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ph153 先輩と私と


 朝、食堂で朝食を済ませた後、訓練の準備を整えて訓練室へ向かった。


 訓練室に入ると、いつもなら既にいるはずの渡守くんの姿が見当たらない。


 彼が訓練に遅れるなんて滅多にないことなのに……何かあったのだろうかと眉をひそめる。


 教官に確認ついでに今日の訓練内容を尋ねると、私の午前の訓練はシングルマッチ形式だと言われた。


 タッグではなくシングル? ……もしかしたて、渡守くんは任務や別の訓練に回されているのかもしれない。


 そう思い直し、私は一人で黒いマナのモンスターと対峙する。


 気にはなるが、始まってしまえば目の前の課題に集中するほかない。私はタッグ用に組んでいたデッキを戻し、シングル用のデッキで黙々とマッチをこなした。



 そうして午前の訓練が終わり、午後の訓練が始まっても渡守くんの姿はどこにもなかった。


 午後の訓練はタッグマッチ形式の模擬戦で、タッグの相手がいなければ参加できない。それなのに、渡守くんがいないのは、やはりおかしい。


 意外とこういう場面ではきちんとする奴なのに。どうしたのだろうかと、私は考え込むように首を傾げた。


 やっぱり連絡した方がいいのかなとMD(マッチデバイス)に手を添えるが、ふと、昨日の出来事が頭をよぎった。


 渡守くんとヒョウガくんがくだらない言い争いをして、教官からペナルティを受けていた時の光景だ。その後、二人が延々と走らされているのを見かけたが、それきり姿を見ていない。


 もしかして、それが関係しているのだろうか?


 ……いや、流石にそれはないかと思い直す。


 ヒョウガくんの姿も見えないし、きっと二人は任務でも任されたのだろう。そう思考を切り替えて、訓練に参加する為に渡守くんの変わりに自分とタッグを組んでくれる相手を探した。


 すると、ちょうど一人で立っているアスカちゃんの姿が視界に入った。そして、声を掛けようと一歩踏み出した瞬間、自身のMD(マッチデバイス)が鳴った。


 確認すると、ケイ先生から歪み修復任務の依頼メールが届いていた。


 急ぎの案件とのことで、詳細は後で送るからそのまま現地に向かうよう書かれている。


 私は直ぐに任務地に向かうため、教官に一言告げてからアイギス本部の出入口へと足を進めた。


 誰と一緒に任務をするのかな思いながら、出入り口から外に出る。すると、視界の端に倒れ込んでいるヒョウガくんと渡守くんの姿が目に入り、思わず動きが止まった。


 二人は汗だくで、青ざめた顔に深い隈が刻まれ、まるで生気を失ったかのようだった。その悲惨すぎる姿に、ゾッとしたような感覚が背筋を這い、口角がヒクリと引きつる。


 え? ……もしやこの二人、昨日の昼からずっと走らされてたの!?


