ph139 先祖返り
渡守くんと二人、私のマナ感知能力を頼りに歪みの中をさまよい続け、ついにその外へ抜け出すことができた。
辿り着いたのはネオ東京自然保護公園だった。
周囲を見渡すと、すでに深い夜の闇が広がっている。
10月の終わりを迎えた冷え込みは厳しく、冷たい夜風が肌を刺すように吹きつけていた。木々はすっかり葉を落とし、枯れ枝が風に揺れてカサカサと音を立てている。
空気は澄んでいるが、冷たさが肌にしみ込むようで、季節の移り変わりを強く感じさせる夜だった。
無事に人間界に戻れたことに、私たちはホッと胸を撫で下ろす。もう繋いでる必要はないと判断した私は、そっと手を離して立ち上がろうとした、その瞬間だった。
渡守くんの右腕の袖がバリッと音を立てて裂け、不気味な模様が腕全体に浮かび上がった。
腕はまるで錆びた鉄のような色に変わり、形もかろうじて原型を留めているだけで、もはや人間の腕とは言い難い異様な姿へと変貌していた。
「ええっ!?」
思わず叫ぶ私。渡守くんも「はァ!?」と声を上げ、戸惑いと困惑の表情を浮かべている。
慌てて彼の右手を握り締めると、模様はすぐに薄れ、肌の色も腕の形も正常に戻った。
なんだ、一時的な物かとほっと息をつき、手を離した途端、再び彼の腕が変異し始めた。再度慌てて触れると、また元の状態に戻る腕。
な、なんだ!? 渡守くんに何が起こっているんだ!?
この奇妙な現象に戸惑い、何度も触れては離すを繰り返していると、渡守くんから「遊んでんじゃねェ!」と怒鳴られた。
私は焦りつつも、真剣な表情で「そこまで不謹慎じゃないですよ」と言い返した。
渡守くんは私の返答に対して軽く舌打ちをし、それ以上は口に出さなかったものの、苛立ちを隠せず足元で貧乏ゆすりを始めた。
どうやら、私が手を離すと渡守くんの腕が変異してしまうらしい。多分、この症状はアレスが原因であることは間違いないが、それ以上のことは分からない。
とりあえず、このまま放置するのは危険だし、私が彼の手を握り続けることで変異が抑えられるなら、手は繋いだままの方がいいだろう。
渡守くんも現状を把握したのか、私が手を握っていても文句を言わず、ムスッとした表情で黙っている。
けれど、これはあくまで応急処置に過ぎない事はお互いに分かっていた。本来なら、もっと根本的な対策が必要だが、私達にはこれ以上の妙案が浮かばない。
これはケイ先生に相談すべき案件だと判断し、私たちはしっかりと手を握ったまま、足早にアイギス本部へと向かった。
アイギス本部に戻り、ケイ先生に会うよりも先に、総帥に報告をした方が良いだろうと考え、疲れた顔で執務室のドアを開ける。
すると、そこには意外な先客がいた。タイミング良く、ケイ先生が総帥と話をしていたのだ。
扉の開く音に反応して振り返ったケイ先生は、私たちの姿を見つけると、柔らかな表情を浮かべた。
「あ、二人とも! 無事でよかっ──」
しかし、不意に止まる言葉。ケイ先生の熱い視線が、私たちのしっかりと繋がれた手に注がれていた。
「……君たち、そんなに仲が良かったっけ?」
「違います!」
「違ェわ!!」
私と渡守くんは、声を揃えてケイ先生の誤解を否定した。
百聞は一見にしかず。説明するには実際に見せた方が早いと判断し、私は渡守くんに了承を取るようにアイコンタクトを送ってから、ゆっくりと手を離した。
その瞬間、渡守くんの右腕に不気味な模様が浮かび上がり、腕が異様な形に変化し始める。
「その腕はっ……!?」
ケイ先生の表情が驚きに変わる。私は急いで渡守くんの手を握り直し、彼の腕を元に戻した。
その一連の動作を見て、ケイ先生の顔から微笑が消え、真剣な表情で私たちを見つめた。
