ph145 ヒョウガくんからの着信
アイギス本部に戻ると、タイヨウくん達はそのまま任務の報告に向かったが、私はケイ先生の指示でシロガネくんの治療を手伝うことになった。
手伝うと言っても、私にできるのは黒いマナの侵食を抑えるため、マナの循環を維持することだけだ。隣では、ケイ先生が手際よく、的確に治療を進めている。
時折、ケイ先生が漏らす言葉から察するに、やはりハナビちゃんと同様、シロガネくんも黒いマナによってマナ回路が損傷しているようだった。
けれど、ハナビちゃんとは違い、シロガネくんはマナ使いであったため回路の回復力が高く、予想よりも早く治療が終わりそうだった。
今は顔色もかなり良くなり、穏やかに眠っている。
治療が済むと、ケイ先生は優しく微笑みながら「もう大丈夫だから、部屋に戻って休んでいいよ」と言った。
私は軽く頭を下げ、大事にならずに済んで良かったと安堵しながら、治療室を後にした。
そうして一息ついたものの、緊張が途切れたことで、頭をよぎるのは報告に行ったタイヨウくん達のことだった。
特に、「ヨハン」と呼ばれていた七大魔王の処遇がどうなったのかが、気になって仕方がない。
タイヨウくんがどんなに「ヨハンは良い奴だ」と主張しても、私の目にはアフリマンと同様の七大魔王にしか見えなかった。
どれだけ弱々しい態度を取っていても、それすらも私たちを油断させるための演技ではないか? と疑ってしまう。
これがただの杞憂で終わればいい。でも、もしそうじゃなかったら? そんな危険な存在を私たちの懐に抱え込むなんて、不安しかない。
こういった重要な案件は、いずれ総帥から説明があるはずだ。きっと、明日にでも情報共有が行われるだろう。
けれど、どうにも落ち着かない。
こんな不安を抱いたまま夜を明かすのは、とても無理そうだった。
私は自室に戻ろうとした足を止め、やはり総帥に直接話を聞きに行こうと、執務室へ向かうことにした。
その矢先だった。ピリリと私のMDのコール音が鳴った。
誰だろうと思いながら相手を確認すると、ヒョウガくんからの着信だった。
何か急用でもあるのか? と思いながら、すぐに通話に出る。
通話ボタンを押すと、小さな電子画面にヒョウガくんの顔が映し出された。
『影薄。今、大丈夫か?』
「うん、ちょうど治療が終わったところだよ。何かあったの?」
私がそう答えると、ヒョウガくんは「そうか」と軽く頷き、少し考えるように視線を落としてから再び口を開いた。
『ヨハンのことについて、伝えておこうと思ってな』
ヒョウガくんのその言葉に、私は思わず息を呑んだ。まるで私の心を見透かしているかのようなタイミングだった。
ヒョウガくんは、私が知りたかったことをまさに話し始めようとしている。私は黙って、その続きを待った。
『結論から言うと、ヨハンはアイギスで保護することになった』
予想はしていたものの、やはり気分が重くなる。
分かっていたことではあったが、心が沈むのは避けられなかった。
保護されるということは、ヨハンとアイギス本部内で頻繁に顔を合わせることになるだろう。七大魔王という存在が、黒いマナの持ち主にどんな影響を与えるか分からない。
もしも先輩が七大魔王になってしまったら……なんて、考えたくもなかった。
万が一にも、そんなことが起きないよう先輩はもちろん、渡守くんにもヨハンに極力接触しないように伝えなければ……。
そう考え込んでいると、『ただ、それはあくまで名目上の話だ』と続いたヒョウガくんの言葉に、私は思わず「え?」と声を漏らした。
『総帥は、ヨハンが七大魔王であることを前提として対応するそうだ。常時マナを押さえ込む制御装置を着用させ、ヨハンと接触できる人間もごく限られた少数の者にするようだ。何が起こるか分からないからな。当然、黒いマナの持ち主である五金クロガネと渡守センは、近づけさせないよう徹底させると言っていた』
「そうなんだ……」と頷くと、ヒョウガくんが「だから、心配するな」と優しく言ってくれた。
あぁ、やっぱり……ヒョウガくんにはすべて見透かされていたんだ、と改めて思い知らされる。
あの時、思わず口にしてしまった「先輩が」という言葉で、ヒョウガくんはすべてを察してくれたのだろう。
私が一番恐れていることを、まるで見抜いたかのように正確に言い当てられ、少しだけ肩の力が抜けた。
それから、ヒョウガくんはヨハンの事、任務であった事についての詳細を話してくれた。
クリス・ローズクロスがあの場にいたこと、ヨハンが彼の非公式な実子である可能性があること。そして、ヨハンに対して七大魔王に関連する何らかの実験が行われていた可能性も示唆された。
その他にも、ヒョウガくんの口から延々と語られた情報は、私の思考が追いつかないほど濃い内容だった。
ローズクロス家の当主には、正式な配偶者がいないらしい。しかし、養子にしてはクリス・ローズクロスにあまりにも容貌が似すぎているという。五金総帥も「まるで生き写しのようだ」と言っていたそうだ。
もしそうなら、婚外子ということなのだろうか? 七大魔王の実験を行うために子供を作り、それをずっと秘匿してきたということなのか?