 いやいや、そんなまさか……さすがの教官もそこまで鬼じゃないでしょ!? と半ば信じたくはないが、二人の様子を見ていると、否定しきれない可能性が頭をよぎる。


 ペナルティの恐ろしさに戦慄し、教官を絶対に怒らせないようにしようと、心の中で固く誓う。


 「触らぬ神に祟りなし」とはこのことだろう。ちらりと二人に視線を向けたものの、それ以上関わる気にはなれず、足早にその場を離れた。


 無事に素通りできたことにほっと胸を撫で下ろしつつ、再度、今日の任務を組む相手について考える。


 今までの任務では、常に誰かと一緒に行動していた。最近では渡守くんが多かったけれど、今日の彼を連れて行くのは流石に無理だろう。


 そうなると、今回は一人なのだろうか? ケイ先生からも、誰かと組むような指示は特に出されていなかったし、単独任務の可能性が高い。


 急に一人だと言われると少し心細い気もした。でも、ケイ先生が無茶な任務を押し付けるはずもないし、まぁ何とかなるだろうと楽観的に捉え、目的地へと向かった。










 私は歪みが現れた場所──花園都市公園に足を踏み入れる。


 ネオ東京の中でも自然豊かな場所として知られるここは、都会の喧騒を忘れるにはうってつけだ。


 広々とした芝生の広場に、整然と並ぶ木々や花壇。そして小川のせせらぎが、どこか懐かしい気持ちにさせる。


 普段なら、遊歩道沿いには作業中のスタッフたちの姿があるはずだが、今は人影がほとんど見当たらない。


 木々や広場の至るところに設置されたライトや飾りがそのまま放置され、未完成のままのイルミネーションが異様な静けさを強調している。


 どうやら歪みの影響で、スタッフたちは安全確保のために避難させられたらしい。


 高所作業車や道具箱があちこちに残されているのが、その場を去るときの慌ただしさを物語っていた。


 小川沿いの遊歩道を歩きながら周囲を観察する。緑が茂った木々の間を風が抜け、鳥のさえずりが聞こえる一方で、普段なら聞こえるはずの作業員の声や機材の音はない。


 むしろ、あまりに静かすぎて、逆に不気味さを感じる。


 それでも、この風景を見ていると、任務でなければここで一日をのんびり過ごすのも悪くないかもしれない、なんて思ってしまう。


 最近は訓練漬けの日々だったし、少しくらい休んだってバチは当たらないんじゃないか、と甘い誘惑に揺れそうになる。


 けれど、歪みは待ってくれない。クリスマスの準備を再開するには、この歪みを早急にどうにかする必要がある。県からの依頼ということもあり、時間的な猶予もなかった。


 歪みの場所へ向かうため、緩みそうになる気を引き締めつつ、周囲に蔓延る精霊たちを注意深く観察してマナの気配を探る。その時だった。


 「サチコ!」とよく知る声が私を呼んだ。同時に、精霊たちが散り散りに飛び去る。


 耳慣れたその声に振り返ると、案の定、声の主は先輩だった。先輩は満面の笑みを浮かべながら、こちらに駆け寄ってくる。


「偶然だな!」

「……なんでいるんですか、先輩」


 最近の先輩は任務で本部を離れることが多く、電話でのやり取りはあったが、直接会うのは久しぶりだった。


 突然の登場に、戸惑いを隠せない。


「もしかして、今回の任務は先輩とのペアなんですか?」

「あぁ! そうな──」


 先輩が笑顔のまま頷きかけた瞬間、MD(マッチデバイス)の着信音が鳴り響く。


 先輩はちらりと画面を確認すると、無言で着信を切り、何事もなかったかのように話を続ける。しかし、また着信音が鳴り、先ほどと同じように無言で切る。


「……あの、出た方がいいんじゃないですか? 何か重要な連絡かもしれませんよ?」

「いや、ただの確認の電話だ。問題ねぇよ」


 本当に問題がないなら、そんなに何度もかけてくるだろうか。


 そんな疑念を込めた目で先輩を見ると、先輩は「少し待ってろ」とだけ言い残して離れていった。


 そして、遠くで何やら短い通話を終えると、再び満面の笑みを浮かべて戻ってくる。


「待たせたな! 行こうぜ!」


 先輩は私の手を握りながら、「歪みはどっちだ?」と尋ねてきた。


 色々と言いたいことはあるが、わざわざ突っ込むよりも、任務を終わらせたほうが早いだろう。


 私は飲み込んだ言葉を胸に押し込み、「あっちです」と前方を指差した。


 すると、先輩は手を繋いだまま歩き出す。自然と私の足も動き、そのまま歪みの場所へと向かうことになった。








「サチコ、大丈夫か? 何か手伝うことはねぇか?」

「……大丈夫です。もう終わります」


 先輩の声に応えながら、私は歪みの修復作業に集中する。目の前で私の様子を伺うように覗き込んでくる先輩に、改めて彼の圧倒的な強さを実感せずにはいられなかった。


 任務は先輩に言われるがまま共にしたけれど、あまりのスピード解決に驚きを隠せなかった。


 精霊は私の視界に入る前に消え去り、歪みを守っていたレベル3の精霊も、先輩が一瞬で片付けてしまったのだ。


 今までも先輩に守られていたことは自覚していた。でも、こうして自分の実力が少しは上がった今だからこそ、教官の訓練を受ける前の自分が、どれほど先輩に頼りきっていたのか痛感してしまう。


 そりゃ精霊界に行くのも心配するよね! 私の身体能力平均以下だったもの!


