ph132 クロガネの限界
私は今、胡座をかいている先輩の足の上に座らされ、ぎゅうっと抱きしめられていた。
「先輩! 引っ付きすぎです!!」
「サチコぉ」
必死に抗議しても、先輩は甘えるように私の名前を呼び、離れる様子がない。
「私、汗かいてるんです! 離れてください!」
汗ばんだ肌が密着して不快だろうと主張しても、先輩は無視してさらに抱きしめてくる。
「サチコぉ!」
「ちょっ!? なんでもっとくっつくんですか!!」
私は全力で先輩を押し返そうとするが、その腕はまるで鉄のように強固で、全く動かない。
ええい! 鬱陶しい!!
何を言っても「サチコ」しか言わないし、何がしたいんだコイツは!
私がこうして先輩に抱きつかれている経緯を簡単に説明するならば……。
今日も今日とてトレッドミルの上で全力ダッシュをしていた。毎日続けている成果か、足も速くなり、体力もついてきた。
アカガネ教官から課せられるメニューも増え、マシンを使った筋トレも取り入れるようになった。おかげで全体的なフィジカルも向上している。
教官に休憩だと指示され、氷を舐めてから回復薬を飲んでいると、突然アカガネ教官から至急、説教部屋まで来るようにと呼び出された。
説教部屋だって!? 私、何か悪いことした? 身に覚えがないんですけど!?
そう困惑しながらも、逆らったら後が怖いからと渋々説教部屋まで行くと、不機嫌そうなアカガネ教官が、腕を組みながら待っていた。
近付き難い雰囲気を放っている教官に、今から何を言われるんだと身構えていると、呆れたように長い長いため息をついてから「アンタはここで1時間休憩してな」と言われた。
休憩? 1時間も? 説教部屋で?
教官の意図が分からず、クエスチョンマークを浮かべつつも取り敢えず中に入るかと扉を開くと、可視化できる程の黒いマナを纏い、うつ伏せに倒れている先輩の姿が目に入った。
「先輩!?」
どうしてあんな姿に、もしかして、黒いマナが暴走したのかと心配で駆け寄る。
先輩の側にしゃがみ込み、「大丈夫ですか!?」と声を掛けると、先輩の指がピクリと反応した。
「サチ、コ?」
ゆっくりと顔を上げながら発した声はかすれ、私の名前を呼ぶのが精一杯のようだった。
「そうです。サチコです。どうし──」
「サチコおおおおおおお!!」
私を認識した先輩は、黒いマナを消散させながら勢いよく起き上がった。私は先輩の行動に驚いて叫び声を上げるが、正面から抱きしめられ、強制的に声が出せなくなった。
ベタベタとくっついてくる先輩を引き剥がそうと顔を押しても、効果はない。そのまま胡座をかいた先輩の足の上に、横抱きされるように座らされた。
「あぁもう! さっきから何なんですか!」
「サチコ、サチコサチコぉ……」
「鳴き声みたいに人の名前を呼ばないで下さい!!」
そんなこんなで冒頭に至るのだ。
何を言っても人の話を聞かずにひっついてくる先輩。それでも挫けずに必死に訴え続けていると、押し問答の末、私の名前の連呼を止めさせる事に成功した。しかし、これで落ち着けると安堵したのも束の間。
「10日だ」
私は一瞬、何のことか理解できなかった。
「……10日?」
「10日も! サチコに会えなかった!!」
「……はぁ」
先輩が言った言葉に、思わず気の抜けた声が出た。
「あんのくそババァ……尽く邪魔しやがって! 10日も会えないなんざ、どんな拷問だ? もう無理だ。これ以上離れたら死ぬ。サチコが足りねぇ。サチコと離れたくねぇ……サチコぉ」
先輩は、少しの隙間も嫌だと言わんばかりにひっついてくる。そして、私の名前を呼び始め、また振り出しの状態に戻ってしまった。
これは何を言っても無駄だと悟った私は、1時間したら教官が迎えに来てくれる事に期待して、自力で抜け出す事を諦めた。
私は、先輩に何度も名前を呼ばれながら、適当なタイミングで相槌を打つという虚無な時間を過ごしていた。
……まだ1時間経ってないのか? 体感的にはもう3時間ぐらい経ってるんですけど?
