憎しみに微睡む
「いつまで泣いてるのぉ?」
知人の肉体が踏み潰されミンチ状になっていく。
それを行っていた主は、不意に靴を脱いでそれを壁に擦り付けてファクティだった肉を取り、逆側も同じようにして改めて吐き直すと、俺のすぐ目の前までやってきた。
見上げると、無造作に赤い髪を伸ばした少女。黒い結膜と赤い瞳が嘲笑うように揺れている。
口が三日月状に裂けており心底愉快そうなのが伺えた。
一体何が面白いのだろう? ファクティを肉のすり身にする事だろうか? 目の前で人がすり潰されてくのを見てる俺の様子? それとも今この屋敷で起こってる事?
……そうだ、アルは!? アルは無事なのか!?
「おや? どうしたのハッとして、何か用事でも思い出し」
「どけっ!!」
「きゃんっ」
気味の悪い子供を払い除け部屋を飛び出す。すると、噎せ返るような生臭い臭気に襲われた。
昔道端に落ちていた猫の死骸にそっくりの匂いだ。
「アル!? アルーー!!! 返事してよ、アルー!!」
アルの名を叫びながら屋敷内を走る。どこもかしこも生臭さと水音が付きまとってきて気持ち悪い。
「うわっ!?」
1階を走り終え、2階に登るための階段を登ろうと角を曲がったら何かに躓き思い切り転倒した。
俺の足は、別の人の千切り飛ばされた足にぶつかり躓いてしまったらしい。
「ひぃ!」
驚いて這って距離を取ると、離れた所にまたしても見慣れた人の姿が見えた。
「シリウス、さん……?」
シリウスさんだ。
左足が膝からなくて、右腕が有り得ない方向に捻れた、俺に勉強を教えたり色んな世話を焼いてくれたシリウスさんだ。
いやだ、信じたくない、見たくない、知りたくない。
シリウスさんはファクティと違い原型があった。左足の膝から先が離れた位置にあるのと腕が捻れて肉のこびり付いた骨がはみ出ている以外、首から下は無事だ。
顔の半分、鼻より左側は切れ味の悪い斧を振り下ろして切除したってくらい皮膚が雑に破れている。その顔の無事な部分がペタンと力なく左側、肩に乗るように倒れていて、遠目では人の顔にすら見えるか怪しいけど誰かの見分けは一瞬でついた。
「う、ううぅぅぅぅ!!」
見たくないと念じてるのに俺の目はシリウスさんから動かないし、もう知りたくないのにどのような死に方をしてるか考えてしまう。
自分の頭を叩く、怖くて涙が止まらない。悲しくて震えが止まらない。人は死んだら終わりだって、つまり今までの日常がこんないきなり終わっただなんて、そんなの気付きたくないのに。
「人というのは不思議な生き物だよね。怖い物を怖いと感じているのに見る手段がすぐ手元にあるとつい見ちゃうことあるでしょ? 考えても無駄だと思ってる悪い思考や悲しい思考に悩むし、信じたくないと嘯きながら常になにか起こらないかと外的要因に期待する。今の君も例に違わないね」
耳のすぐ後ろで、愉しそうな少女の声が響く。
慌てて逃れようもするとまたしても躓いてしまう。今度はシリウスさん本体にくっついている方の足が引っかかったのだ。
「にしても驚きだぁ。私が消した人のことを認識してて、死骸をその人だと判別できるだなんて」
「お、お前がシリウスさんを殺したのか!?」
「うんー、殺した」
少女は口を裂き無邪気な声で適当に答えた。
「なんでこんな事……」
「そういうゲームなんだってば。私らがするのは殺し合い。君がこんな場所に潜伏してるのなら、ちょっかいかけてみるのもそんなにおかしな話じゃないでしょ? 丁度都合良かったし」
「ゲーム? ……わけわかんねえ、人殺しをゲームだとおもってんのかよ!!」
「人殺しは人殺しだよ。ゲームの範疇外。でも、しちゃダメってわけじゃないでしょ?」
「は、はあ!?」
しちゃダメってわけじゃないって、本気で言ってるのか? こんな惨たらしいことしておいて、そんなにあっさり自分の行いを間違ってはないと肯定するのか!?