 任務で初めてタイヨウくん達と精霊界に行くことになった時の事を思い出し、無性に恥ずかしくなる。


 何が「足手まといにならない程度に立ち回れます」だ。先輩がいたから何とかなってただけじゃん。イキりすぎだろ自分。しかも、結局タイヨウくんたちにフォローされてたし……。


 自身の黒歴史に顔が熱くなりながらも、私は歪みの修復を終えた。


 精霊界との繋がりが完全に遮断され、周囲に静けさが戻る。七大魔王(ヴェンディダード)との戦いまで、もう二週間を切っている。この貴重な時間を無駄にするわけにはいかない。そう思いながら、私は先輩に向き直った。


「終わりました」


 本部に戻りましょうと声をかけると、先輩の顔に微妙な変化があらわれる。ほんの一瞬、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたのが見えた。


「どうしたんですか?」

「……もう、帰るのか?」


 その言葉には、名残惜しさが滲んでいた。眉尻を下げて、どことなく寂しそうだった。


「えっと……任務は終わりましたし、本部に戻って報告しないと」

「……帰りたくねぇ」


 先輩は視線をそらしながら、ぽつりと「まだ一緒にいてぇ」と呟いた。


「一緒にいたいって……帰る場所同じじゃないですか」

「帰ったらサチコと離されんだろ!」


 そう言いながら、先輩は私に抱きついてきた。あまりの勢いに驚きつつ、私は慌ててその顔を押し返す。


「近いです!」

「じゃあ、せめてあと2じ……いや、数分だけ! ほんのちょっとでいいんだよ!」


 帰りたくないと必死の抵抗を見せる先輩に対し、私も全力で押し戻すが、抱きつかれたまま一歩も動けない。彼の頑固さに、さすがの私も根負けしそうになる。


 ええい! お前は帰宅拒否する犬か!!


 心の中でそう叫びながらも「帰りますよ!」「嫌だ!」の押し問答を繰り返し、結局は、私が折れる羽目になって終わった。


 「長居はしませんからね」とため息交じりに告げると、先輩は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、妙な敗北感を覚えた。


 スタッフの人たちに「安全が確認されました」と報告を終えると、彼らは慌ただしく作業を再開した。


 その様子を眺めていると、不意に先輩に腕を掴まれる。驚く間もなく、そのまま強引に引っ張られる腕。


「ちょっ、そんなに急がなくても……!」


 言いかけた言葉も空しく、先輩は振り返ることなく「早く行こうぜ!」とだけ言い残して、前を見据えたまま歩き続ける。その足取りには迷いがなく、背中にはどこか楽しそうな雰囲気が漂っていた。


