ph140 最悪な朝
なんて最悪な目覚めだろうか。全然疲れが取れていない。
隣で目を覚ました渡守くんも同じようで、疲弊しきった顔で体を起こしている。
私たちの手は、当然のように繋がれたままだった。黒いマナの制御装置ができるまでは、私の左手と彼の右手を離さずに過ごさなければならないのだ。
正直、気が重すぎる。
「……顔、洗ってきてもいいですか?」
「……おう」
渡守くんも手が離せないせいか、今日は素直についてくる。
昨夜の不毛な言い争いが響いているのかもしれない。任務の疲労に加え、トイレやお風呂の問題での口論でさらに消耗していたので、これ以上の面倒事はお互いに避けたいところである。
無言で洗面台へ向かう私に、渡守くんも繋がれたまま仕方なくついてきた。
特別強化訓練を行う私たちに用意された部屋は、ビジネスホテル並みの設備だったので、個室にシャワーや洗面台があるのが救いだ。
共同施設を使わなくて済むおかげで、他人の目を気にせずに過ごせるのは本当にありがたい。キッチンはないので食堂に行かざるを得ないが、今はそんなことを気にする余裕もない。
私は手を繋いだまま、片手で何とか髪をまとめようとヘアバンドをつけていると、渡守くんが無言で髪を掻き出してくれた。
そのまま歯磨き粉を差し出してきたので、右手でそれを受け取り、まずキャップを外す。それから、キャップを洗面台の空いている場所に置き、改めて渡守くんが持っている歯磨き粉を受け取る。
彼が歯ブラシを差し出してきたので、その歯ブラシに歯磨き粉をつけてあげると、渡守くんは黙々と歯を磨き始めた。
私はその様子を横目で見ながら、片手での洗顔は少し厄介だったが、何とか終える。
顔を拭き、ポンプ式の肌ケア商品を頼んでいて良かったと思いながらスキンケアを済ませると、今度は私が渡守くんに歯ブラシを差し出す。
すると、無言で私の歯ブラシにも歯磨き粉をつけてくれたので、私も歯磨きを開始する。
こうしてお互いに片手が使えない不便さを補いながら、何とか身支度を終えた。
このまま誰にも会わないように、早めに食堂に行って朝食を部屋に持ち帰ろうと、廊下に出るために扉を開けた瞬間──。
「サチコぉ! 偶ぜっ──」
私と渡守くんは反射的に、足を使って勢いよく扉を閉めた。そして、ほぼ同時に二人で鍵をかける。
「こんっつっっの! ふざけんなよ! なんであのイカれ坊ちゃんが部屋の前にいんだよ!!」
渡守くんは、声を押し殺しながらも怒りを隠しきれない様子で叫んだ。
私も、クロガネ先輩がここにいるとは思ってもみなかったので、慌てて「知らない、知らない、知らない!」と激しく弁明した。
「そんなの私が聞きたいくらいですよ! なんであの人ここにいるんですか!? なんでよりにもよってこのタイミングなんですか!?」
「知るか! テメェ一人で聞いてこい!!」
渡守くんは左手で顔を覆い、肩を落とす。絶望的な空気が一気に漂った。
「最悪だ……一番最悪なパターンじゃねェか……」
私もその言葉に無言で同意した。ここまでタイミングが悪いなんて、冗談で済ませられるレベルじゃない。
「クソがっ! このままだと、あの化け物に100パー絡まれんじゃねェか! どォしてくれんだテメェ!!」
渡守くんの苛立ちが頂点に達した。私もどうしたらいいか考えるが、すぐに浮かぶ妙案なんてない。
数秒考えた末に、私は苦し紛れにグッと親指を立てた。
「骨は、拾います……ふぐっ!」
しかし、私の返答は渡守くんの気に障ったらしい。顔を掴まれ、両頬を強く潰されるように握られた。
痛みとともに渡守くんの不満が伝わってくる。
「……サチコちゃんよォ。あんだけ俺から離れねェっつってたくせに、そりゃちィと薄情すぎやしねェかァ? あ゛ァ゛?」
「やはり、どんなに大層な誓いを立てようと、所詮は口約束。ここらが潮時のようですね。さようなら、お元気で」
「テメェにゃ一夜を共にした相手に対する情はねェのかよ」
「知らないんですか? 女の愛は上書き保存なんですよ」
白々しく話を逸らしていると、渡守くんの表情がぐっと険しくなり、ぷつんと血管の切れる音が聞こえた。
「いい加減にしろよテメェ! ゴキブリ共から助けてやったってェのに! もう忘れやがったのかこのクソアマァ!!」