ダメだ、こいつと話していると気分が悪くなる。
関わっちゃいけないタイプの存在だ。
というかシリウスさんやファクティを殺したのはこいつだろ? 関わっちゃいけないとかそんなの当たり前すぎる。
ど、どうしよう。こいつの事が憎くてしょうがないが大人を容易く殺せるような奴に勝てる見込みはないし、逃げると言っても暗いし外にも行けない。
「レヴィアタン、って。そう口にすればいいんじゃない?」
「……っ」
目の前の少女が発した、俺が忘れかけていた単語。
ある悪魔曰く、それは俺の切り札たる最終手段。
1ヶ月平和すぎて巨大な怪物になれるのをすっかり忘れていた。確かにあの姿なら、この子供がどんな方法を用いようときっと殺せはしないだろう。
……ただ、ここは1ヶ月俺が過ごしてきた場所でありアルやファクティ、シリウスさんやケレスさんの家なんだ。
既に2人とも居なくなってしまったのを見ている。だからといって、それを足で踏み潰すような真似はできない。
それにまだアルがいる。アルはきっと生きてる。だから尚更あんな力に頼ることなんてできるはずがなかった。
「まーぁ言わせる気は無いんだけどね」
「えっ」
突然、少し離れた位置に居たはずの少女が消えたと思ったらすぐ目の前に現れており、その右手が思い切り俺の下の歯と下顎を掴んでいた。
「あがっ……!?」
少女の人差し指が舌の根元を押し嘔吐く。少女は笑いながら俺の口の中で指が蠢めかせた。
冷たくて、細くて、柔らかい指が虫のように動き回り、一定の気持ち悪さに達すると俺は思い切り腰を曲げ胃の中身を吐き出してしまった。
「おげぇぇっ! うぐっ……」
「ここまでさぇて無抵抗でいれぅなんてよっぽど肝が据わってるねぇ」
ケラケラと耳障りな声で少女は嗤う。本当に心の底からこの状況を、全てを愉しんでいるようだった。
悪魔だ、こいつは悪魔だ。
こいつの仕草、言動、表情、どれをとっても人間味がない。人を人とも思わず、玩具としてしか見ていないかのようなその目を見ただけで身震いが止まらない。
「抵抗したら下顎を取って黙らせるつもりだったけど、抵抗しないとなるとどうしようか? ゲームに勝ち負けはあれど、あっさり勝ち星をひとつ上げるのもつまらないしね。……あっ、そうだ!」
少女は喋りながら壁を軽く触れ歩み寄る。ただなぞるだけでガリガリガリと深い爪痕が壁に残り、俺の目の前まで来ると少女は俺の眼前に指を向けた。
突然、その指が急接近した。
「ひぎっ!? ぎゃああぁぁぁぁ!!!」
目玉に指がぶつかるのを防いだつもりだったけど、完全に避けきることは出来ず左目の機能を剥奪される。
眼球の側面に沿って爪が走り、そのままの勢いで左目の目じりを裂いたのだ。
燃えるような熱さと開いていられないほどの強烈な痛みに目を抑える。眼球の側面が傷ついてるのと目じりから流れる血が目に染みて開けない。涙がとめどなく溢れてくる。
「君が抵抗するまで少しずつ君を壊そう。再生能力が高いのは実証済みだかぁ、たとえ殺しかけても殺してなければ大丈夫だもんね」
「えっ、ぁぎ!!?」
「あはははっ、どう? 痛い? 目を壊さぇて腕を捻られるの痛い? 次は足を貰うね。さっきのおじいちゃんに随分懐いてたよぉだから、順序は逆になぅけど同じ壊し方してあげぅ!」
少女が俺の足に手を伸ばす。
捻れ切れる寸前まで捻られた右手は放棄して、目を抑えていた左手で床を這って逃げようとするが、逃げられるわけがなかった。
鮮血で赤く染る手を差し伸べるように手向けながら俺の足を撫でる。爪が皮膚にひっかって、プツッと皮膚が避けて玉のような赤い血が重量に逆らわず滴った。
度重なる悲鳴と嗚咽で喉は枯れ、助けを呼びたいのに声が出ない。
「んー? ……っ」
俺の足に触れていた少女が上を見上げる。そして一呼吸もし無いうちに立ち上がり、思いきりその場から跳躍して距離を取った。
刹那、一瞬前まで少女の頭があった部分に銀色の軌跡が描かれた。
