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ph146 夜の説教部屋にて

 タイヨウくんたちの救援任務が行われた翌日、思っていた通り、五金総帥から“ヨハンくん”の処遇について説明があった。


 ヒョウガくんが言っていたように、ヨハンくんへの接触は厳重に制限されることになり、ケイ先生やヒョウガくんのお父さんなど、七大魔王(ヴェンディダード)の研究に深く関わる限られた数人だけに許されていた。


 当然、私はその中には含まれていない。だから、あの任務の日から数日が過ぎたが、ヨハンくんの姿を見かけることは一度もなかった。


 そんな総帥の対応が功を奏したのか、それとも私の考えすぎだったのか、ヨハンくんがアイギス本部にいるにもかかわらず、本部内は普段と変わらなかった。


 先輩も渡守くんも、七大魔王(ヴェンディダード)の影響を受けた様子はまったくなく、いつも通りに訓練に励んでいる。


 けれど、安心するにはまだ早い。絶対に二人が暴走しないと、確信を得た訳じゃないのだ。


 このままでは心配が拭えないため、これからも、しっかりと監視を続けていくつもりである。


 それに、新たな不安材料が浮上した。タイヨウくんだけが、例外的にヨハンくんと会うことを許されていることについてだ。


 その理由について、総帥から詳しい説明はなかった。


 正直、何考えてんだと怒鳴りそうになったが、総帥なりの意図があるのだろうと思い直し、私はその怒りを無理やり飲み込んだ。


 それでも、一度湧き上がった不安は消えない。どれだけヨハンくんが善良そうに見えたとしても、彼が七大魔王(ヴェンディダード)である事実が、その不安を増幅させる。


 タイヨウくんは、どんな相手でも助けを求められれば身を挺して守ろうとする。そんな強い正義感を持っている子だ。


 このままヨハンくんとの関係が深まれば、もし彼と敵対しなければならない時が来た時、その優しさゆえに、タイヨウくんは深く傷ついてしまうだろう。


 友人を手にかけるなんて、一生のトラウマだ。彼がその苦しみに耐えられるとは思えない。


 総帥も、タイヨウくんの性格を分かっているはずだ。それなのに、なぜヨハンくんとタイヨウくんを関わらせるのだろうか? ヨハンくんが絶対に敵対しないという、確固たる根拠があるのだろうか?


 それとも、たとえタイヨウくんが傷ついたとしても、それ以上に利益があると踏んだ故の判断なのか……どんなに考えても、何も分からなかった。


 せめて、総帥の意図が知れれば、いざという時に何かできるかもしれないのに……。


 そう思ってはいても、私にはその手がかりさえ掴めそうになかった。


 考えれば考えるほど、気分が重くなる。


 こんな精神状態ではいけないと、私は訓練に集中するように努めた。けれど、頭の中では嫌な思考がぐるぐると巡り続け、結局、訓練が終わっても心は晴れないままだった。






 訓練が終わり、一息ついて廊下の窓際で外を眺める。


 午後の日差しが差し込んでいて、穏やかな時間が流れていた。


 何となく下を見ると、訓練を終えたタイヨウくんがどこかへ走っていく姿が見えた。きっと、ヨハンくんに会いに行っているのだろう。


 彼が笑顔でヨハンくんと話している姿を思い浮かべ、また、心が重くなる。


 コツンと窓におでこを当て、ボーっと眺める。そのまま物思いにふけっていると、背後から近づいてくる足音が耳に入ってきた。


 一体誰だろうかと、後ろを振り返る。


 近づいてきた足音の正体は、渡守くんだった。渡守くんが汗を拭きながらこちらへと歩いてくる。


 彼も私と同じく、訓練を終えたばかりのようだ。


 チラリと渡守くんの右腕を盗み見た。暴走の兆しはない。よかったと内心で安堵し、少しだけ抜ける肩の力。


 渡守くんは無表情のまま、私を気にする素振りもなく通り過ぎようとしている。そんな彼の様子に、私に用があって近づいて来た訳ではなさそうだと思い、視線を窓の方へ戻そうとした。