 冬の冷たい空気が頬を撫でる中、先輩の背中を追いかけるしかない私は、次に何があるのかもわからないまま歩みを進めた。







 先輩は振り返ることもなく、ただ「いい場所がある」とだけ言い残して、どんどん前へ進んでいく。


 私も先輩に手を引かれるまま、花園都市公園の奥へと進んだ。


 しばらく歩いたところで、先輩が足を止めた。


 目の前に広がるのは、イルミネーションの飾り付けが進められているエリア。スタッフたちが脚立に登り、カラフルな装飾を次々と取り付けている。


 作業中の飾りが点在するその風景は、どこか不完全ながらも期待感を抱かせるものだった。


「どうだ? ここから見るのが一番いいらしいんだ」  


 先輩が満足そうに言いながら、そっと私の肩を押してベンチに座らせる。飾り付けを眺めながら、私は思わずつぶやいた。


「まだ未完成ですが、……わくわくしますね」


 装飾の合間から見える冬空の下、キラキラと光り始める準備をしている飾りたち。それを見つめる先輩の横顔はどこか誇らしげだった。


「……なぁ、サチコ」

「なんですか?」

「今から、……お前が困ること言ってもいいか?」


 唐突な言葉に、思わず先輩の顔をじっと見る。その瞳にはいつもの余裕は微塵もなく、ただ真剣さだけが宿っていた。


「……そんなの、いつもの事じゃないですか。どうぞ、好きに言ってください」


 わざと呆れたように返すと、先輩は「そっか」と小さく呟きながら、私の隣に腰を下ろした。そして視線を逸らし、少し息を整えると、私をまっすぐ見つめた。


「サチコ、俺な……」

「はい」

「俺さ、……お前が好きだ」

「はい、…………はい?」



 その瞬間、頭が真っ白になった。


 唐突な告白に、思考が完全に停止する。


 てっきりネオアースに関する話だと思っていたのに、まさかこんな言葉が飛び出してくるなんて……予想外すぎる。


 不意打ちの一言に、胸のざわつき、心を侵食していく。


 わけがわからない。いや、本当はわかっている。先輩の気持ちには、ずっと前から気づいていた。


 でも、はっきりと言葉にされていないからと、その現実から目を背けていた。それが受け止める勇気のない自分にとって、都合のいい逃げ道だったから。


 だけど、こうして正面からぶつけられたら……もう、誤魔化すことはできない。


 どうしたらいいのか、わからない。


 任務のため、黒いマナを押さえ込むため……先輩の好意を利用してきた場面が次々と頭をよぎる。


 その重苦しさに、じわじわと胸が押し潰されていく。戸惑いと恐怖に飲み込まれ、言葉が出てこなかった。


「ちゃんと、そういう意味での好きだ」

「そ、れは…………」


 返事をしようにも、言葉が見つからない。どんな風に応えたらいいのか、まるでわからない。


 利用して嫌われる覚悟はしていたのに、先輩の真っ直ぐな瞳が怖い。そこに込められた感情の強さが、私を一歩も動けなくしている。


「わたし、は……」


 何を言えばいいのか。何が正解なのか。その答えを見つけられないまま、私はただ先輩を見つめ返すことしかできなかった。


「返事はいらねぇよ……分かってるから……」

「…………」


 先輩は余裕を装うように、笑う。その笑顔の裏にあるものを悟り、胸がきゅっと締め付けられる。


「でも、諦めた訳じゃねぇ」


 ……本当に、君ってやつは……。


「惚れたが負けって言葉があんだろ? ……負けっぱなしは俺のプライドが許さねぇ」


 常に私の事を、一番に考えてくれている。


「だから、覚悟しろよ……いつか絶対ぇお前を惚れさせる(負けさせる)