「一体、何があったんだい?」
ケイ先生の声には、いつもの優しさに代わって、深い緊張感と真剣さが漂っている。
私は一瞬、言葉を選びかねたが、静かに状況を見守る総帥の方にも視線を向けながら、意を決して口を開いた。
「実は──」
任務の報告を終えると、総帥は「なるほど。新たな七大魔王か……」と小さく呟いた。
「はい。それで、脱出するためにやむを得ず歪みを修復せずに帰還しました。申し訳ありません」
「いや、貴公の判断は正しい」
私の行動をあっさりと肯定した総帥の目には、深い考えが伺える。
「むしろ、これは好機だ。歪みが修復されず、瓦礫の中に埋もれたのならば、我々はその場所で大規模な発掘作業を行う必要があるだろう」
総帥の言葉には、明確な意図が込められていた。私はその意図に気づき、思わず顔を上げる。
「アイギスとして、危険な歪みを放置する事はできないからな」
確かに、あの歪みは非常に大きかった。
ネオアースへの負担も相当なものであるはずだ。だからこそ、歪みを放置することはできない。
しかし、その歪みは瓦礫の下に埋もれている。だからこそ、瓦礫を撤去し、歪みを修復するための大規模な発掘作業を行う必要があるのだ。
そして、その作業を進める過程で、あの施設に対する詳しい調査を行うことができる──誰にも怪しまれることなく。
「して、他に気になることはないか?」
総帥が静かに問いかける。
「そう、ですね……あ、そういえば、アレスが『先祖返り』がどうとか言って──」
「先祖返りだって!?」
突然、ケイ先生が驚いた声を上げ、私の言葉に鋭く反応した。普段穏やかな彼の表情が、一瞬にして緊張感に包まれる。
「アレスが先祖返りと言っていたのかい!? 他に、先祖返りについてアレスが何か言っていなかったかい!? どんな些細なことでもいいんだ!」
ケイ先生が勢いよく詰め寄ってくる。その勢いに圧倒され、私は思わず一歩後ずさる。
「い、いえ! 特にそれ以上は……ただ、データを取りたかったとか、そんなことを言ってましたけど……」
「データを……取る……」
ケイ先生はその言葉に反応し、私をじっと見つめる。その表情は、何かに気づいたようなものだった。
「もしかして、アレスは……君のことを先祖返りだと言っていたのかい?」
「え?」
ケイ先生の声がかすかに震えているのを感じる。私は意味が分からず、ただ彼を見返すことしかできなかった。
そんな中、突然の咳払いが静寂を破った。
「刺刀」
総帥の落ち着いた声が響き、ケイ先生が我に返る。「わっ! ご、ごめんよ」と慌てて謝罪し、私から距離を取った。
「他に、先祖返りについて何か情報を得たのか?」
総帥が低い声で問いかける。その表情には深い思索が垣間見えた。
「いえ、本当にその言葉だけで……特に詳細は……」
私が言い終わると、総帥は短く頷き、再び何かを考え込むように目を細めた。
「そうか……」
彼が言葉を切ると、室内には一瞬、重苦しい沈黙が訪れた。私はこのままではいけないと感じ、思い切って尋ねた。
「あの、先祖返りって一体何なんですか?」
私の問いかけが空間を満たすと、その場の空気が一層冷え込んだように感じた。
誰もが一瞬動きを止める。嫌な沈黙が部屋を支配し、言ってはいけないことを口にしたのではないかと後悔し始めたその時、総帥が静かに口を開いた。
「いずれは知ることになる話だ……」
総帥は、一拍置いてからゆっくりと語り始めた。
「遥か昔の話だ……紀年法が精暦ではなく、西暦が使われていた時代。我々人類はネオアースではなく、地球と呼ばれる星に住んでいた」
……西暦? 地球と呼ばれる星?