 その瞬間だった。渡守くんは鋭い目で私を睨み、盛大な舌打ちをした。


「……ンなとこで突っ立ってんじゃねェ。ウザってェ、消えろ」


 渡守くんが立ち止まり、ぶっきらぼうに言い放つ。


 私は一瞬言葉に詰まったが、表情を変えず、すぐに何事もなかったように返した。


「……すみません。少し、考え事をしていました」


 渡守くんは「そォかよ」とつぶやき、そのまま立ち去る。


 私も、このまま悩んでいても堂々巡りになるだけだろうと思い直し、気持ちを切り替えるために自室へと戻って汗を流すことにした。






 シャワーを浴び終え、ペットボトルのお茶を飲む。母に今日も元気であることをSAINEで通知し、MD(マッチデバイス)を閉じた。


 影法師を呼び出し、戯れながら今日のマッチを思い出す。そして、自身の弱点を補うためのカードを見繕いながら、メインデッキを組み直していた。


 このままサブデッキも調整しようとレッグポーチを開けたが、サブデッキ用のケースが見当たらない。


 シャワーの前に部屋の中に置いたっけ? と思いながら探し回るが、見つからなかった。


 部屋にないということは、外に置き忘れたのかもしれない。そう考え、部屋に戻るまでの行動を振り返ってみる。


 すると、トレーニングルームに置きっぱなしにしてきたことを思い出した。


 「失敗したなぁ」と頭を抱える。


 普段なら置き忘れなんてしないのに、今日はどうにも気が散っていたせいだ。心ここにあらずといった状態だったから、注意が散漫になってしまっていたのだろう。


 私は時計を確認する。短針が24を指しかけていた。


 もう遅いし、取りに行くのは明日にしようかと迷ったが、どうしても気になって落ち着かず、結局自室を出て取りに行くことにした。




 アイギス本部内はすでに消灯時間を迎え、静まり返っていた。


 薄暗い常夜灯の明かりが廊下に影を落とし、足音が響くたびに小さな反響が返ってくる。


 そのわずかな光を頼りに、私は歩みを進めた。空気がひんやりとしていて、肌に冷たさが染み渡るようだった。



 ようやくトレーニングルームにたどり着き、自動で開く扉。


 薄暗い部屋の隅を目を凝らして見渡すと、見覚えのあるデッキケースが転がっているのが目に入る。


 何事もなく見つかったことに小さく安堵の息を漏らし、ケースを手に取った。


 サブデッキを回収し、自室に戻ろうと再び廊下に出る。静けさが背筋を冷たく撫でるようで、自然と早くなる足。


 別に怖いわけじゃない。幽霊なんて信じていないし、仮にいたとしても、ただの精霊の類だろう。


 そう、幽霊なんているはずがない。だから私は怖がってなどいないのだ──そう何度も自分に言い聞かせながら、気づけば早足で廊下を進んでいた。




 しばらく歩いていると、ふと背後に何かの気配を感じた気がして足を止める。


 耳を澄ませても、何の音も聞こえない。静まり返った廊下に、ただ自分の鼓動だけが響くようだった。


 胸のざわめきを抑え、再び歩き出そうとした瞬間、馴染みのあるマナの気配が漂ってきた。


 この底知れぬ禍々しい気配──間違いなくクロガネ先輩のものだ。


 普段から感じ慣れている先輩のマナだが、今はいつもとは違い、どこか不穏で、まるで何かが渦巻いているように感じる。


 その違和感は、本当に注意深くなければ気づけないほど微かだったが、私は思わず足を止め、その気配が漂う方向へと体を向けた。


 マナの気配を辿っていくうちに、いつの間にか説教部屋の前にたどり着いていた。


 こんな時間に先輩がここで何をしているのだろう?