 先輩の言葉が、私を気負わせないために選ばれたものであることは、痛いほどわかっていた。それなのに、何も返せない自分がもどかしい。


「俺の諦めの悪さは、お前が一番知ってんだろ?」

「……そうですね」


 やっと絞り出した声は、思った以上に弱々しかった。それでも先輩はそんなこと気にする様子もなく、満足そうに笑っている。


 その笑顔は、ほんの少しだけ胸の重さを和らげてくれた。私もつられるように、口元がわずかに緩む。


 思い出すのは、初めて先輩とマッチしたあの日のこと。


 大会の決勝で、先輩とマッチした最初の一戦。それからというもの、勝つまで毎日のようにマッチを挑まれた。


 執念深さでは、本当にこの人の右に出る者はいない。


「先輩、執念深いですもんね」

「あぁ!」

「褒めてません」


 軽口を交わすたびに、先輩の変わらない調子に少しだけ肩の力が抜ける。


 この人と話していると、どんなに緊張していても、心が軽くなっていく。不思議と重たい空気も、どこかへ飛んでいってしまう。


 そんなことを考えていた矢先、ふと先輩の動きが止まった。


「サチコ」


 不意に名前を呼ばれ、顔を上げる。


 その瞬間、先輩の手が私の頬に触れた。


 驚く間もなく、顎を持ち上げられ、近づいてくる先輩の顔。


「ちょっと待て」

「ふぐっ」


 慌てて右手で先輩の口を押さえた。


 まさかこんな展開になるとは思っておらず、私の頭の中は一瞬で混乱状態に陥る。


 先輩は口を押さえられたまま、心底不思議そうな顔をしている。


 いや、キョトンじゃねぇよ。


「…………ダメなのか?」

「むしろ何でいけると思ったんですか」


 間髪入れずに「ダメです」とバッサリ切り捨てると、先輩は悔しそうに「チクショウ!」と叫んだ。


 その顔が本気なのか冗談なのか……いや、わりとガチな顔してんな。


「何でだよ! サチコだってダメつっても俺に抱きついてきたじゃねぇか! 俺が! 今まで! どんだけ我慢したと!!」

「それはそれ、これはこれです。というか、付き合ってもないのに口はダメですよ」

「口()!? 口()ダメなのか!? じゃあどこだったらいい!? つむじか!? 瞼か!? 鼻は!?」

「あぁもう! うるさい! どんだけ必死なんですか!!」

「惚れた女にキスするチャンスだぞ!? そりゃ必死にもなんだろ!! むしろ今まで手を出さなかったのを褒めて欲しい! 俺はサチコとキスしてぇ! 出来る事ならマウストゥーマウスしてぇんだよ!!」

「ええい! 開き直るな!!」


 というか、キスするチャンスって何だ! そんなチャンス何処にあった!?


 私は内心で全力でツッコむが、先輩の勢いに圧倒されて、反論する暇すらない。


「じゃあ何処までなら許してくれる!? デートは!? 手を繋ぐのは!?」

「それ、くらいなら……まぁ……」

「抱きつくのはアリか!? プレゼントしてもいいか!?」

「……高価な物でなければ……」


 先輩の矢継ぎ早の質問に、私は気づけば条件反射的に返事をしてしまっている。完全にペースを持っていかれていた。


「俺の料理は旨いか!? 嫌じゃないか!? 無理して食ってねぇか!?」

「いえ、そんなことは……いつも美味しく頂いてます」

「じゃあ俺の見た目は好みか!? 格好いいか!? 結婚してぇか!?」

「まぁ…………」


 ……あれ? 今なんか変な質問なかったか?


 私が頭の中で引っかかりを感じている間に、先輩は突然両手を挙げて叫んだ。


「しゃああ! 脈ありぃいい!!」

「意義ありです! 今のは誘導尋問です! 無効です!!」


 私が全力で突っ込みを入れると、先輩は少しも気にする様子なく、どこか満足げな笑みを浮かべた。


 その顔が何かを企んでいるときの顔だと気づいた瞬間、嫌な予感が背筋を駆け上がる。


「でも、ある程度のスキンシップを許してくれるぐれぇには、好感はあるんだよな?」

「それ、は……その……」


 口ごもる私の反応を見て、先輩はぐっと身を乗り出してくる。


 なんだ、この押しの強さ。いつもの軽口とは違う熱を感じて、視線を逸らしてしまう。


「今はそれで十分だ。……俺がどんだけお前が好きか伝われば、それでいい」


 その言葉には、いつもの調子とは違う真剣さが混じっていて、どう返していいのかわからない。


 なんだこの状況は! 私の恋愛偏差値は底辺だと言ってるだろう!


 こんな、その……真正面から攻められたら、その……困るでしょうが! これ、どう対処したらいいんだ!? 交わし方分かんねぇよ!! 助けて、恋愛強者の人!!


「お前が俺のためを思って抱きついてくれたのは分かってっけど、俺も我慢の限界なんだよ。だから今後は……」


 先輩の口許が耳元に寄せられる。吐息がかかり、ビタリと体が固まる。


「キスしていいなら抱かれてやるよ」


 そして、耳元で囁かれた言葉に、思考が完全に停止した。


「…………は、? そんっ!」


 まともに言葉が出てこない私を見て、先輩は得意げに笑った。


「ははっ! すっげぇ真っ赤……かわいい」


 顔の熱が一気に上がるのが自分でもわかる。


 いや、そうじゃない。かわいいじゃない! かわいいじゃなくて!


