ph149 ヒョウガくんとお見舞い
今日は明け方から歪み修復の任務が入り、渡守くんと二人で現地へ向かうことになった。
タッグマッチの訓練を始めてから、プライベート以外の時間はほとんど彼と一緒に行動している。そのおかげで、以前より意思疎通がだいぶスムーズになったように思う。
今回の修復任務は、幸いなことに特異なアクシデントもなく、順調に終わった。
渡守くんも、いつも通り淡々と作業を進め、こちらも無駄なく対応できたので、任務自体はあっけないほど手際よく片付いた。
むしろ、移動時間の方が長く、暇を持て余しながらそのまま二人でアイギス本部へ戻った。
本部に着き、総帥への報告を終えてから時計を確認すると、もう訓練の時間も過ぎていることに気づく。
「渡守くん、今日は──」
「寝る」
渡守くんは返事もそっけなく、あくびをしながらこちらに見向きもせずに自室へと向かっていく。その背中を見送る私に、なんとも言えないモヤモヤが残った。
……気のせいかもしれないが、最近、渡守くんに避けられているような気がする。
いや、大気のマナの訓練にはまだ付き合ってくれているし、会話が全くなくなったわけじゃない。任務の移動間でも少しだけ会話はした。
でもなんとなく、以前より距離を置かれているような気がした。
前はもっとあからさまに絡んできていたのに、それがめっきり減ったのだ。
しかも、急に不機嫌になることが増えてきて、話しかけても「テメェにゃ関係ねェ」とか言ってすぐ黙り込む。
何が気に触ったのかが分からず、どう対応したらいいのか正直困っている。
マナの浄化にはお互いの信頼関係が必要不可欠だ……このままじゃ、渡守くんのマナを浄化するのに支障が出るかもしれない。
ただでさえ、アレスのせいで渡守くんのマナは暴走一歩手前のギリギリの状態なのだ。
今は制御装置でなんとか抑えられているけど、このままではまずい。いつ黒いマナに呑まれてしまうかわからない。
一刻も早く浄化しなければいけないのに……もし本当に信頼を損なっているなら、何とか取り戻さないと。
もっと積極的に話しかけてみる? いやでも、渡守くんは馴れ合いが嫌いだし、ウザがられる可能性が高い。
じゃあ、マッチに誘ってみる? いや、訓練で既にさんざんやってるし、効果は期待できない。
なら、甘い物で釣る? いや、急に渡したら「何企んでんだテメェ」って不審がられるに決まってる。
どうしたらいいのか……正直、お手上げ状態だった。
脳裏をよぎるのは、ネオ北海道での任務、あの孤児院で見た不気味なオブジェ……渡守くんが、あんな姿になってしまうのを想像するだけで、ゾッとする。そんなのは、絶対に嫌だった。
ムカつくし、本気でぶっ飛ばしたいと思ったことは何度もある。でも、なんやかんや、渡守くんにはいろんな場面で助けてもらってきた。憎たらしいけど、嫌いじゃない。
嫌味の応酬も腹が立つけど、不思議と嫌じゃなかった。
──友人だと思っているのは、私だけだったのだろうか……。
そう、心が重くなる。けれど、それもしょうがないかと思い直す。
もともと嫌われていたし、最初から「テメェと馴れ合うつもりはねェ」と宣言されていた。だから、これまでは、自分のマナを浄化するために仕方なく関わっていただけで、それが面倒になって距離を置かれるようになっただけかもしれない。
渡守くん、気分屋なところあるしね。
少し寂しい気もするけど、そう考えると最近の態度にも納得がいった。
……が、それはそれとしてだ。
渡守くんと仲良くなって信頼を得る手段が完全に絶たれている今、もう私の能力を信じてもらうしかない。最初からそのつもりで、自分なりに努力してきたんだけど……。
渡守くんのマナを白く浄化するためには、あと一歩、何かが足りなかった。
確かな手応えは感じているのに……薄くて硬い壁みたいなものがあって、それをどうしても破れないのだ。
