ユダヤの福音書 第九章
ユダヤの悪について。
9
1殿下の説教。
2人に跪拝する者達について。
3神の御子であるイエス・キリストの名において。
「人の求めに応じて人に落胆されたくないのは人間の始原の欲求です。」
4人間の偶像視こそ、このイスカリオテのユダの悪である。
5神の御子であるイエス・キリストの名において。
「見よ。これこそ、始原の偶像崇拝です。」
6行き過ぎた人への宗教的服従は、神への裏切りであると共に、確実なる悪である。
7それを西暦上に持って来たのは、他でもない私である。
8神の御子であるイエス・キリストの名において。
「見よ。あなたは人の下へ行き、人を神/上として崇めます。」
9常に悪人はより上方にある者を己の神として、依存する傾向がある。
10神の御子であるイエス・キリストの名において。
「ローマ人を善人とするならば、それに対抗するユダヤ人は悪人です。
11なぜなら、気に食わないばかりに、反対側に行ってしまうからです。それらの人々の心に飼っているあまのじゃくのゆえに。
12彼のあまのじゃくは、神から離れ、人から離れ、誰からも愛されない無信仰者の完成と成っております。
13彼らはそのあまのじゃくなので、逆に、祭司等に多いのてす。
14彼らはある意味人間ではないので、「聖書」の語る事実を読み解く事が出来ません。ゆえに、「聖書」が語る愛の形を受け取る事が出来ません。
15先人が見つけた知恵、事実の真実性は常にただしくあります。しかし、それが読み取れないのが、あの現代にもはびこるあまのじゃくなのです。
16ただしい知恵を持つ人達はこの書に書かれている言葉を聞きなさい。
17人間の愛が分からないのがあまのじゃくという邪性なのです。私の父は人を愛しており、あまのじゃくを軽んじます。
18あまのじゃくは人間ではないからです。人道すら通じない者あまのじゃく。」
19あまのじゃくはかつて、アダムとイヴを心の中でそそのかしたその蛇の事でもある。神は心の中のあまのじゃくを律し、アダムが二度とだまされない様に、その間に敵意を置かれた。
20あまのじゃくは突然やって来て、だまし、盗り、人間を人間とも思っていないのだろう。神に頂いたものをすべて持ち去ろうとしたが、失敗した。
21事実、私は生きているし、命も盗られていない。
22もしも、あまのじゃくが信仰者なのだとすれば、このイスカリオテのユダである。
23私の他に善なるあまのじゃくはいないのである。
24神の御子であるイエス・キリストの名において。
「私はあまのじゃくによって、磔になります。その時、彼、私の父は言われるでしょう。
「私は私の愛ゆえに、私と等価とも言える彼を差し出した。彼をどう生かすかは、あなた方次第である。」
25ゆえに、私は生かす者となり、つまり、殺す者サタンの対照に置かれるのです。私はあまねく神の子孫の為に生け贄となります。
26私の信仰は私を生かし、さらに、私の父の愛は私を生かし、さらに、他の者が神において、生きる様になる様に、罪において、死なない様に、私自身が生かすのです。
27私は天から降って来たパンです。
28生きる事に必要なパンという物は、生ける者の糧です。
29先祖が食べてなお死んだ様なものではありません。
30ゆえに、生かす者というのは、体全体がひとつの建物なのです。
31建築術による建築物のそれぞれの部位はそれぞれの役割を果たしています。
32窓なら窓の役目、壁なら壁の役目、扉なら扉の役目、床なら床の役目。それぞれがまんべんなく、役目を果たしているので、そう設計されているので、過不足なく、家が機能しているのです。
33私は建物であり、その教会であり、私の中には、聖なる者が住まっており、清浄です。
34おそらく、その中で人はこう言って、人々を祝福/祝祷するでしょう。「イエス・キリストの名において、あなた方の間に祝福と栄光と愛と信仰と祈り、そして、神への服従があります様に。アーメン。」」
35イエスは立たれて、腕と手を開いて、神への祈りを求めた。
36聴衆は聞き入っていて、それぞれ神に祈るのだった。