そう、遠い目をしながら何度も時計を確認していると、先輩に服を引っ張られた。
「サチコ、サチコ」
「はいはい、なんですか?」
「なんでもいい、なんか話してくれ。サチコの声が聞きてぇ」
「え、えぇー」
急に話せと言われても無茶振りすぎる。
せめて話題を振ってくれ。声が聞きたいと言われても、対応に困るだろうが。何だ?昔話でもすればいいのか?
……いや、やめとこう。この世界の昔話は色々とおかしい。桃太郎がマッチで鬼を倒してるし、お供の犬、猿、雉はカードの精霊だった。
道端で拾ったモンスターカード全てに精霊が宿ってるとかあるか普通? そもそも、その辺に落ちてたカードでデッキが構築できてたまるか。デッキは全て拾ったとか舐めとんのか。
昔話は除外だと思考の海から追い出し、他に何かあるだろうかと色々考え、ふと気になっていたけど聞けていなかった事を思い出した。
「そういえば、教官が没収したと言っていた私の写真とか動画はいつ撮った物なんですか?」
「!?」
先輩の肩が大袈裟に揺れる。
怖くて確認していなかったが、まさか本当に盗撮なのか? と冷ややかな目になると、先輩が慌てて弁明をする。
「ち、違ぇからな!? 動画は前の訓練のやつだし、写真はサチコと出かけた時に撮ったやつだからな!? やましい事はしてねぇ!」
「……ボイスレコーダーはどう説明するんですか?」
先輩の言う通り、写真や動画に関しては心当たりはあった。けれど、ボイスレコーダーはマジで知らん。実は盗聴してましたって話なら洒落にならんぞ。
先輩も、ボイスレコーダーに関しては言いづらいのか口籠もっていが、やがて、観念したようにポツリと呟く。
「かげ、法師……」
「影法師?」
突然出てきた影法師の名前に、まさか影法師に何かしたのかと疑っていると、先輩が続けて言った「影法師が羨ましかった」という言葉に驚く。
「俺も、影法師みたいにサチコに褒められたかった……ただ、お前に……褒められたくて、認められたくて……」
先輩の声はだんだん小さくなり、まるで懺悔するように続けた。
「たまたまだったんだ。偶々、お前との通話が録音されてて……凄いですねって、そう言ってくれたのが残ってたんだ」
あぁ、そうだったな。この子はそういう子だったと、私は先輩と出会った時の記憶を思い出しながら、先輩の言葉を静かに聞く。
「消さなきゃいけねぇのは分かってたんだ……けど、お前の言葉が嬉しくて、消せなくて……嫌な事があった時とかにひとりで聞いてた」
先輩と初めて会った時、彼は家族に認められたくて、誰かに見て欲しくて、がむしゃらにマッチをしていた。
負ける事を人一倍恐れているのに、強くなる為に、その恐怖を克服して何度も私に挑んでは負けて、最後に勝利を掴んだ。
今では私やタイヨウくん達が全然勝てないぐらいに強くなっている。
「悪い、本当……気持ち悪ぃよな。本当にごめん。すぐに消さなくてごめん、返ってきたらちゃんと消すから……不安なら、お前の目の前でちゃんと消すから……だから俺を──」
「先輩」
私は先輩の頭に優しく手を置いた。
「先輩はとっても凄いです」
私の言葉に、先輩は驚いたように顔を上げる。
「サ、チコ……」
私は先輩の頭を優しく撫でながら、言葉を続ける。
「先輩が誰よりも努力している事を知っています。その強さも、先輩の血の滲むような努力による物だって知ってるんです」
そうだ。私は知っている。この子がどれだけ努力をしているのかを、黒いマナのせいで、どれだけ辛い思いをしてきたのも知っているのだ。
「どんな困難な状況でも、立ち向かっていく先輩を尊敬しています。総帥の代わりにアイギスを率いていた時も、凄いと思いました。誰にでもできる事ではありません。先輩だからできたんだって思ってます」
先輩の瞳が揺れる。それに気づかない振りをしながら、私は表情を緩めた。
「先輩は本当に凄い人です。とっても頑張っててえらいです。私が知る中で、誰よりも一番えらい子です」
先輩は見られたくないのか、歪む表情を隠すように私の胸に顔を埋めた。
私は先輩を受け入れるように頭を優しく抱え、そっと撫でる。
「私に認められたいなんて……そんなの、とっくに認めてますよ。先輩がとっても強くて頼りになる事なんて、とうの昔から知ってます」
