ph155 無意識下にあった本音
「今日の訓練はお互いのデッキ調整だよ! 終わり次第さっさと解散しな!」
朝、訓練場に集まった私たちに、アカガネ教官の低く冷静な声が響く。
電子画面越しに伝えられるその言葉には、無駄のない簡潔さがありながら、どこか戦いを目前に控えた緊張感が漂っていた。
「やれることはやった。明日は休息日だよ。明後日の作戦に向けて、万全に備えるんだね!以上!」
放送が途切れた瞬間、訓練室に静寂が広がった。
私と渡守くんしかいないこの空間に響くのは、機械の微かな動作音だけ。
私は隣に立つ渡守くんの方へそっと視線を向ける。
「渡守くん」
小さく呼び掛けると、彼はわずかに眉をひそめ、不機嫌そうにこちらを向いた。
「……あ?」
「調整、始めましょう」
短く言葉を添えると、渡守くんは小さくため息をつきながら、タッグ用のデッキを無言で取り出した。
「これで、大丈夫そうですね」
私はデッキの最終調整が終わると、すぐにカードをケースの中に戻して立ち上がった。すると、目の前に座っている渡守くんの低い声が、耳に届く。
「……どこに行く?」
問いかける声には、どこか苛立ちが含まれているように感じた。
私は彼が不機嫌になっている理由が分からず、一瞬躊躇したが、正直に答えることにした。
「アオガネさんのところです。渡守くんも知っているでしょう? 私、総帥にマナの循環を頼まれてるんですよ」
「循環ねェ……」
眉間に皺を寄せる渡守くんの言葉には、鋭い棘があった。
「なにか問題でも?」
「今のテメェじゃ、あの野郎を起こすのは無理だろォよ」
彼の無神経な言葉に、私の胸の中で微かな怒りが芽生える。
それでも冷静になれと、渡守くんの軽口はいつもの事だろうと言い聞かせ、彼の目を真っ直ぐに見つめながら口を開いた。
「……勝手に決めつけないでください。やってみなくちゃ分からないでしょう」
「ハッ、ンな死にそォな面して何が出来るってんだ?」
「少なくとも、君よりは上手くマナを扱えます」
その一言に、渡守くんの表情がかすかに動いたように見えた。けれど、それも束の間のことで、彼はすぐに不敵な笑みを浮かべ直す。
「循環も片手間で十分ってかァ? 流石マナコントロールの天才様だ! 天狗になりすぎて、ご自身を客観的に見れねェらしい! これじゃァ作戦に間に合うどころか、一生無理なんじゃねェのか? ヒャハハッ! できもしねェことに必死こいて、バカみてェ!」
彼の声には、ただの皮肉以上のものがあった。どこか痛烈な怒りと嘲笑が入り混じり、私の胸をかき乱す。呼吸が浅くなるのを感じながらも、私は思わず声を荒げてしまった。
「いい加減にしてください!!」
渡守くんの言葉に、胸の中で怒りが燃え上がるのを感じた。
普段なら彼の挑発を流す余裕もあるはずだったが、今回はどうしても耐えられなかった。
「君の軽口に付き合ってる暇はないんです……こうしてる間にも、先輩は……」
言葉に詰まりそうになる。
渡守くんに何を言ったところで、響かないことは分かっていた。それでも、何も言わずにいるわけにはいかなかった。
「私は、早く先輩を見つけたいんです。先輩のマナを浄化するんです。その為にもやらなくちゃいけない。こんなところで、つまづいていられないんですよ」
「だったらその気色悪ィ目、やめろや」
渡守くんの低く鋭い声が突き刺さる。その言葉には、いつもの苛立ちや挑発とは違う、どこか引っかかるものが混じっていたように感じた。
「…………何の話ですか?」
私は彼の真意を測りかねながら問い返す。けれど、彼はじっと私を見据えたまま、一瞬たりとも目を逸らさない。
「……テメェは、何処を見てんだよ」
何処を見ている、だって?