それが事実なら、外道極まりないな。
クリス・ローズクロスが碌でもない人物であることを改めて思い知らされ、自然と眉間に皺が寄る。
けれど、どうにも腑に落ちない。
もしヨハンが七大魔王に関連する実験を受けたとすれば、その目的は十中八九、七大魔王の器にするためだったと考えるのが自然だ。
実際、彼が七大魔王になっていることが、その証拠と言える。しかし、ヒョウガくんの話では、クリス・ローズクロスは彼を「失敗作」と呼んでいたそうだ。
七大魔王であることに間違いはないのに、なぜ失敗作と言われていたのだろうか?
それに、タイヨウくん達を待ち伏せていたにもかかわらず、何もせずに撤退したこと、自身の情報が漏れる危険があるにもかかわらず、ヨハンをその場に置き去りにしたことも気にかかる。
何かしらの意図があるのは間違いないだろう。だが、その意図がどうしても掴めない。
いくら考えても、全く分からない。クリス・ローズクロスの行動が謎すぎる。
きっと、五金総帥もこの不可解な点に気づいているだろう。ならば、情報が揃わない中で考え続けるより、この件については五金総帥に任せた方が賢明だ。
私は私にできることをしよう。
先輩や渡守くんが器となってしまわないよう、彼らの状態と黒いマナをしっかりと監視すべきだ。
黒いマナが暴走しないように、そして万が一暴走しても、すぐに沈められるように常に注意を払っておく必要がある。
ヨハンがアイギス本部にいること。それに対する不安はまだ拭えない。けれど、もう決まってしまった以上、今さら文句を言ったところでこの決定が覆ることはないだろう。
だったら切り替えろ、と自分に言い聞かせた。
ヒョウガくんの顔を画面越しに見つめながら、少し沈黙が続く。
彼も私が考え込んでいるのに気づいているのか、何か言おうか迷っている様子だった。
「……影薄、その……実は、姉さんがお前に会いたがってるんだ」
静かな間を破るように、ヒョウガくんが思い切ったように言う。
「お姉さんって……氷川コユキさんのこと?」
私が確認するように名前を口にすると、ヒョウガくんは肯定するように頷いた。
「随分、体調も良くなってきてな。この前、見舞いに行った時にお前の話をしたんだ。そうしたら、ぜひお前に会ってみたいと言われてな……次の面会の時に連れてきて欲しいと頼まれたんだ」
「そうなんだ……」
私は、コユキさんのことを思い浮かべる。
彼女のことは、以前ヒョウガくんから何度か聞いたことがある。その辛い過去を思い返すと、胸がチクリと痛んだ。
長い間、刻印の苦しみに耐えてきた彼女が、最近になって体調が回復してきたと聞いて安心したけれど、私に会いたがっているというのは少し意外だった。
一体、ヒョウガくんがどんな話をしたのかと気になる。
「分かった。次にお見舞いに行く時は声をかけてね。私も一緒に行くよ」と、快く了承しつつも、「でも、どうして急に私のことを?」と流れるように抱いた疑問を口にする。
「それは……お前のことを、俺の友人だと話したからだと思う」
ヒョウガくんは少し言い淀んだあと、視線を横に逸らしながら続けた。
「姉さんは、今まで俺に友人がいない事を気にしていたんだ。だから、俺にそんな存在ができたと聞いて、安心したんだと思う……だから、お前に一目会いたいと……」
その言葉に、私は思わず胸が温かくなるのを感じた。
ヒョウガくんがそんな風に私のことを話してくれていたなんて、ちょっと意外だなと驚いたけれど、嬉しかった。
「そうなんだ……私も、今からコユキさんに会えるのが楽しみだよ」
私がそう言うと、ヒョウガくんはわずかに照れたように微笑んだ。
「そう言ってくれると、助かる。きっと、姉さんも喜ぶ」
彼の優しい表情を見ていると、不思議と安心感が胸に広がってきた。
お互いに言葉を交わさず、穏やかな空気がしばらく続くかと思ったが、ヒョウガくんは、少し間を置いてから静かに口を開いた。
「それと、教官からの伝言だ。今日訓練できなかった分、明日は厳しくするそうだ。しっかり休んで備えておけよ」
私は素直に頷きながら「分かった。ありがとう」と返した。
「じゃあ、またな」とヒョウガくんが軽く笑いながら言う。その笑顔に、安心感が広がるのを感じながら、私も「うん、またね」と微笑み返し、MDの通話を切るボタンに指をかけた。
電子画面が静かに消え、廊下には再び静寂が戻る。
──大気のマナ、もっと訓練しないと
ヒョウガくんの気遣いによる温かな余韻を残しつつも、頭の中を完全に切り替えるように、心の中で自身の決意を口にする。
渡守くんとの訓練のおかげで、大気のマナを30秒ほど使えるようになった。以前はわずか5秒しか使えなかったことを考えれば、これは大きな進歩だ。
この調子で、最低でも5分は使えるようにしなければ、と拳を強く握りしめた。
私が想定する最悪の事態──そんなことが起こらないに越したことはない。けれど、いざという時のために、私にできる限りの備えをしておく必要がある。
そう、改めて心に言い聞かせながら、明日の訓練に向けて自室へと足を向けた。