あの壁の原因さえ分かれば、渡守くんのマナを浄化できそうなのに……。
そんなことを考えながら、同じく黒いマナに苦しむ先輩の姿が頭をよぎる。あぁ、今日は任務で朝から会っていなかった。
渡守くんのことは、今考えても仕方がない。とりあえず、自分が確実にできることからやっていこう。
そう頭を切り替え、先輩に抱きつきに行くために連絡を取ろうとMDの画面に手を伸ばした。その時だった。
「影薄」
背後から自分の名前を呼ばれ、思わず操作を中断して振り返ると、そこにはヒョウガくんが立っていた。
いつもは堂々としている彼が、どこかためらいがちな表情を浮かべているのが新鮮だった。
「ヒョウガくん? どうしたの?」
「任務から戻って早々悪い……今、時間あるか?」
ヒョウガくんの口調には、普段の軽さはなく、どこか真剣な響きがあった。その言葉に、彼の意図がぼんやりと見えてくる。
「……もしかして、お姉さんのお見舞い?」
「……今日は調子がいいみたいでな。今から行くつもりなんだ」
ヒョウガくんはそこで一度言葉を飲み込み、視線を落とした。何か言い出しづらいことがあるのか、その表情には少しためらいが見える。
そういえば、この前の電話で「姉さんが会いたがっている」と言っていたことが思い浮かび、私はそっと口を開いた。
「……よかったら、私もご一緒していいかな?」
こちらの意図を汲んだのが伝わったのか、ヒョウガくんは少し驚いたようにこちらを見たが、すぐに表情が柔らかく和らいだ。
ヒョウガくんと二人、病棟フロアへと続く静かな廊下を歩く。
病院独特の消毒の匂いが漂い、自ずと会話のトーンも落ち着いたものになる。
「そういえば、やりたいこと、考えた?」
ふとSSSC本選の前の会話を思い出して、ヒョウガくんに尋ねた。
あのとき、精霊狩りとの戦いを控えた彼を少しでも励まそうと思ってかけた言葉だ。
「ほら、前に聞いたでしょ? お姉さんを助けたら、何がしたいかって。その後、何か思いついた?」
横目でヒョウガくんの表情をうかがうと、彼は少し考え込むように前方に視線を向けた。窓から差し込む淡い光が、彼の横顔を静かに照らしている。
「……そうだな」
彼は少し間を置いて、ぽつりとつぶやく。
「とりあえず、一つは叶いそうだ」
その言葉に、私は静かに耳を傾けた。ヒョウガくんは一瞬こちらを見て、どこか照れくさそうに口を開く。
「……姉さんに俺の友を紹介すること……それが、俺の考えていたやりたい事の一つだ」
ヒョウガくんの、少し照れたような表情を見ていると、思わず温かい気持ちが込み上げてくる。自然と頬が緩み、微笑みがこぼれた。
「……そっか。じゃあ、君のお姉さんに幻滅されないように頑張るよ」
そう軽口を叩くと、ヒョウガくんは即座に首を横に振った。
「その必要はない。既にありのままのお前を話してあるからな。変な見栄を張られた方が困る」
「待って、それどういう意味?」
少し不安になって問い返すと、ヒョウガくんはふっと口元に笑みを浮かべ、わざとらしく視線を逸らした。
「さぁな。会ってからのお楽しみだ」
そう言って歩き出すヒョウガくんを見て、私は思わず軽くため息をつく。それでも、どこか楽しい気持ちが込み上げてくるのを感じていた。
病室の扉の前に立つと、ヒョウガくんは一度深呼吸をしてから、ゆっくりとノブに手をかけた。
少し緊張しているのか、その手にはほんのわずかな力が入っているように見える。
「入るぞ、姉さん」
ヒョウガくんが声をかけると、扉の奥から柔らかな声が返ってきた。
「ヒョウガ? どうぞ、入って」
病室の中は静かで、窓の外には11月の夕暮れが広がっていた。
薄暗くなりかけた空の色が、病室の白い壁にほんのりと影を落とし、静かな時間がゆっくりと流れているように感じられる。