剣だ。映画とかで見るような長身の刃がそこに現れ、同時にその持ち主が俺と少女の間の空間に降り立った。
「あぶなぁい」
「今の一撃を避けるの。見た目によらず、戦い慣れしてるのね」
その声はリーシャさんの物だった。
俺の前に立ち少女の前に立ったリーシャさんは、こちらに背を向けていたが剣を抜き構えていることは背後からでもよくわかる。
「……あー、面倒なことになった」
少女はリーシャさんを見ると深い深い溜息をつき、頭をグシャグシャと片手でかくと髪を乱れさせた状態のままリーシャを睨んだ。
「あなた誰? ここら辺じゃ見ない顔だけど」
リーシャさんの問いに少女は考えるように斜め上を見てうーんと唸り、ひとつため息をつくと改めて真顔でリーシャさんに向き直った。
「失礼しちゃうな。この街の人の顔は結構覚えたし親しみを込めて接してきたつもりなのに覚えられてないなんて。私の一方通行かぁ、傷ついちゃうなぁ」
「そう。親しみを持って顔を覚えた人達によくこんなに残酷な事出来るね。心痛まないの?」
「そこのおじいちゃんに用事があった人達は確か、別に街の人じゃなかったよね。だからなんの罪悪感もないよ。でもこの屋敷の住人に対しては、正直悲しい気持ちで沢山……」
は?
なに、言ってんだこいつ。
ファクティの体を踏みにじっておいて? シリウスさんを堂々と殺した宣言しておいて? 何が悲しい気持ちだ、おちょくっているのか?
「だからぁ、確かにおじいちゃんを殺したのは悪い事したなって思うけど、その他は容認してほしいというか。騎士としてさ、善良な一般市民の私の事は見逃すか、注意程度に留めてくれない? 次はバレないよう気をつけるかぁさ」
「ッ!」
さすがに堪え切れなくなり暴言を吐こうとしたらリーシャさんに手で制される。
「ダメ、ヴィアちゃん。挑発に乗らないで、あなたは逃げて」
「リーシャさん……でも!」
「でもも何もないよ。言っとくけど、シリウスはそこら辺の騎士数人程度なら一方的に倒れるくらい強いの。……あなたが怒っても、あれをどうにか出来る可能性は1ミリもない」
「そんなの、分かってるけど」
「なら言う通りにして逃げて。……私の身を案じてるならそれは大丈夫、私はシリウスの何倍も強いから」
「……」
「正直な気持ちを言うなら、あなたをそんな姿にしたあいつを、皆を殺したあいつを私は自分一人でやっつけないと気が済まないの。これは怒りや正義感なんかじゃなくて一人の人間としての憎しみ。だから、邪魔しないでほしいの」
リーシャさんの手は震えていた。そこに恐怖は微塵もなかった、ただただ許せないという一つの感情のみが、彼女の手に力を与えていた。
リーシャさんは1歩前に出て、壁にもたれかかっている少女に向けて声を発する。
「実の所あなたが屋敷をめちゃくちゃにした主犯格だとは思っていなかった。ヴィアちゃんに近づく影があったから威嚇のつもりで斬りかかっただけなの。ありがとう、自白してくれて。これで心置き無くあなたを切れるわ」
「威嚇で剣抜くのは流石にやりすぎだと思ーう」
ガイン! と、金属音が鳴り響く。
少女が言い終わる直前の絶妙なタイミングで、リーシャさんは少女に斬りかかった。
姿が消えるほどの速度で繰り出されたリーシャさんの突き、目標は少女の胸を捉えていた。目では追えなかったから結果から憶測でそうなったと思う。
普段隙のない隙ありをしてくるから予想はついていたが、リーシャさんの一撃は恐ろしい速度だった。
常人なら躱しきるのは絶対に不可能だし、たとえ鍛えていたとしても捉えるのは至難の業だろう。
しかし、少女の胸に刃は届かなかった。
相手もリーシャさんに負けず劣らず早く、立派な騎士の剣を折れた剣を使って受け流していたのだ。
……あれは、いつか見せてもらったシリウスさんの使っていた剣だ。
「っ!」
「わ、惜しい。もう少しで右肩取れたのに」
