。
「ナナちゃん……」
「……だったら、どうして、アスカお嬢様のマナが感じられないのです……!? さっきまで、確かにあったのです。強くて優しい、アスカお嬢様のマナが……でも、今は、どこにも……っ」
ナナちゃんが顔を上げ、涙をにじませながらも鋭く問いかける。
「ナナは……目で見て、ちゃんと確かめるまでは信じられないのです。お嬢様が本当に無事かどうか……この目で見なければ安心できないのです!!」
一歩踏み出そうとするナナちゃん。その足を止めたのは、ケイさんの静かな声だった。
「……それは、彼女を包む結界のせいだ。精神を安定させるための保護措置でね。通常の感知では、マナの存在ごと消えてしまう。君のような感知が得意な子でも、気配を探るのは難しいだろう」
「……結界、なのです……?」
「そう。彼女の精神はまだ完全に安定していないんだ。黒いマナのせいでね。……下手に黒いマナの侵蝕が再活性すれば、命の危険すら招きかねない。だから今は、外部との接触を制限している。……例え親しい者であっても、面会は許可できない。理解してくれ」
その説明は冷静で、しかしどこか曖昧だった。本当の理由をすべては語っていないことを、私は直感で感じ取る。けれど、ケイさんなりの配慮なのだとも分かって、口をつぐんでいた。
ナナちゃんはしばらく何かを飲み込むように黙っていたけど、やがて震える拳をぎゅっと握りしめて、ぽつりと呟いた。
「……だったら、ナナは……待つのです……。お嬢様が元気になるまで……ずっと、待つのです」
「……ありがとう。その想いは、きっと彼女に届いているよ」
ケイさんはそう言いながら、こちらへ視線を向ける。
「今は状況が落ち着いたとはいえ、君たちがここにいるのはリスクが高い。アスカちゃんが目を覚ましたとき、君がそばにいてあげる方が彼女もきっと安心できる……だから、天眼家に戻ろう? ね?」
その静かな言葉に、ナナちゃんの眉がぴくりと動いた。
「……それは……そうかもしれないのです……。だったら、ナナは──アスカお嬢様のために、ちゃんと帰るのです」
そうして、私たちは天眼家本家へと戻ってきた。
正面玄関を抜けたあたりで、私たちを先導していたケイさんがふと立ち止まり、振り返る。
「ナナちゃん、そっちじゃないよ。君の待機場所は──」
声の矛先はナナちゃんだった。彼女が別の方向へ向かおうとしたことに気づき、ケイさんが呼び止めたのだろう。
けれど、ナナちゃんはちらりとこちらを一瞥しただけで、何も言わずに再び医療区画の方へと向き直った。
「お嬢様が戻ってくるまで、ナナはここで待つのです」
医療区画の前でぴたりと足を止めたナナちゃんは、その場から一歩も動こうとしなかった。
ケイさんは小さくため息をつくと、私の方にだけ静かに視線を向けてくる。
「ハナビちゃん、君だけでも避難所へ戻ろう。こっちだ」
「……はい」
そう、ケイさんに対して返事を終えた、その直後だった。
廊下全体が低く唸るように震え、足元から不気味な振動が這い上がってくる。
天井の灯りが一度だけ明滅し、警報のような重い音が空気を打った。
「結界反応、急激な変動! 霊環室付近で異常発生!」
通路の奥から駆けてきた隊員たちが、緊迫した声で叫ぶ。
霊環室。場所の名前だけが聞こえても、私はそこがどういう場所なのかまでは分からなかった。
でも──
タイヨウくん……?