「それはそれ! これはこれです! そもそも、黒いマナの暴走を止めてあげてるんですから、これでお相子じゃないですか!」
「鈍臭ェテメェを庇ってやったんだろォが!!」
「誰もそんなこと頼んでません〜! 渡守くんが勝手に庇っただけですぅ!!」
まさに、売り言葉に買い言葉。
言い争いはエスカレートし、互いにヒートアップしていく。声を抑えることも忘れ、口論は止まらない。
「というか、君どんだけ寝相悪いんですか!? 私、何度もベッドから落ちかけたんですけど!?」
「はァ!? テメェこそ無駄に長ェ髪しやがって! 風呂入る時にゃまとめるのを手伝えだの、乾かすのにドライヤー持てだの、注文が多すぎんだよ! ンな邪魔臭ェモン切っちまえ!!」
「はぁ!? そういう渡守くんだって! なんで使った物を散らかしっぱなしにするんですか!? なんでちゃんと元の場所に戻せないんですか!? 普通戻すでしょ!? 信じられません!!」
「あ゛ァ゛!? テメェこそ! 洗面台を一人で長時間使いやがって! その陰気臭ェ面が変わる訳でもあるめェし待たされるこっちの身にもなりやがれ!!」
顔が至近距離に迫り、額がぶつかる。互いの怒気が交錯し、激しい火花を散らすように睨み合う。
「ハッ、虫如きにピーピー喚いていた癖に粋がるじゃねェか。もっぺん泣きベソかかせてやろォか? あ゛ァ゛?」
「そういう君こそ、私に負け越してる癖に、よくそんなに強がれたもんですね。これ以上黒星増やしてどうするんですか? 天の川でも作るんですか?」
「ンだとゴラァ! 上等だテメェ、表出やがれ!!」
「やらいでかっ!!」
二人で怒りに任せ、勢いよく扉を開けたその瞬間──
「サチ、コ……? 今の話は、どういう……」
…………やべっ、先輩がいたことすっかり忘れてた。
いつもなら活気に溢れているアイギスの社員食堂。しかし、今日は異様な雰囲気が漂い、誰も近寄ろうとしない場所があった。
私はその場所で、まるで客寄せパンダのように周囲から熱い視線を浴びながら、なんとも言えない気分で朝食を取っていた。
おかしいな? いつもは美味しいご飯のはずなのに、今日は全然味がしない。
私の左手は、まだ渡守くんの右手を握ったまま。そして、右隣には私に甘えるようにくっついているクロガネ先輩。
「サチコ、大丈夫か? 片手で食べにくくないか? なんだったら俺が食べさせてやろうか?」
「あ、大丈夫です。お構いなく」
そして、左隣には渡守くんを挟んで、心配そうにこちらを見ているヒョウガくん。
「影薄、無理はするなよ。片腕じゃ不便だろうし、俺にできることがあれば何でも言ってくれ」
「いえ、本当に大丈夫なので」
二人とも、いつも通りの調子で話しかけてくるけど、私の目に映るのは──渡守くんの首元に狙いを定めたクロガネ先輩の巨大な両刃剣と、渡守くんの頭に押し付けられたヒョウガくんの銃口だった。
「だあああああ! ウッッッゼェんだよ!! いい加減にしろよテメェらっ!」
ついに我慢の限界に達した渡守くんが立ち上がろうとしたその瞬間、ヒョウガくんの銃声が鋭く響き、クロガネ先輩の両刃剣が一瞬で渡守くんの動きを封じた。
「何をそんなに騒いでいる。TPOをわきまえろ」
「サチコが食ってんだよ。見て分かんねぇのか」
……お前ら、こういう時だけは、やけに息が合うんだな。
渡守くんと激しい口論の末、勢いよく外に出てクロガネ先輩と目が合った時は、「終わった」と瞬時に悟ったが、必死に事情を説明し、なんとかその場を収めることができた。
そうして安心したのも束の間、今度はタイヨウくんたちと一緒に歩いていたヒョウガくんと出くわした。
渡守くんと手を繋いでいただけで、彼があそこまで取り乱すとは予想外だったが、最終的にはなんとか納得してくれた。
渡守くんは、完全に不憫な立場になってしまったが、今ここで私が余計なことを言えば、事態はもっとこじれるのが目に見えている。彼のことを思えば申し訳ないけれど、ここは静観がベストだろう。
だから私は、何も言わずにフォークを握り、黙々と朝食を取り続けることにした。食堂の空気はピリピリしているが、気にしないように努めている。
味がしない……いや、単に気分のせいだろう。