少女は手が空いた左手をリーシャさんの右の肩に振るった。難なく回避したリーシャさんだったが、少女の手は勢い余って壁に命中しており、けたたましい音を立ててその手は壁をちぎり取っていた。
あの少女は速いだけじゃなく、常軌を逸してるレベルの怪力だ。
人間を体ひとつでミンチにし、素手で頭を半分吹き飛ばしたり腕を捻り回したりする程の、野生動物すら凌駕しそうな圧倒的な力を有している。
「なんて馬鹿力……っ!」
「んー、やっぱり一筋縄にはいかないよねぇ」
言いながら少女はちぎり取った壁の破片を離した。
「まぁ、相手にする必要も無いけれどぉ」
「……えっ?」
壁の破片がコツンと地面に当たり、そこに意識が向いた瞬間すぐ目の前で少女の声がした。
恐らく少女は壁の破片が出す音に気を取られる一瞬を狙って、リーシャさんの横を超速移動で駆け抜けて俺の目の前までやってきたのだ。
既に爪の先が首の皮膚に少し刺さっており、それは正しく首を刈り取らんと伸ばされている最中だった。
ダメだ、終わった。1秒後には俺の首と胴体は切り離されている。なんて事を思っていたら、その1秒にも満たない瞬間に少女が目の前から消え、俺の鼻の先を刃が擦った。
「移動速度は私よりよっぽど速いんだね。私が動きを捉えられないなんて生まれて初めて。でも、移動してからの動きは欠伸が出そうなくらい緩慢だから対処は簡単みたい」
「………………はぁ。鬱陶しいなぁ」
再び俺と少女の間にリーシャさんが立つ。しかし今度は向きが転換されたので、俺が階段に登るまでの進路がこれによって拓かれた。
「今のでわかったでしょ。あれを対処するのにヴィアちゃんは正直邪魔、自衛出来ないのは囮にすらなれないの。だからお願い、逃げて」
「ダェだよ逃げちゃぁ。君の事ぁ簡単に殺したらつまんないっていう気持ちで今までハンデしてたんだかぁね? ここで逃げぅのはリーシャさんを見殺しにすぅのと同じだよぉ?」
俺に逃げるよう促すリーシャさんとそれを止めようとする少女。
俺なんかにできることは確かに何一つないからリーシャさんの言い分は最もだ。でも、もし少女の言った言葉が本当なら? 俺がいる事で使えない切り札があったとしたら、その時は……。
「大丈夫」
迷って動き出せない俺に、リーシャさんが優しくそう言った。
「私はとても強いし、ヴィアちゃん達を残して死ぬ気もない。だから行って、後で合流するから」
「リーシャさん……」
「上で、怪我をしてるアルがいるから早く行ってあげて」
もう、会話する気は無いとリーシャさんは前に出た。
俺は立ち上がって走り出す。背後で刃が風を切る音、硬いもの同士がぶつかり合う音がしているが振り返る事は出来ない。
「うーん、おかしいなぁ。今回ぁちぁうのかな?」
「? 何の話?」
「シンクロニシティのお話し。あなたの知りえない話ぁよ」
「そう? 興味あるからちょっと話してみない?」
「いやぁ〜ね。……あっ、思い出した!」
鉄球のような重さを誇る蹴りでリーシャを吹き飛ばしながら、少女はポンと手で合点がいったと言うジェスチャーをとる。
「なによ、戦ってる最中に用事でも思い出したの? この場で退いたら私に敵わないと思っての逃亡だと認識するわよ」
「えー? いいよ別にぃそんなのどおでも。ただ一つ、不思議に思ってたことがあってね」
少女は両手を上げ休戦、というか終戦の合図をとった。
リーシャには関係のないことだ、彼女は大切な人を何人も目の前の子供に殺されている。しかも残忍な方法で、弄ぶように。
戦意を投げたとして、それを受け入れるほどの度量を持ち合わせているほど壊れてはいない。
上半身の力を抜き、下へと体が落下していく力を踵にかけて地を蹴る。騎士団最速を誇るリーシャの疾駆は初速から最高速であり、よっぽど目の良い戦士であろうとその姿を捉えられるのは自身の目の前に迫った瞬間のみである。
そんな最高速からの突き、しかも相手は油断しきっている。