「……キスしていいか?」

「ダメです!!」


 もはや、反射的に叫んでいた。


 思考がいっぱいいっぱいで、とにかく顔の前でバッテンを作るように腕を交差させ、先輩を押し返した。


 先輩はわざとらしく少しバランスを崩しつつも、笑みを崩さない。むしろ、私の必死さが面白いのか、ますます楽しそうに見える。


「あー、サチコかわいい……好き、結婚してぇ」

「だから! 止めてくださいってば! 軽々しくそんな事言わないで下さい!!」

「全然軽くねぇよ、俺は本気だ」

「余計に困ります!!」


 また始まる押し問答。


 押せ押せな先輩をどうやったら乗りきれるか思案していると、ふと、試験点灯のイルミネーションが静かに消えた。


 スタッフたちが片付けを始める光景を、先輩と並んでぼんやりと眺める。キラキラしていた空間が現実の冷たい空気に戻る瞬間が、少しだけ寂しかった。


「……時間だな、行こうぜ」


 先輩が短く告げると、私もその後を追うように足を動かす。


 歩き出してしばらくして、先輩がスッと手を伸ばし、私の手を軽く握った。


 驚いて顔を上げると、先輩は特に気にする様子もなく、いつも通りの調子で前を向いている。私も何も言わず、その手をそのままにしておいた。


 無言のまま手を繋いで歩くうちに夜の帳が深まり、冬の冷たい空気が肌を刺した。


 吐く息が白くかすむのを見ながら、繋がれた手の温もりが冷たい空気を忘れさせてくれるようだった。


 そうして歩き続けるうちに、遠くにアイギス本部の建物が見えてきた。


 先輩の足が止まる。私も合わせるように、慌てて立ち止まった。


「ここまでだな」

「えっ?」


 先輩はポケットに手を突っ込み、名残惜しそうに視線を逸らしていた。その横顔は妙に静かで、大人びて見える。


「俺、別の任務があんだよ。だから、こっからは一人で行ってくれ」

「あ、はい……わかりました」


 予想していなかった別れの言葉に、どう反応していいのかわからず、短く返事をするしかなかった。


 握られていた手がそっと離れていき、空気に触れた自分の手が少しだけ冷たく感じる。その冷たさが、なぜか胸の奥にも広がるような気がして、私は思わず手を握りしめた。


 ふと、先輩が一瞬だけ私の後ろの方へ視線を向けたように見えた。けれど、その理由を考える間もなく、突然先輩の顔が近づいてきた。


「……先輩?」


 呼びかけると同時に、軽く、けれど間違いなく私の口元に触れる感触。


 息が止まった。


 何が起きたのかわからないまま、視界に映ったのは先輩の満足げな笑みだった。


「愛してんぜ」


 そう言い残し、先輩は振り返ることなく去っていった。


 言葉が出ないまま、その背中を見つめ続ける。気がつけば、先輩の姿は完全に視界から消えていた。


 残された私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 冷たい夜風が頬を撫でるたび、口元に感じた温もりが蘇る。それが現実だったのか夢だったのか、はっきりしないまま、どうしていいかわからない感情だけが胸に渦巻いていた。




 ようやく足を動かし、呆然としたままアイギス本部へ戻ると、出入り口で渡守くんが待っていた。


 きっと、いつもの大気のマナの訓練に付き合ってくれるためなのだろう。そんな日常の光景に、少しだけ心がほっとする。


 私は渡守くんに軽く頭を下げてお礼を言い、総帥に報告があることを告げて執務室へと向かった。




 総帥への報告を終えた後、渡守くんと合流し、いつものように大気のマナの訓練を始めた。


 けれど、訓練中の渡守くんはどこか苛立った様子だった。教官から受けたペナルティの影響なのだろうか。始終不機嫌そうな渡守くんに少し申し訳ない気持ちを抱きつつも、私はどうしても集中できなかった。


 頭の中を占めているのは先輩のこと。


 あの告白をどう受け止めればいいのだろう。次に会ったとき、私はどんな顔をすればいいのか。


 訓練に付き合ってくれている渡守くんには申し訳ないが、全く手につかない状態だった。


 けれど、この悩みが解決する日は思った以上に早くやってきた。そして、それは私が想像もしていなかった、最悪の形でだった。




 先輩の告白以来、先輩が本部に戻ってくることはなかった。


 何やら別の任務をこなしているようだという話だけが伝えられ、電話に出る余裕もないのか、姿を見せない日々が続いていた。




 そして、その数日後、総帥の口から告げられたのは──先輩がいなくなった、という衝撃的な事実だった。





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