いっそのこと、ここから逃げ出せたらどれだけ楽かとも思うが、それもできない。そんなことを考えながら、私はただ無心でフォークを動かし続けた。
「クソがっ! なんで俺がこんな目に合わなきゃなんねェんだ!!」
渡守くんの声がだんだん大きくなり、ついに私に矛先を向けようとした瞬間だった。
「バカ女! テメェ、コイツらをなんとかしや──」
その言葉が最後まで出る前に──ズドン! とクロガネ先輩の両刃剣が渡守くんの焼き魚に突き刺さり、同時にヒョウガくんのハンドガンに装着された銃剣が、別の皿に並んだ料理を貫いた。
重い音が食卓に響き渡り、2つの武器がまるで息を合わせたかのように渡守くんの朝食を襲った。
「サチコの邪魔すんなっつってんだろ」
「貴様は大人しくこれでも食っていろ」
皿ごととは……斬新だな。
どういう原理かは分からないが、床に落とす事なく、綺麗に武器に突き刺さった料理は、皿ごと渡守くんの前に差し出された。
随分と物騒な「あーん」だな、と内心突っ込みながら、私はゴクリとエッグベネディクトを飲み込んだ。そして、ちらりと時計を確認し、そろそろかなと当たりをつけた。
「先輩」
「サチコっ! なんだ? 食べさせてほしいのか!?」
「違います。あと5秒ですよ」
嬉しそうに私を見ながらカトラリーを用意する先輩を尻目に、私は淡々とカウントダウンを始める。
先輩は何のことか分からない様子で首を傾げていたが、私が「ゼロ」と告げた瞬間、それは起きた。
「クソガキぃ! 1時間だよ!!」
「てめっ! くそばっぐベぇ!」
アカガネ教官の見事な飛び蹴りが、先輩を豪快に吹き飛ばす。そのまま床に転がった先輩は、苦しそうに身をよじりながら、「ふざけんなてめぇ!」「何邪魔してくれてんだ!」と口汚く叫んでいるが、教官は無表情のまま彼を問答無用で引き摺っていく。
先輩の手が床を掻く音が、食堂に小さく響いた。
……よし、これでひとまず一番の脅威は去った。私は、安堵の息をつきつつ、次に視線をヒョウガくんへと向ける。
「どうした、影薄?」
「任務は大丈夫なの?」
ヒョウガくん、タイヨウくん、シロガネくんのいつものメンバーが一緒に歩いていたのは、総帥から任務の呼び出しがあったからだと聞いていた。なので、ヒョウガくんはタイヨウくん達を先に行かせ、自身は任務を言い渡された彼らと合流するという事でここにいたのだ。
そのことを指摘すると、ヒョウガくんは一瞬顔をしかめ、視線を落とした。なんとも言えない微妙な空気が漂う。
「もう、総帥からの任務説明も終わった頃なんじゃない? こんなところで、油を売っていていいの?」
「それは……だがっ! お前がコイツと二人きりになるのが心配なんだ!」
突然、彼の声が熱を帯びた。まるで感情が溢れ出すのを止められないかのように、言葉が強く響く。
私はその必死な様子に少し苦笑を浮かべた。
「大丈夫だよ。これから訓練だし、渡守くんと二人きりになることはないよ。ケイ先生から今日中に制御装置が完成しそうだって連絡もあったしね」
そう言って、「ほら」とMDの画面を見せる。
彼の表情が一瞬変わった。何か考え込むような、躊躇するような複雑な顔。それでもすぐにその感情を隠すように、曖昧な表情に戻した。
「それに、そんなに心配しなくても、所詮渡守くんだし、なんの問題もないよ」
わざと軽く言うと、案の定、渡守くんが青筋を浮かべながら反応した。
「……どォいう意味だてめェ」
彼の怒りが込められた言葉が、空気をわずかに震わせるが、私はそれをあえて受け流す。
「そう、か……そうだな」
ヒョウガくんは納得したように頷いたものの、その視線はどこか遠く、まだ心配そうな気配を漂わせていた。
「お前がそこまで言うなら、信じよう……だが、何かあったらすぐに俺に連絡しろ。もし渡守センにいじめられたら、迷わず俺を呼べ。いいな? それから、片手だからって食事を抜くなよ。食べにくいなら他の女子に手伝ってもらえ。分かったな?」
お前は私のお母さんか。
まるで手のかかる子供を心配するかのように、何度も念を押してくるヒョウガくんに、私は適当に相槌を打ちながら応じた。
彼が名残惜しそうに何度も振り返るたびに、私は「早く行け」と目で催促しつつ、その背中を見送った。