どう考えても奇襲は成功、迎撃はもちろん躱すことすら"生身の生物であれば"不可能である。マッハを越す速度で動けば肉は細切れになる、かといってリーシャの突きを喰らえば肉体に大穴が空くのはもちろん着弾の反動で肉体が爆散する。
文字通りの必殺でありこの状況は間違いなく必中。そのうえでリーシャは手を緩めない、油断をしない。捻りを入れて更に威力を増し、静止時の衝撃波の制御予測まで行う。
「陬ゅ¢縺滉コ玖ア。」
「……えっ?」
リーシャの剣は少女の胸のど真ん中に着いた。着いただけだった。
少女の肉体に穴は空かず、吹き飛ばされず、どころか直前まで吹き荒んでいた風も消失し、ただリーシャは少女の前に剣を突き出した姿勢のまま設置されたかのような状態になる。
「君は、シリウス・カルキノスを覚えている」
「え?」
少女が口をしたのは屋敷の老使用人、シリウスの名だった。
何故その名をフルネームで知っているのか、何故自分の突きが通用しないのか、何故先程まで鳴っていた環境音が全て消えているのか、何故全身がビクとも動かないのか。
リーシャの頭には数々の疑問が生まれる。
そんな疑問を無視するように、再び少女は口を開く。
「君はシリウス・カルキノスを覚えている」
「……えぇ、覚えてるわよ。当たり前でしょ、家族だもの!」
「そう、家族だ。家族の絆だと思った、でもそんな胡乱な物で、始めからいなかった者を認識できるわけが無いんだ」
「いなかった……って、何を」
「君に力を貸してるそいつの正体、当ててみようか?」
「!?」
リーシャの背筋に寒いものが走る。
彼女の剣技は確かに彼女の卓越した身体能力と魔力から来るものである。しかし、その程度の要素で人体が破壊される様な動きを取れるはずがない。
当人以外知らないはずの未知なる力を、目の前の少女は認識している?
少女はリーシャの額に指をとんとんと軽く叩き、そしてその上に指を指す。リーシャは動くことが出来ず、それに抗うことが出来ない。
「不可視の輪っか、不可視の捻れた翼。全身を巡る無彩色の激流。君のそれは、天使の力だ」
「なっ、んで!」
「世界の理の外側に居ないと、世界から削除した存在の観測なんて出来ないからねぇ」
少女はそう言うとリーシャに向けて拳を放つ。
命中する直前、リーシャの動きが再開される。しかし標的に当てると決め込んだ動作の最中だったので少女の方を向くことはできず、そのままリーシャの顔は拳に吸い込まれていく。
「くっ!!」
リーシャは腰を回して身を捻り拳を浅く食らっただけで回避する。しかし足が留まるところを忘れもつれ、肉体は宙を浮き物凄い勢いで壁に激突する。
その瞬間衝撃波が周囲に走り、柱や床、屋根に風の刃による切り傷が生まれ窓が全て弾け飛んだ。
落雷や爆発にも似た轟音が屋敷中に響き渡る。
階段を登りきり、アルの名を叫びながら全ての部屋の扉を開ける。
2階は1階に比べて被害が少ない、というか掃除をされた後のようだ。
リーシャさんは2階からやってきて俺と少女の間に立った。それまで少女と会わずに2階に上がってアルを見つけ、応急処置と片付けをしていたのだろうか。
思えば屋敷に入った時に見かけた階段前の死骸が無かったし、リーシャさんが2階にいる間にシリウスさんが殺害され、ファクティの様子がおかしくなり、俺が襲われていたという事になるのだろう。
「ヴィア……」
「! アル!」
階段正面から左側の奥の部屋、倉庫にしている部屋の扉を開けた途端、中から弱々しい男の子の声がした。
アルだ。
中に入って扉を閉める。彼は部屋の奥で包帯を噛み、伸ばしながら自分の体にまきつける姿勢になっていた。
「その傷……」
アルの姿はあまりにも無惨だった。
左手はほぼ全ての指が折れて紫色に変色してだらんとしており、顔を打ったのか頬は腫れ上がっている。足の至る所が抉り取られていて、廊下のは拭き取られていたが扉から奥まで引きずってきたのであろう血痕が残っていた。