その言葉に、私は心の中で強く反応した。
地球という単語がこの世界にもあるのは知っていた。精暦という言葉も、西暦にちなんでつけられたのだろうと、アニメではよくある事だと聞き流していた事柄だった。
けど、総帥の言葉は、そんな簡単に流せる雰囲気ではなかった。知っているはずの名前が、ここで突然現実のように語られていることに、信じがたい思いがこみ上げてくる。
「突如として現れた精霊と、マナという未知の力。それは人々を混乱させたが、やがて時代と共に人々はその存在に順応し、共存を果たしていった」
どうしよう。これ以上聞いてはいけない。
頭の中に警報が鳴り響く。今まで信じていた世界が、次々と崩れていくような気がしてならない。
「かつて地球にいた頃、すべての人間はマナを自在に扱うことができた。中には大気のマナを操るほどの力を持った者もいたのだ」
総帥の声が、私の耳に重く響く。
この世界がアニメのような虚構だと信じ込んでいた私にとって、あまりにも現実的な語りは拒絶したいものであった。
「そして、地球が消滅の危機に直面した時、三大財閥の祖先たちが大気のマナを使い、ネオアースという新たな世界を創造した。それによって、人類は地球を離れ、ネオアースに移住し、今の時代に至ったのだ」
ー1枚のカードが新たな地球を創造し、今のネオアースが誕生したー
小さな頃からよく授業で聞いていた話だった。
カードバトル系のアニメの世界だし、やりすぎだが、そんな物なのだと受け入れた時の頃が懐かしい。
さすがホビアニ、ぶっ飛びすぎだろとツッコミを入れていたのに、今は違った響きに聞こえた。
頭が混乱し、思考がまとまらない。
「ネオアースに移り住んだことで、人類はマナを扱う力が次第に衰えていった。しかし、ごく稀に、地球時代並みの力を持つ者が生まれることがある」
総帥の言葉が続く。私の心はざわつき、不安が募る。
「だが、そういった者たちは、ネオアースの環境に適応できず、病弱で短命なことが多い。特に、大気のマナを操るほどの力を持つ者は、幼くして命を落としている」
思い出すは、過去に病弱で学校に通えなかった自分。そして、病気がちになったタイミングは────過去の、前世の記憶を思い出した時だった。
「幼いうちにその力を完全に制御できるならば問題はない。実際、天眼家の当主のように、マナを巧みに扱える者がいる事がその証拠だ。しかし、大気のマナを操るとなると話は別だ。生まれたばかりの赤子が自らの意思を持ち、その力を完全に統御できなければならない。だが、それは到底不可能な話だ。夢物語でしかない。故に、我々は大気のマナを操れる存在を畏敬の念を込めてこう呼んでいるのだ──先祖返りとな」
この世界への拒絶反応で発熱したと思っていたけど……もし、もし仮に、ここがただの異世界ではなく、私が生きていた世界の未来だとしたら?
そして、前世の記憶が目覚めたことによって、先祖返りの力が発現し、影法師の加護によってその力を抑えていたのだとしたら……?
その可能性が頭に浮かぶたびに、胸の奥で嫌な予感が募る。
最初は単なる推測だったはずが、もはやそれ以上のものに感じられた。すべての出来事が、あの仮説を証明するかのように目の前に広がり、それが正しいことを示しているようで、恐ろしくて仕方がなかった。
「が、一応確認をとっておこう」
──あぁ、お願いだから聞かないで欲しい。
「貴公は、大気のマナを操れるのか?」
その一言が、まるで地面を這うように私の心を重く圧し掛かる。声を絞り出そうとするが、言葉が喉の奥で絡まり、出てこない。「それは……」とうつむき、口ごもることしかできない。
やばい。このままでは私が大気のマナを操れることがバレてしまう。まだ先輩が「親父には知られるな」と言った理由もわからないまま、事の真実を迂闊に話すわけにはいかない。
「私、は……」
そう、私が言い淀んでいると、横から割り込む声があった。
「コイツがンな大層なモンなわけねェだろ」
渡守くんの声に驚いて顔を上げる。彼は無精そうに頭を掻いているが、私の目には、とても頼もしい存在に見えた。
「それに、データを取りてェとか言ってた奴が、その対象を消すわけがねェ」
助け舟を出してくれたのは渡守くんだった。彼は面倒くさそうにしながらも話を続ける。
「アレスの野郎は、独り言で研究内容をベラベラ喋る悪癖があんだよ。どォせ今回もその類だろ」
渡守くんの淡々とした説明に、緊張が徐々に解けていくのを感じる。