ベッドに座っていたのは、ヒョウガくんのお姉さん、コユキさん。彼女は穏やかな微笑みを浮かべ、その柔らかな表情が病室の冷たい空気を少し和らげているように見えた。
コユキさんは、深い紺色の長い髪を背に流し、凛とした美しさを漂わせていた。吊り目がちな瞳が微かに和らいでいるのが見え、私は思わず息を呑む。
その瞳には夜空を閉じ込めたかのような澄んだ色合いがあり、思わず見惚れてしまうほどだ。
「こ、こんにちは、コユキさん。はじめまして……影薄サチコです」
少し緊張しながらも、私は礼儀正しく挨拶をする。すると、コユキさんは温かみのある笑みを浮かべて、優しく私を見つめた。
その視線には懐かしさと安心感が混じっていて、なぜか私も少しほっとする気持ちになる。
「サチコさん、来てくれてありがとう。ヒョウガからあなたのこと、たくさん聞いているわ」
コユキさんの言葉とその眼差しが、私を包み込むように感じられ、まるでずっと前から彼女の知り合いだったかのような不思議な感覚が胸に広がった。
ヒョウガくんの友人というだけで、すでに親しみを持ってもらえているのだろうか。
「ヒョウガにお友達ができたことも嬉しいけれど、こんな可愛らしい恋人までできるなんて。本当に嬉しいわ。サチコさん、これからもヒョウガのことをよろしくね」
「え?」
驚く私の隣で、ヒョウガくんが慌てて声を上げ、真剣な面持ちでコユキさんを見つめた。
「だから、影薄はそういうのではないと、何度も言っただろう!」
コユキさんは、まるでからかうように首を傾げて微笑み、ヒョウガくんが少し言葉に詰まるのを見て楽しそうに目を細める。
ヒョウガくんは軽くため息をつき、少しだけ顔を伏せた。
「そうね、今はまだ、お友達だったわね」
「姉さん!」
ヒョウガくんがさらに顔を赤くしながら抗議の声を上げると、コユキさんはくすっと笑った。
その様子が微笑ましくて、私もつい笑みがこぼれた。
「ヒョウガくんも、お姉さんには勝てないんだね」
「なっ!? お前はっ……っ、あんな勘違いをされたままでいいのか!?」
「いや、ただの冗談でしょ。そんなに過剰反応するから、余計からかわれるんじゃない?」
焦るヒョウガくんを軽く流すと、ヒョウガくんはぐっと言葉を飲み込み、不満そうに顔をそらしてしまう。
肩を少し落としたその仕草が、何だかんだで愛嬌があって面白かった。
「あらあら、可愛い弟に嫌われてしまったわ」
「大丈夫ですよ。ヒョウガくん、生粋のお姉さんっ子ですから。お話はよくうかがってます。耳タコです」
「影薄!」
今度は私に向かって声を荒げるヒョウガくん。
顔を赤らめたまま、口元を引き結ぶと、病室にあった花瓶を手に取って「水を変えてくる」とだけ言い、足早に部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送ったコユキさんが、ふっと優しく笑う。
「ふふ、拗ねてしまったわね……本当に今日はありがとう、サチコさん。私の我儘を聞いてくれて……」
その表情がふっと和らいだと思ったら、コユキさんの顔に真剣な色が差し込む。軽く姿勢を正し、静かながらも深い決意のこもった声で口を開いた。
「ダビデル島のことは……本当に、ごめんなさい。刻印も、サタンも……あなたには、とても迷惑をかけてしまったわ」
コユキさんは深々と頭を下げ、私への感謝と謝罪を込めるように丁寧に礼をしている。その姿に、私は思わず慌てて言葉を返した。
「いや、そんな……ほら、こうして無事に終わった事ですし、別に気にやまなくとも……」
声が上ずりそうになるのをこらえながら、どうにか慰めようとするが、コユキさんはゆっくりと首を横に振り、目を伏せる。
「いいえ……私たち家族が行ったことは決して許されないこと……」
彼女の言葉は静かだが、決意がこもっていた。
許されないという重みを、彼女はその瞳に宿しているようだった。そしてその目を閉じ、再び深く頭を垂れた。