 嫌な予感が胸をよぎるが、確認しないわけにはいかない。私は一瞬迷ったが、意を決して扉に手をかけ、そっと開けた。


 すると、そこから溢れ出したのは、重く押し潰されそうなほど強烈な黒いマナだった。その圧力に思わず息を呑み、私は反射的に中へ飛び込んで、扉を勢いよく閉めた。


 視界に広がるのは、目に見えるほど濃密で禍々しい黒いマナ。以前見た時よりも、その悍ましさは格段に増していた。


 空気が重く、息苦しささえ感じる。


「先輩!!」


 私は声を上げながら、倒れている先輩に向かって駆け寄った。


 黒いマナの圧力に足が取られそうになるが、構わずに手を伸ばす。冷たい汗が背中を伝い、心臓が早鐘のように打ち鳴る。


「先輩! クロガネ先輩!! 起きてください! 先輩!!」


 私は先輩の上半身を抱き起こし、必死に声をかける。


 先輩の肌は冷たく、目は固く閉じられたままだ。それでも諦めず、震える声で何度も名前を呼び続ける。


 しばらくして、先輩がわずかに反応し、ゆっくりと目を開けた。


 その瞳が私を捉えると、先輩は「……サチ、コ……か?」と、かすれた声で問いかけてきた。


 その瞬間、先ほどまで渦巻いていた黒いマナが、ゆっくりと薄れていくのが見えた。まるで何かが先輩の体から解放されたかのように、瞬く間に消えていったのだ。


「なんで、サチコがここに……夢か?」

「言ってる場合ですか! なんでこんなことになっていたんですか!? どうして知らせてくれなかったんですか! なんで一人でここにっ……!」


 自分の言葉が震える。見ていた癖に、なんで先輩がこうなるまで気づかなかったのかと、自己嫌悪が胸を刺す。


「いつから……こんな、黒いマナに……」


 先輩の黒いマナが、日に日に濃くなっていることには気づいていた。それでも、先輩は何事もないように過ごしていた。


 変わらない笑顔で「サチコ」と私の名前を呼び、完璧にマナをコントロールしている姿を見て、私は安心しきっていた。


 まだ大丈夫だと、先輩は強いから、これぐらいの黒いマナならきっと平気だと──そう、信じ込んでいた。


 一度、黒いマナに飲まれて苦しんでいる先輩を見ていたはずなのに。どうして、信じて疑わなかったのだろう。


 私がもっと早く気づいていれば……。


 そして、脳裏によぎるのはヨハンくんの存在。直接の接触はなくとも、彼が近くにいることで、先輩に影響を与えいるのではないかという不安が、胸を締めつける。


「もしかして、ヨハンくんのせいで……」

「違ぇよ」


 先輩の短い言葉に、私は思わず声を荒げる。


「だったらどうして!」

「サチコ」


 先輩はいつもと変わらない、優しい表情で私の名前を呼び、私の頭をポンと撫でた。


 どうしてこうなる前に言ってくれなかったのか──そう問い詰めたくなるが、先輩の穏やかな顔を見ると、何も言えなくなってしまう。


「大丈夫だ、俺は負けねぇよ」


 自信に満ちた声が私の鼓膜を刺激する。


「サチコも知ってんだろ? 黒いマナは、強い意志がありゃ抑えられることを……俺は、こんなマナに負けるほど弱かねぇよ」


 知ってるよ。先輩が強い人であるのなんて、そんなのとっくに知ってる。


「それに、最近になって分かったことだけどよ……黒いマナがどうしても制御できねぇ時は、それ以上に心が満たされりゃあ抑え込めるみてぇなんだ」


 先輩は、私にもたれかかっていた体を起こし、両手で私の頬を優しく挟んだ。


「サチコ、俺はな……こうやってお前と目を合わせて、触れて、話すだけで幸せだって気持ちで満たされる。お前を守りたいって、傷つけたくないって気持ちが溢れんだよ」


 先輩は笑う。いつもの穏やかな笑みで。


 もう、暴走の兆しなんて全くなかった。先輩は完全に黒いマナを制御できていた。


「この気持ちが、黒いマナなんぞに負けるわけがねぇんだよ……だから、そんな顔すんな」


 あぁ、どうして……。


「お前がいてくれる限り、俺は絶対ぇ負けねぇから」


 どうして君の思いの先が、私なのだろうか。


 私のようないい加減で、君の気持ちから逃げ回るような無責任な奴じゃなく、もっと……ハナビちゃんのように優しく、君の気持ちを受け入れられる女の子だったら……そんな、たらればの話を夢想してしまう。