この子は、あまり自分の弱さを曝け出さない。強い言葉を使うのも、全部自分を追い込むためなのだ。
自分は誰にも負けないと口にしては逃げ場をなくし、そうある為に一生懸命努力している。
「だから私は、危険な事があっても立ち向かっていけるんです。先輩が側にいてくれるから、先輩が守ってくれるから安心して前に進めるんです」
先輩は強い。精神も身体も、ものすごく強い。
でも、例えどんなに強くても、先輩はただの中学生の男の子なんだと再認識する。
誰だって、ずっと頑張り続けるのにも限界がある。頼れる人がいない先輩は、いつ潰れてもおかしくない。
だから、私の言葉で先輩の心が軽くなるならと、声色を柔らかくし、一番伝えなければならない言葉を口にした。
「先輩は本当によく頑張ってます。でも、その分ちゃんと自分を労って下さいね。頑張ることは素敵ですけど、先輩が無理して倒れるのは嫌ですから」
私を抱きしめる強さが強くなる。
私は、とりあえず影法師を褒める時と同じ感じでいいのかなと頭を撫で続けていると、まるで痙攣するように体を振るわせた先輩が、勢いよく上体を起こした。
「サチコ!!」
「はい、なんですか?」
先輩と顔を見合わせる。先輩は真剣な瞳で私を見つめていた。
「……先輩?」
「サチコ、おれ……」
右手を、私の指と先輩の指が絡むようにぎゅっと握り締められる。熱を含んだような瞳見つめられ、嫌な予感がした。
「あ、あの、先輩? どうしたんですか? 手を離して──」
「サチコ……」
先輩の顔が近づいてくる。身を引こうにも、がっちりとホールドされてしまっては動けない。
まずい。不味いマズイまずい! この流れは非常に不味いぞ!
この雰囲気、この表情! 先輩が何を言おうとしてるかなんて、馬鹿でも分かる!
「先輩! ストップ! 一旦ストップです!」
場の雰囲気に流されて吐き出した言葉を、早々に後悔した。
他にも言いようはあっただろうと、もっとよく考えればフランクに、友情っぽい言葉で伝える手段もあっただろうに、心の中で対応を間違えた自分を責め立てた。
私の予想通りなら、このまま先輩の発言を許してしまえば、ジャンルが変わってしまう! ホビアニ系アニメへのギャグ転生物から異世界恋愛系ジャンルの世界になってしまう!
タイトルをつけるとしたら、ホビアニのライバルキャラからの溺愛が止まりませんとかか? いや、待てよ。先輩アフリマンになる可能性があったんだよね? だったら、ホビアニの最強ラスボス様の過剰な愛に戸惑ってますとかの方が適切か? って、何馬鹿な事を考えてんだ! どっちも嫌だわ!!
「俺はっ……俺はお前のこと、が……」
「ちょっ、まっ!? 先輩っ!!」
混乱のあまり、思考が明後日の方に飛んでいると、先輩に覆い被さるように迫られていた。
本格的にヤバいと、せめて決定的な言葉は聞いてたまるかと、空いている手で先輩の口を塞ごうとしたが、それよりも前に先輩の行動を止める声が響いた。
「時間だよっ!!」
「へげぶっ!!」
アカガネ教官が突然部屋に入ってきて、先輩に強烈な一撃を見舞った。先輩は吹き飛ばされ、そのまま床に転がる。
「きっかり1時間だ。休憩は終わりだよ」
内心助かったと安堵していると、教官は親指で扉を差しながら、吐き捨てるように言った。
「とっとと訓練に戻りな」
「あ、はい。わかり──」
「〜っこんの! くそババアあああ!!」
「甘いっ!!」
「ごぱぁっ!!」
教官の再びの一撃で、先輩は再び床に倒れ込んだ。私はその光景を見ながら、ただ呆然と座り込んでいた。
「たくっ、何ガキが盛ってんだい! 10年早いよ!!」
「なっ!? さかっ!? ばっ! 何言ってんだてめぇ!!」
「事実だよ!」
「げぼぁっ!!」
教官のアッパーが華麗に決まる。先輩は仰向けに倒れた状態で「ババァいつか絶対ぇ殺す」と呟いていた。
「アンタも! ボケーっとしてないで訓練に戻りな!」
「は、はいぃ!」
アカガネ教官から先輩を殴った拳を脅すように向けられ、慌てて説教部屋から出る。
結局、先輩がここにいた理由も、教官が私と先輩を合わせた理由は分からないが、深く考えるのはやめよう。今は訓練に集中するのが優先だと、急ぎ足でAルームまで戻った。