「これから、一生をかけて償っていくつもりよ……被害に遭った方々に対しても……もちろん、あなたにも……」
私は、彼女の真摯な姿に胸が締めつけられる思いだった。
何と答えればいいのか分からず、視線がさまよう。けれど、一度深く息を吸い、彼女の言葉をしっかりと受け止めると、意を決して自分の気持ちを伝えることにした。
「……じゃあ、これからは、ヒョウガくんと家族としての時間をいっぱい過ごしてください」
コユキさんがゆっくり顔を上げ、私をじっと見つめる。
「今までできなかったこと、やりたかったこと。そういった家族としての時間を、ヒョウガくんと一緒に過ごして欲しいです」
私の言葉に、コユキさんの表情がわずかに揺れた。
正直なところ、彼女が「償いたい」と言ってもいまいちピンとこない。
私自身は本当に気にしてなどいないから──でも、それでも償いたいと感じるのなら、今まで辛い思いをした分、彼女には大切な家族と安らかな時間を過ごしてほしい。
それが、今の私の気持ちだった。
「私への償いは、それで十分です」
そう伝えると、コユキさんの目がほんのり潤んだ気がした。
彼女は短く息を吐き、小さく微笑むと、感謝の気持ちを込めて静かに答える。
「……ありがとう」
その笑顔はどこか泣きそうに見えて、胸がじんわりと温かくなる。
「ヒョウガは、あなたのそういうところに惹かれたのね……私たちがもっと、普通の家族だったら……」
コユキさんはふと遠い目をしながら、小さな声でつぶやいた。
それから私を見つめ、少しからかうように尋ねる。
「ねぇ、あなたから見て、ヒョウガは魅力的かしら?」
「そうですね。とても素敵な男の子だと思いますよ」
私がそう答えると、彼女はほんの一瞬驚いたようだったが、すぐに楽しそうに微笑んで、まるで冗談を言うように続けた。
「それじゃあ、もらってくれる?」
「……ノーコメントでお願いします」
私が少し困ったように答えると、コユキさんはふふっと小さく笑い声を漏らす。
「ふふ、残念だわ」
その後も、コユキさんと私はゆったりとしたささやかな会話を続けた。彼女はヒョウガくんとの幼い頃の思い出を少しずつ語ってくれた。
その一つひとつが大切に育まれた家族の記憶で、ヒョウガくんが子供の頃に好んでいた絵本や、毎年のお祝い事でどんな様子だったかという些細なことまで話してくれる。
その温かさに満ちた語り口が、自然と私の心にも穏やかに沁み渡っていった。
「今はこうしてヒョウガが成長して、たくさんの仲間にも恵まれて……本当に、嬉しいことばかりだわ」
そう微笑むコユキさんの言葉には、心からの喜びがあふれていて、私も思わず頷く。
その後も、彼女はこれからしたいささやかな夢や、元気になったらどこへ行きたいかといった話もしてくれた。
どれもが小さな日常のひとこまで、そんな夢が叶うのはそう遠くないだろうと私は感じていた。
やがて、少しして病室のドアが静かに開き、ヒョウガくんが戻ってきた。
彼は私たちが和やかに話している様子を見て、ほんのりと安心したように微笑んでいる。その優しい表情に、私も自然と安堵を感じた。ここには、彼が守ろうとする家族の温かなつながりが確かに存在しているのだと。
それからしばらくの間、三人で他愛のない会話を交わしながら、穏やかで心温まる時間がゆっくりと流れていった。
ふと気づけば、病室の冷たい空気もいつの間にか和らいでいるように感じられ、まるでどこか温かい場所にいるかのようだった。ヒョウガくんも、いつになく柔らかな表情で、たまに小さく微笑みながらお姉さんの言葉に耳を傾けている。
このひとときだけは、黒いマナのことも、戦いのことも忘れ、ただどこにでもある普通の家族のように、何気ない日常を過ごしている──そんな錯覚すら心地よかった。
やわらかな夕日の光が差し込む中で、私たちは互いに寄り添いながら、平穏な時間を噛みしめるように感じていた。