 今まで、私が先輩の暴走を気づけなかったのは、先輩の言っていた通り、私がいたからなのだろう。先輩は、その思いの強さ故に、私の前だけでは本当に黒いマナの暴走を抑えられてしまうのだ。


 先輩を思うのならば、ずっと側にいるべきなのだろう。彼のマナが暴走しないように、先輩の近くで、支えなければならない。


 きっと、それが最善……でも、だからと言って、彼の思いを受け入れられるのかと問われれば、素直に頷けなかった。



 もう、心の中でさえ、ふざけて誤魔化す事はできなかった。


 直接言われた訳ではない。けれど、ここまで言われて気付かない程鈍感ではない。こんな目で見つめられて気付かない程、鈍感にはなれなかった。



 受け入れるには遠く、けれど遠ざけるには近すぎる存在になってしまった。



 自分の中で浮き彫りになる先輩への思い。


 ……なんて、厄介な感情だろう。いっそ、どちらか一方に傾いてくれれば、こんなに悩まずに済んだのに……。


「……先輩」


 私も先輩の頬に触れ、こうして近くで見なければ分からなかった隈を親指でなぞる。


 先輩の肩が、かすかに揺れた。


「サチコ?」

「先輩」


 今までも、私が気づかなかっただけで、先輩はずっと1人で戦っていたのかもしれない。


 暴走しないように自分を抑え、誰にも悟られないように、この部屋でただ1人、苦しみに耐えながら長い夜を過ごしていたのだろう。


 そして、先輩の感情を受け入れられないからと、今までのように距離を置こうとすれば、これからも先輩は1人で苦しむ。


 知ってしまったからには、そんな先輩を見て見ぬふりをするなど出来そうにない。


 だから私は──


「……これから、寝る前は必ず私に連絡してください」


 腹を括る事にした。


「黒いマナが暴走しそうな時は、私に知らせてください。連絡する余裕がない時は、この指輪を使ってください。少しでも不安を感じたら、いつでも呼んでください。すぐに駆けつけます」

「さ、サチコ? 急にどうし……」

「私も、何かあったら真っ先に貴方を頼ります」


 ある決意を胸に、先輩をじっと見つめる。


「だから、先輩も……もう、こんな隠し事はしないでください」


 先輩が、これ以上1人で苦しむことがないように祈りながら……。


「先輩が、1人で辛い思いをするのは嫌なんです」

「サチコ……」


 先輩は、少し困ったように私を見つめ返してくる。


 でも、私は折れるつもりは一切ない。先輩が頷くまで、テコでも動かないという意思を持って、彼を見返した。


 しばらく悩むように口をモゴモゴさせていた先輩だったけど、最後には観念したように小さく頷いた。


 それを確認して、私は「よし、これで決まりですね」と言わんばかりに立ち上がる。


「じゃあ、こんな場所に籠らず、ちゃんと自分の部屋で休んでください。私が送りますから」

「は!? いや、さすがに……俺がサチコを送るならわかるけど──」

「ダメです。私が見届けないと不安なので」


 キッパリと言い切ると、先輩は一瞬怯んだが、すぐに「いや、俺が送る!」と言って立ち上がった。


 お互いに「自分が送る」と譲らず言い合いになったが、結局、先輩が私を部屋まで送り、その後、彼が自分の部屋に戻ったことをMD(マッチデバイス)で証明するという条件で手を打つことにした。