彼の言葉は、あまりに日常的な口調で、かえって心の重圧を和らげた。彼の無関心そうな態度が、逆に私を救ってくれたのだと実感した。
「つゥか、ンな事よりこっちの方が重要だろ」
渡守くんは、懐から一枚のカードを取り出すと、それを無造作に総帥へ向かって投げた。
総帥は全く動揺を見せず、冷静に片手でそれをキャッチする。
「奴がベラベラくだらねェ話をしてくれたおかげで盗れたぜ? 新しい七大魔王の情報がな」
渡守くんはニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべる。その不敵な表情に、私は思わず感心してしまった。
あの混乱の中でも、しっかりと重要な情報を手に入れているなんて、さすがだ。改めて、彼がただでは転ばないタイプだということを実感する。
「これ以上の報告はねェよ。俺らはあの七大魔王と戦り合ったんだ。さっさと休ませて欲しいモンだな」
渡守くんは疲れを隠しきれない様子で大きく息を吐いた。総帥は静かに頷きながら、ケイ先生の方へ視線を送る。
「刺刀、制御装置の用意はできるか?」
「過去にクロガネくんが使っていたものを改良すれば最短で準備できますが……今日中は難しいかと……」
ケイ先生は慎重に答えると、総帥は一瞬黙り込み、考え込むように視線を落としてから再び私たちに向き直った。
「ふむ。両名、此度の任務、ご苦労であった。渡守セン、貴公のその腕は黒いマナの暴走による可能性が極めて高い。だが、現時点では即座に対応できない。今日はそのまま部屋に戻り、休息を取れ。処置は追って行う」
「はァ!?」
「えぇ!?」
私と渡守くんは同時に驚きの声を上げる。
「ちょっと待ってください! このままで休むってことですか? お風呂やトイレはどうすればいいんですか!?」
焦りながら尋ねる私に、総帥は冷静に、「貴公らなら間違いは起こらないだろう」と返す。
「そォいう問題じゃねェんだよ!」
渡守くんが苛立ちを隠さずに反論し、その気持ちに私も全力で同意する。
信じられない。この状況で渡守くんと一晩を過ごすなんて、そんなラブコメ的展開、誰が予想できただろうか。
「ごめんね。一刻も早く準備するから、少しだけ我慢してくれないかい?」
ケイ先生は申し訳なさそうに言うが、私はどうしていいかわからず、「そんな……!」と頭を抱えた。
まさか冗談半分で言った「トイレまで付いて行ってやる」なんて言葉が現実になるなんて……。言霊という存在の恐ろしさを実感した。
「そうだ! エンラくん! エンラくんならどうですか!?」
私は急に閃き、提案した。
もし、私が渡守くんの黒いマナを抑え込めるなら、マナコントロールに優れたエンラくんだって同じようにできるはずだ。
それに、同性の方が色々と問題が少ないだろう。期待を込めて二人の顔を見たが、同時に「無理だな」と即座に却下される。
「どうしてですか!?」
「渡守センの黒いマナが抑えられているのは、貴公だからだ……」
「でも、エンラくんが上手くマナコントロールすれば何とかなるんじゃ……」
「う、うーん。そういう問題じゃないんだよ」
ケイ先生は少し言いづらそうに、私たちを見つめた。
「とにかく、サチコちゃん。それは君にしか出来ない事なんだ……だから、まぁその……頼むよ?」
ジーザス! 私にしかできないってどういうことだ!? そんな曖昧な言葉で納得できるか! 詳細な説明を所望する!!
「貴公にはクロガネがいる。故に、間違いは起こらないとは思うが……まぁ、よろしく頼む」
おい。何で2回も同じことを言った?
それに、クロガネ先輩がいるから何だって? それこそ、そんな間違いが起こるわけないだろうが。はっ倒すぞ。
結局、渡守くんと何度も抗議したが、無情にも全て却下され、最終的には二人とも問答無用で執務室から追い出されてしまった。
渡守くんは、片手で顔を覆いながら、深い溜息をつき、『最悪だ……』とかすれた声で呟いた。
彼の肩は大きく落ち込み、まるでこの状況そのものに打ちのめされたかのようだった。それに対し、私はジト目で「こちらのセリフです」と言い返した。
「でも、決まってしまった以上、仕方ありませんね……で、どっちの部屋で寝ますか?」
再び、沈黙が二人の間に訪れる。
しばらく悩んだ末に、先輩やヒョウガくんに見つかるのが一番厄介だという結論に至り、男部屋は避け、私の部屋で休むことになった。
──この後、お風呂やトイレ問題で一悶着あったが、疲れたし、ここではその話は割愛する事にしよう。