唐突な問いに、思わず戸惑う。意味を掴めないまま、眉間に皺が寄るのを自覚した。
「質問の意図が分かりません」
そう答えた声は、ほんの少しだけ硬さを帯びていた。
「ンなら、テメェにも分かりやすく言ってやるよ」
彼は一歩前に踏み出す。
「俺ァ誰だ?」
「…………は? 渡守くんでしょう? 何を言ってるんですか?」
戸惑いながら返す私の言葉に、彼は鼻で笑う。
「そォだ。俺は渡守だ。渡守センだ!!」
その声には、ただ名前を告げるだけでは終わらない、何かを突きつけるような力が込められていた。そして、間髪入れずに続く言葉が空気を切り裂く。
「イカれ坊っちゃんじゃねェんだよ」
「なに、言って……」
「テメェのゴッコ遊びに付き合うのはウンザリだっつってんだよ!!」
ガツン、と頭が殴られたようだった。
気づかされたくない何かを抉られるようで、私は彼の視線から思わず目を逸らした。だが、逃げたつもりでも、彼の声がなおも追いかけてくる。
「誰かの変わりなんざ、死んでもごめんだ」
その一言に、私の心が強く揺れた。まるで自分の内心を見透かされているような、そんな錯覚に陥る。そして、否応なく気づかされる事実が、胸を締めつける。
「ちゃんと、俺を見ろや……バカ女」
「……っ!?」
彼の鋭い言葉が胸に突き刺さり、思考を締め付ける。その言葉の裏に隠された真実を、否応なく理解させられる。
──私は、知らず知らずのうちに、渡守くんと先輩を重ねていたんだ。
その事実に、血の気が引いていく。
意識していなかったはずなのに、渡守くんの何気ない言葉や仕草に、先輩の面影を探していた。
支えを失った心の隙間を埋めようとするように、彼に先輩を重ね、無意識のうちに安心感を求めていたのだ。
そのことに気づいてしまった瞬間、襲いくる罪悪感。
私がしていることは、渡守くんにも、先輩にも失礼極まりない。なのに気づきもしないまま、自分の感情を押し付けていた。
「わ、たしは……」
か細い声が震える。気づけば渡守くんとの距離はいつの間にか縮まり、手を伸ばせば届きそうなほど近くに彼が立っていた。
「…………弱ェ癖に、無駄に見栄を張るからそォなんだよ」
「そんな……でも、私はっ!! ──ごふっ!」
感情のまま言い返そうと口を開いた途端、突然口の中にとてつもなく不味い液体が流れ込んできた。
反射的に抵抗しようとしたものの、渡守くんに頭を押さえつけられ、逃げ場を失う。
苦い、そして鼻につく独特の匂い……これは、忘れるはずもない回復薬の味だ。
「ほォら、サチコちゃんのだァいちゅきなお薬ですよォ?」
嘲笑交じりの声が耳元で響く。私は必死に身を捩り、抵抗を試みるが、力の差は歴然だった。
突如として肩を掴まれ、あっという間にバランスを崩される。
「っ……!」
足元をすくわれた私は、そのまま地面に押し倒された。
背中に冷たい硬さを感じ、次の瞬間には渡守くんの手が私の動きを完全に封じ込めていた。
「ヒャハハッ! ぶっさいくな面!」
彼は私を地面に押さえつけたまま、悪意たっぷりに笑う。口の中の苦味を必死に飲み下しながら、私は荒い息を吐いた。
「ゲホッ、ゴホッ……急に何を!!」
「その歳にもなって、薬が不味くて泣くなんざみっともなくて見てらんねェなァ?」
渡守くんの嘲笑混じりの言葉に、胸の奥がさらにモヤモヤとした怒りで満たされる。けれど、息を整えるのが精一杯で言い返す余裕すらない。
そんな私をよそに、彼は乱暴に上着を脱ぐと、それをこちらに投げつけてきた。
「っ!? ちょっと、何するんですか!」
「……見てられねェっつってんだろ」
突然視界が覆われ、何が起きたのか分からないまま、私は上着を取ろうと慌てる。しかし、渡守くんがそれを強く押し付けてきたせいで思うようにいかない。
「渡守くんっ!」
怒りと困惑の混じった声を上げると、彼はあっさりと押し付ける力を緩めた。その隙に私は服の隙間から彼の様子を伺う。
視界に入ったのは、力を抜いたまま地面に横たわる渡守くんの姿だった。
「俺ァ寝る。1時間経ったら起こせや」
渡守くんはそれだけ言うと、すぐに目を閉じた。
特に深く考えている様子もなく、まるで何事もなかったかのような自然な態度に、私は肩の力が抜けていく。
「…………本当に、酷い人ですね」
小さく呟くと、目頭がじわりと熱くなった。渡守くんの上着をぎゅっと握りしめる。
「この薬、苦手なこと知ってる癖に……」
ぽたりと一滴、涙が頬を伝い落ちる。
それを誤魔化すように、彼の上着を目深に被った。
気づきたくなかった事実が、彼の言葉で突きつけられた。
自分はちゃんとやれると思っていた。けれど、違った。
先輩がいなくなり、自分がどれほど彼に依存していたのか、全然分かっていなかった。