 そして、先輩がちゃんと部屋に戻ったのを確認し、ブラックドッグにも監視を頼んでから眠りについた翌朝。


 廊下で先輩を見つけ、自分から声をかけた。


「先輩」

「サチコ! おは──!?」


 満面の笑顔で振り返った先輩に、有無を言わせず抱きついた。


 先輩は私の突然の行動に一瞬硬直し、目を大きく見開いたまま固まっている。


 しばらくそのまま抱きしめた後、私は何事もなかったかのようにそっと離れ、先輩と向き合った。


「はい、おはようございます」

「な、ななんなっなななっ……!?」


 先輩は焦った様子で表情を次々と変え、明らかに混乱しているのが伝わってくる。


 それでも私は気にせず、「満たされましたか?」と問いかけた。すると、先輩は即座に「はち切れそうだ」と返してきた。


「なら良かったです。1時間しかないんで、また後で抱きつきにきますね」

「ままままま待て! 待ってくれ!」


 先輩は焦ったように手を振り、言葉を何とか探そうとしているのが伝わる。


「こんっ、そん……! 急には困る!!」

「何ですか? 嫌なんですか?」

「逆だから困ってんだ!!」

「じゃあ問題ないですね」


 淡々とそう返すと、彼は戸惑いを隠しきれない様子で「いや、その……俺にも俺の事情があるっつぅか……」と口ごもった。


「先輩だって、急に抱きついてくるじゃないですか」

「俺からとお前からじゃ全然違うんだよ!!」

「知りませんよそんなの」


 私は肩をすくめて、あっさりと言い放つ。


「文句はそのマナを私なしで制御できるようになってから言ってください。話はそれからです」


 冷静に、でも少しだけ挑発的な口調で「できないなら大人しく抱かれてください」と告げると、彼は困惑の表情を浮かべてながら「サチコぉ」と声を上げた。そして、まだ何か言っていたが、それを無視してトレーニングルームへと向かった。






 訓練開始時間よりも早く着いたトレーニングルーム。


 誰もいないだろうと思いながら部屋に入ったが、予想に反して先客がいた。アカガネ教官だった。


 教官は私に気づくと、唇をゆがめて挑発的な笑みを浮かべた。


「ついに五金家(うち)に嫁入りする気になったのかい?」


 その一言で、教官が私の今朝の行動を知っていると悟る。


 私は肩をすくめ、「まさか」とおどけたように返しながら、教官の元へと歩み寄った。


「ただ、決めたんです……ちゃんと、責任を取ろうって」


 私は教官の隣に立ち、前方を見据えながら静かに呟いた。


 教官は何も言わず、まるで続きを促すかのように、無言で私に視線を向けている。


 先輩のマナを安定させるためには、私が常にそばにいるのが最善だろう。七大魔王(ヴェンディダード)との戦いまで時間がない今、長期的なアプローチよりも、短期間で成果を出す必要がある。それが現実的な判断だ。