そうして、2人の姿が完全になくなり、場が落ち着いた事で、渡守くんがダルそうに椅子の背もたれに寄りかかった。
「……散々な目にあったわ」
「日頃の行いでは?」
「テメェに言われたかねェ」
渡守くんは、イライラしながら言い返してきたが、私の言い分も、あながち間違いではないと思う。
おそらく、私の手を繋いでいた相手がタイヨウくんとかだったら、こんな事にならなかっただろう。
……まぁ、先輩は微妙なラインかもしれないが、確実に、ヒョウガくんはここまで突っかかる事はなかったと断言できる。
「もっとタイヨウくんを見習ったらどうですか?」
「タイヨウくん、ねェ」
私の言葉の意図が伝わったのだろう。渡守くんは微妙な顔をしながら、串刺しにされた焼き魚の残りにがっついた。
「ヒョウガくんもかわいそォになァ。あんなにアピールしてんのに、当のご本人にはまるで伝わってねェワケだ」
渡守くんはバリバリと音を立てながら、硬い骨まで構わず魚を咀嚼している。いつもながら、雑な食べ方だ。
「いや、ヒョウガくんはそんなんじゃないですって。アレは、私のことを妹かなんかだと思ってますよ。絶対」
渡守くんの言いたいことも、まったく分からないわけではない。
しかし、ヒョウガくんの視線や仕草から、私はこれまで一度も恋愛感情を感じたことがなかった。
むしろ、あれはまるで兄が妹を守るかのような、そんな家族愛に近い過保護さだと私は感じている。……私の精神年齢を考えると、複雑ではあるが。
「妹ねェ」
渡守くんは、まだ納得いってなさそうに、無事だった味噌汁を一気に啜り、その器を机の上に置く。
「まっ、俺には関係ねェけどな。お前の本命は、どォせあのイカれ坊ちゃんだろ」
「はっ倒しますよ」
冗談めかして言ったつもりだったが、自分でも少し力が入っていたのがわかる。
渡守くんの言う「あのイカれ坊ちゃん」、クロガネ先輩を絡めた話には、いつも妙に神経が尖ってしまう。
どれだけ否定しても、彼に対する周囲の誤解やからかいは終わらない。面倒だな、と心の中でため息をつきながらも、渡守くんの軽口をいつものように流した。
「いい加減にしてください。君まで先輩を推すんですか? 流石に怒りますよ」
「あ? 気づいちゃいねェのか?」
「……何がですか?」
渡守くんは不自然に言葉を止め、じっと私を見つめる。
「…………ま、どっちにしろ俺には関係ねェことだ」
おい、待てよ。なんだよ今の間。言いかけたなら最後まで言えよ。不安になるでしょうが。
何だよ。もしかして、私の無意識な言動に誤解させるような何かがあるのか? それなら教えてくれよ。全力で直すから。
しかし、期待を込めて渡守くんを見つめても、彼はそれ以上語らず、黙々と食事を続ける。最後に砂糖がたっぷり入ったコーヒーを飲み干し、重たそうに椅子から立ち上がった。
「オラ、さっさと訓練行くぞ。そんで、制御装置を貰ったらテメェとの最悪な共同生活ともおさらばだ」
「ちょっ! 引っ張らないでくださいよ!!」
渡守くんに引っ張られながら、私は足を速めて彼のペースに合わせるしかなかった。
彼の右手と私の左手が繋がれたまま、まるで鎖でつながれた囚人のように、互いに息を合わせて進むことが強いられる。
「そんなに急ぐ必要あります? まだ時間はあるんですよ」
「あるからって、テメェと余計な時間を共有したいわけじゃねェんだよ!」
渡守くんは少し乱暴な口調でそう言いながら、目はまっすぐ前を向いている。その横顔は、いつもの無愛想な表情だったけど、どこか焦りが感じられる。
なんだかんだ言いながら、彼もこの奇妙な状況が嫌で仕方ないんだろうなと私は思う。
「ま、もう少しの辛抱なんで、耐えて下さいよ」
私は少し笑いながら言った。すると、渡守くんは、一瞬だけ私を見たかと思うと、直ぐに視線を前に戻した。
「……ハッ、そォだな。せいせいすらァ」
彼は最後にそう言うと、何も言わなくなった。
二人で廊下を進みながら、妙に静かな空気が流れる。これまでのことを思い返しても、一晩とは思えないほど濃密だった気がする。
制御装置が完成すれば、この奇妙な共同生活も終わる。そう考えながら、私は一歩ずつ渡守くんに引っ張られるまま、トレーニングルームへと向かった。