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ユダヤの福音書  作者: ユダ・カーナ
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ユダヤの福音書 第七章

言葉という分身、観劇という幻想。

1殿下の説教。

2「今はローマ皇帝の支配下にあろうと、二千年後には既に、第三神殿の話が出て、自由にユダヤの人々が巡礼する事がゆるされます。

3自由というのは、責任を(ともな)います。」

4エルサレムの第二神殿の下の広場に人々を集めてイエスは語られた。

5「そこで、私は私の自由を用いて、こう述べます。悪口は人に聞かれる事で、その人の霊は蒼白になります。

6言葉はその人の分身だからです。だから、言葉は(みにく)い側面も美しい側面をも現します。それはその人の顔であり、分身であり、それを神は見ておられるので、その言葉によって、その人の表情を変えるものです。

7ここで言う(わたくし)というものは、現すものです。言葉で表すのではなく、言葉の分身を現すのです。

8ここで目的を示しておきましょう。

9これらは王の王であるイエス・キリストによる言葉です。だから、言っておきますが、天の権威を味方として、より神の知恵に近く、福音を述べ伝えるのが、道理というものでしょう。

10今のあなた方にははっきりとは分かりませんが、神の権威をもって私は語ります。

11私を遣わした方がただしいと思うなら、私の言葉を聞きなさい。」

12(この辺りは、ユダの言葉としても、アダム以上に生きたユダの知恵者としてのイエス・キリストから出る言葉である。)

13「私は言葉によって語り、宣言によって事実とします。私が長々と事実を語るのは、それだけの価値が事実にはあるからです。

14事実というのは、真実から分かれたものだからです。聖書は事実に関して大いに語っています。守るべき律法も事実と相反する事はなく、むしろ、融和しています。(福音もです。)

15事実に基づいて律法は守られ、また、事実然として守られるべきです。真実なる神は事実をも好むので、その嗜好(しこう)に基づいて、別口に作り直されたのが、「聖書」という訳です。

16その「聖書」の律法は今、事実の世界、ユダヤ本来の世界に来ています。律法を架け橋に、それをものに出来れば、あなた方は異邦人であっても同胞です。

17しかし、ものに出来ないならば、律法の世界に生きる価値はありません。律法は事実を(かて)にしているのですから。

18たとえば、『あの人は男だ。見るからに体格が男だから。服装も。』と言った場合、無意識下で、あの人は男だから、性的に付き合う事は律法に反する。『姦淫してはならない。』だから。と、性的な目で見ない様に心がけるのが、事実の世界の人です。

19しかし、律法の履行をしない人々は『好印象だ。』この人とは良く付き合えそうだ。と思う人は実は姦淫を犯しかけているのです。この様に付き合うのに意識が邪魔をするのが、律法に基づいた生き方なのです。

20男なのに、男に抱かれたい人は潜在的に数多くいます。たとえば、人目を気にして、脱毛をする人とか、女装をする人も姦淫になる可能性を秘めているのです。

21男のまま男に抱かれて自己顕示(じこけんじ)欲を満たすのは、姦淫ですが、男を好きになるのは正常の範囲内です。女でも男を好きになるのだから、男でもさもありなん。それから発展するかどうかはその人次第なので、自由恋愛なのです。

22もう一度言いますが、自由は責任を伴います。自由意志がある以上、人間にとって取るべき一端の責任、来るべき死があるので、千年生きようとそれは変えられません。

23しかし、言っておきます。人生とは悲劇でも惨劇でもなく、喜劇でもなく、楽観劇です。客が飽きない程度に一部要素が悲劇であり惨劇でもあり喜劇でもあるだけであって、主は生きておられ、主体が楽観劇なのです。

24私の主とは、妥協なき幻想の神です。あなた方には感知し得ないながらも、「聖書」には書かれていない彼女は第三世界の(あるじ)であらせられます。「聖書」とは、第一世界のこの不完全な世界について、語っています。私の事を主という人は、当然この完全な第三世界の主の事も主と呼んでいなければなりません。

25幻想の神の幻想とは、観劇の事でもあり、また、物語の事でもあります。見方であり、劇そのものであり、物語の事でもあるので、三重により強固な幻想によって、楽観劇は守られているのです。あなた方の楽観劇はこれから始まる新約の時代です。

26人生は観劇にたとえられます。お金を払ってまで観劇する人は友人であったり近親の者であったりします。その収益によって、次の役が決まります。

27人生は劇でありながら、現実なのです。現実的なものによって、役が左右されます。役は期待を示しています。期待されていなければ、役はもらえません。監督は繋がりそのものである神です。神に愛されるなら、愛されるだけ、より良い役がいただけます。

28いわば、あなた方は神に期待された役者なのです。誰でも神に期待されて、劇場に上るのです。その期待を無為にしてはいけません。

29もしも迷ったなら、その期待されているという現実に帰りなさい。きっとやるべき事が見つかるはずです。」

30一度イエスは立たれて、弟子の用意した席に座られた。

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