 でも、教官はあえて1日1時間と制限を設けた。


 先輩が私に依存しすぎないように、そして私から離れても自分の力でマナを抑えられるようにするための配慮だったのだろう。


 教官は、私に選択肢を与えてくれていたのだ。先輩が私から離れ、自立する未来も見据えていたのだと、それを踏まえた上で、言葉を紡ぐ。


「私がいなければ先輩がマナを抑えられないのなら、その根源ごと変えればいい」


 私は横を向き、アカガネ教官の目をしっかりと捉えた。


「私、先輩のマナを白くします」


 白いマナは、後天的に黒く染める事ができる。それなら、その逆も可能なはずだ。黒いマナを、白くする事だってできるはずだ。


「何年、何十年かかっても、必ず白くしてみせます」


 その決意を込めた言葉に、教官は一瞬黙ったまま私を見つめ、わずかに口元を緩めたように見えた。


「その間、うちの孫を誑かすってのかい? 大したタマだねぇ」


 アカガネ教官は、目を細めてまるで楽しんでいるかのように言った。


「……結果的には、そうなります。でも、刷り込みみたいなものですし、黒いマナさえなくなれば、私への執着もどうにかなるでしょう」


 黒いマナは、負の感情が凝縮された塊のようなものだ。先輩の私に対する異常な執着も、その黒いマナの影響が関係しているのではないかと、私は考えている。


 だからこそ、黒いマナさえ浄化できれば、先輩の執着も少しは和らぐかもしれない。


 視野が広がり、私以外にももっと大切な存在を見つけることができるかもしれない。私はその可能性に賭けてみたい。


 たとえそれが、先輩の好意を利用する形になっても、彼が黒いマナに囚われて壊れてしまうぐらいなら、私が恨まれるほうが何千倍もいい。


 それで大勢の人から、白い目で見られたとしても構わない。


 それに、先輩のマナを白くする手がかりが掴めれば、ヨハンくんのマナも白く出来るかもしれない。そうしたら、タイヨウくんがヨハンくんと戦うような事態になっても、防ぐ事ができるかもしれないしね。


 これが、私なりの責任の取り方であり、私の覚悟だ。


「今後、悪い女に誑かされないための社会勉強ということで、許してもらえませんか?」


 私は冗談交じりに言いながらも、少しだけ真剣な表情で返す。


「ヒヒッ! 青臭いガキが。女のイロハを教えるなんざ、50年早いよ」


 教官は肩を揺らして笑い、どこか懐かしげな表情を浮かべていた。


「50年、ですか……もうちょっと負けてくれません?」

「何言ってんだい」


 教官は肩をすくめてから、顔を近づけるようにして小声で囁く。


「女の旬は、還暦越えてからだよ」


 その言葉に、一瞬言葉を失った私は、驚きとおかしさが入り混じった感情を抱えながら、思わず吹き出してしまった。


 教官の言葉が真面目なのか冗談なのか、どちらとも取れない絶妙さに、自然と笑いがこぼれる。


「もっと脂が乗ってから出直しな」

「じゃあ、教官もまだまだ現役なんですね」


 私は笑いを収めながらも、少し挑戦的な視線を向ける。教官は意気揚々と胸を張り、堂々とした表情で答えた。


「当たり前だろ。あたしゃピチピチの65歳だよ」


 その自信たっぷりな姿に、私は小さく息を吐いて微笑む。


 心の中で「また10年サバを読んでる」と思いつつも、どこか愛嬌のあるその態度が微笑ましく感じた。教官の冗談には、私を気遣う優しさが隠れているとわかるからだ。


「……ありがとうございます、教官」


 私は、少し間を置いてから、静かに言った。教官の視線が私に向けられる。


「何がだい?」


 その問いかけに、私は首を軽く振りながら答える。


「いえ、ただ言いたかっただけです」


 ほんの少し頭を下げ、感謝の気持ちを込めた。直接は伝えられないけれど、私なりの礼だった。


「…………ふん、おかしな子だね」


 教官は呆れたように鼻を鳴らしながらも、目にはどこか優しさが漂っている。


「ま、気が変わったならいつでも言いな。アンタなら孫にしてやってもいい」


 その言葉には、照れ隠しのようなものが含まれているのが感じ取れた。教官なりの不器用な温かさが伝わる。


「それは……確約はできません」


 私は正直に返しながらも、少し柔らかな声を出す。


「ヒヒッ! 確約()、ね……それだけ聞ければ十分さ」


 教官は口元を緩め、愉快そうに笑う。そして、少し身を乗り出してBルームの方を指差した。


「おしゃべりの時間は終わりだよ。とっとと持ち場に着きな。貧弱なアンタに休んでる暇はないよ」


 その言葉が響き、空気が一気に引き締まる。


 私は背筋を伸ばし、教官の真剣な眼差しを受け止めてから、「分かりました」と頷いた。そして、教官の視線が背中に突き刺さるのを感じながら、訓練へと向かった。


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