心の奥で、誰かの声がしたような気がした。懐かしいぬくもり。誰よりも優しくて、真っ直ぐなその気配。
胸の奥がぎゅっとなって、知らず知らずのうちに足が前へ出ていた。
「……ごめんなさい、ケイさん……私、行かないと……!」
「ハナビちゃん、そっちは──」
ケイさんの制止の声が追いかけてくる。だけど、振り返らなかった。
導かれるように、私は廊下を駆け、また建物の外に出た。
そして、導かれるままに天眼家敷地内を走った先にあったのは、荘厳な雰囲気を纏った重厚な扉。その前に、ユカリちゃんとエンラくんの姿があった。
二人は扉を背に、まるで“それ”を押し留めるように、静かに立ちはだかっていた。
空気が異様に重たい。ドアの向こうから伝わってくるのは、荒れ狂うようなマナのうねり。触れたら焼かれるような、でもどこか痛ましい……そんな気配が、肌にじりじりと迫ってくる。
「ユカリちゃん、エンラくん……!」
私が息を切らせて駆け寄ると、ユカリちゃんが驚いたように振り返った。
「ええ!? ハナビちゃん!? なんでここに!? っていうか、よくこの距離まで近づけたね……」
その声には驚きと、少しの安堵が混じっていた。
エンラくんは小さく目を細め、扉の奥へと意識を向けながらも言葉を返す。
「……感じ取ってしまったんだね。タイヨウくんのマナを」
「……タイヨウくんは、ここに?」
「そう。彼は今、霊環室で戦うための力をアオガネさんから受け継いでいるんだ。でも、あまりにも強くなりすぎたマナが制御できなくて……暴走しかけてるんだ。僕たちはそのマナを外に漏らさないよう、ここで抑えてる」
私は、その扉の向こうから漂ってくる気配に、息を呑んだ。
確かに、感じる。苦しさ。痛み。……そして、その奥にある、どうしようもなく深い悲しみ。
……タイヨウくん、泣いてるの?
理由なんてわからない。ただ、その感情だけが胸に響いた。
あの優しい声も、明るい笑顔も……今はそこになくて。代わりに聞こえてくるのは、ひたすらに悲しく、痛々しい気配だった。
「……私、行かないと」
自然と足が前に出ていた。胸の奥がじんと熱くなる。
はっきりとした理由なんてない。ただ、なんとなく、呼ばれている気がした。
もし、タイヨウくんが私に助けを求めてくれているのなら──その思いに応えたい。
今度こそ、守りたい。今度こそ、その隣で支えになりたい。
「タイヨウくんが、苦しんでる……このまま、何もできないなんて、……っ、いや」
扉に近づこうとする私に、エンラくんが鋭く声を上げる。
「だめだ、ハナビさん! 近づいちゃ──!」
その横で、ユカリちゃんが手をかざして制した。
「エンラ、ちょっと待って」
ユカリちゃんの声が空気を切った。その目は、扉の向こうではなく、真っ直ぐに私を見つめていた。まるで、何かを確かめるかのように。
「今……タイヨウくんが悲しんでるって、そう言った?」
「う、うん……」
戸惑いながらも頷くと、ユカリちゃんはふっと目線を落とし、しばらく考え込むように黙り込んだ。そして顔を上げたとき、瞳には確かな決意が宿っていた。
「ハナビちゃん、この扉に触れてみてくれる?」
「扉に……?」
「ユカリ様!?」
エンラくんが驚いたように声を上げた。明らかに制止の意図を込めた声。けれど、ユカリちゃんは気にする様子もなく、軽く片手を上げて言葉を続ける。
「この暴走、単なるマナの暴走じゃなくて……精神的な負荷が原因かもしれないんだよねぇ」
「……!」
エンラくんは何かを察したように黙り込み、視線を扉に移す。そして、やがて静かに頷いた。
「それなら……試してみる価値は、ありますね」
「でしょぉ〜?」
ユカリちゃんはいつもの調子で笑いながら、私の方を振り返った。その表情は明るいのに、どこか真剣だった。
「中に入れるのは無理だけどねぇ。でも、君の意識を通して、タイヨウくんと繋げることならできるかもしれない」
「つ、繋げるって……精神を……どうやって?」
「細かいことはいいのいいのぉ〜」
ユカリちゃんが冗談っぽく手をひらひらさせながらも、目は笑っていなかった。
「助けたいんでしょ? タイヨウくんのこと」
その一言に、胸がきゅっと熱くなる。私はすぐに頷いた。
分からないことばかり。でも、それでもいい。タイヨウくんの力になりたい。その気持ちだけは、ずっと、確かにあった。
「この扉に……触れればいいの?」
「うん、それでOKぇ〜。じゃあ、そのまま目を閉じて、肩の力を抜いて?」
私はそっと目を閉じる。ユカリちゃんの声が少し遠くなる。足元がふわりと浮くような感覚がして、意識が静かに沈んでいった。
やがて、思考も、重力も、ぜんぶ手放すようにして、私はゆっくりと──タイヨウくんの心の奥へと、手を伸ばしていった。