ずっと守ってくれていた先輩。強くて頼りになる先輩。精霊界まで付いてきてくれた先輩。
先輩がいるだけで、何も怖くなかった。どんな困難が待ち受けていても、先輩がいれば絶対に助けてくれると信じられた。
味方でいてくれる、側にいてくれる──その存在が私を支えてくれていた。だからこそ、立ち向かう勇気を持てた。
けれど、先輩はもういない。どれだけ探しても姿は見えず、マナの気配すら感じられない。
自分が先輩に頼っているという自覚はあったが、ここまでとは思わなかった。
怖かった。不安だった。
当たり前のようにあった存在が突然消えて、苦しくて、辛くて、押し潰されそうだった。
その喪失感に耐えきれず、無意識のうちに代わりを探していた。
同じ黒いマナを持ち、先輩と同じように目付きもガラも口も悪い渡守くん。そんな彼を先輩と重ねて、心の隙間を埋めようとしていたのだ。
本当に、最低な事をしてしまった。誰だって、身代わりにされたらいい気はしない。私だってしない。先輩にだって失礼だった。
「……っ」
ごめん。ごめんなさい、渡守くん。私が弱いせいで、私の我が儘に付き合わせてしまって、本当にごめんなさい。
「……ごめん、渡守くん」
彼の上着から微かに伝わる体温に、彼なりの優しさを感じる。それが余計に胸を締めつけ、涙腺を刺激した。
自分がこんなにも脆いなんて思わなかった。先輩がいないだけで、ここまで弱くなるなんて想像もしていなかった。
気づけば、涙が次から次へと溢れ出し、止まらない。
一度感情を認めると、心が少しだけ軽くなった気がした。今まで無理に抑え込んでいたものを、すべて吐き出してしまおう。
そう決めた私は、渡守くんの厚意に甘えて思い切り泣いた。
薬の不味さにかこつけて声を上げ、胸の奥に溜まっていた痛みを流すように、涙をこぼし続けた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔なんてどうでもいい。みっともないなんて気にしていられない。
ただ、胸を締め付ける感情をすべて外に出すことで、少しでも前に進める気がした。
どれほどの時間が経ったのかは分からない。ただ、涙でぐしゃぐしゃになった今の自分の顔が、ひどい有様であることだけは容易に想像できた。
けれど、不思議と心は軽くなり、頭の中は驚くほどクリアだった。
「……渡守くん、ありがとうございます」
彼からの返事はない。でも、それでよかった。言葉がなくても、十分に伝わるものがあった。
「私、決めました」
胸の奥に渦巻いていた負の感情は跡形もなく消え去り、溜め込むことの無意味さを痛感した。
こんなに楽になるなら、たまには思い切り泣くのも悪くない。そう思えるほど、心が軽くなっていた。
「アオガネさんが目覚めて、無事に先輩を見つけることができたら……」
ウジウジするなんて、私らしくなかった。
そもそもだ、勝手に告白してきて勝手に消えるって何? なめてんの? 惚れさせるとか言っといて、自分は勝手な行動でアフリマンになるとかふざけてるとしか言えない。
もう、義理とかそんなのは関係なかった。
大気のマナ? 先祖返り? ネオアース?
知らねぇよ。先に勝手な事をしたのは先輩だ。だったら、私も勝手にさせてもらう。使えるもの使って、やりたいことをやらせてもらう。
「取り敢えず、一発殴ります」
勝負にも惚れてなんかやらない。あんな奴に誰が惚れるものか。
「人のこと散々振り回しといて……言い逃げなんかさせません」
そうだ。唇にはされなかったが、勝手にキスしやがって……好きという感情が、セクハラの免罪符になると思ったら大間違いなんだよ。
「きっちり振ってやりますよ」
理不尽なんてどうでもいい。先輩が惚れた女がどんな女か、思い知らせてやる。
そう決めた途端、胸の奥にあった重たいものがすっと消えていく。
不安定だった足場がしっかりと固まり、地に足がつく感覚を覚えた。
「……上着、洗って返しますね」
渡守くんは背中を向けたまま、何も言わない。
その態度がまるで、「好きにしろ」と背中越しに伝えているようにも思えた。
約束の1時間なんてとっくに過ぎているし、寝たふりをしていることにも気づいていた。でも、それをわざわざ指摘しないのが、彼なりの優しさへの礼儀だと思った。
立ち上がっても、今度は止められなかった。それを勝手に了承と捕え、アオガネさんが隔離されている部屋へと向かう。
今の自分なら、何だってやれる気がする。あの厳しいアカガネ教官から「やれることはやった」とお墨付きをもらったんだ。それだけで十分だ。
先輩がアフリマンになっていようが関係ない! 全力で殴って、アフリマンごと浄化してやるよ! ついでに世界も救ってやろうじゃないか!
胸の中で燃え上がる闘志を感じながら、私は力強く一歩を踏み出した。