そして、胴体からはおびただしい血を流していた。包帯で巻いているが、その包帯すら赤く染って血が流れ出ている。箇所は脇腹で、出血量から見て足と同様肉が抉り取られているのかもしれない。
「アル、ダメだよ……」
「? 何も言ってないよ、ヴィア」
「死んじゃだめだよ、アル!!!」
「死ぬなんて話はしてないんだけどな」
話をしたかしてないかとかそういう次元じゃなく、流石に出血量が多すぎだ。素人でもわかる、アルは既に虫の息だ。
その証拠に包帯を噛んで伸ばしてはいるものの、さっきからアルは手を動かさずぼーっとしている時間が長い。
……きっと、血が足りないんだ。
「いやだ、アルが死ぬなんていやだ、いやだ!!」
「ヴィア……?」
アルの手から包帯を奪い、胴体にグルグルと巻き付ける。これ以上血が出ていかないように巻き付ける。尚も包帯は赤く染まり続ける。俺は自分の服を破ってアルに巻き付ける。
「もう、無理だよヴィア。ごめん」
「うるさい!! 体力使わないで、大人しくしてろ!!」
足だ、足の抉り傷からも血が流れ出てる。さらに服を破いて傷に巻き付ける。
「やめなよ、ヴィア。女の子がみだりに肌を晒すのは良くないよ」
「人を見殺しにする方が良くないだろ!」
「うーん、でももうぼくは助からないよ。血を流しすぎた。だからどうかほっといて、君だけでもどこかに隠れて……」
血が足りない。なら血を上げればいいじゃないか。
刃物が無いか周囲を見渡す。パッと見た感じ何も無い。
「ヴィア?」
俺は消毒液の瓶を持って窓に投げつける。窓は割れ、その破片は外に飛んで行ってしまったが、窓枠にはまだ割れながらもくっついてるガラスは存在する。
俺は深呼吸をし、覚悟を決め、窓枠に着いている割れたガラスを手のひらに思い切り叩きつける。
鋭い痛みが走るがそれでいい。俺は手のひらの傷を逆の手でグリグリと広げる。
「何、してるの?」
「血が足りないなら俺の血を飲ませる。絶対に死なせない」
「え、えーと、血を飲んで失った血を補えるとは思わないし、失った血をそのまま貰ったら今度はヴィアが死んじゃうよ……?」
「うるさいなあさっきから!!」
アルが言いたいことなんて全部自分が一番よくわかってる。分かってるんだよな、馬鹿なことしてるって!
ごちゃごちゃとうるさいアルの口に手を当て、開いて閉じてを繰り返して無理やり血を出して飲ませる。ダメだ、全然足りない、こんなんじゃダメだ。
俺は自分の手首に歯を立てると思い切り噛みちぎり、動脈やら静脈やらを食いちぎる。
「ぐぅっ!! ぅぎい!!」
「ヴィア!? やめろよ!!! 馬鹿なっ、うぐっ!? ぐっ…………ん、ぅ、ゴホッ!!」
今度こそ腕ごとアルの口の中に突っ込む。手首からは噴水のように勢いよく血が吹き出し、突然多量の血を飲まされたアルはしばらく苦しそうにもがき血反吐を吐いた。
「なるほどぉ。それが君の特異性かぁ」
「!? お前、なんで!」
血を吐き出しながら咳き込むアルを笑うように、愉快そうな声で1階でリーシャさんと戦っている筈の少女が現れた。
「不幸な予想外が起きてね。ほら」
少女が何かをこちらに投げる。
それはボーリングの玉みたいに小さく弾んだあとしばらく転がっていき、壁に着いた時に動きを止めた。
それは、リーシャさんの頭部だった。
「はっ? ぁ、え?」
「唖然とすぅよね。私もびっくりした。床の血に足が滑って態勢崩したの。だかぁチャンスって思って体を力いっぱい蹴ったら、ここ以外ぐちゃぐちゃになっちゃったぁ」
全身から血の気が引き、床に膝をつく。
俺の横をアルが通り過ぎ、リーシャさんの名を叫びながらその頭の元を抱いた。
「すっかり目も腕も治ってぇと思ったら、今度は新しい傷ができてぅ。そっちの男の子も致死量の血を流してるように見えぅけど生きてぅ。応用も効くのかぁ、いいなぁ」
人の頭を抱えて泣いているアルを眺めているこの感情は、一体何と言うのだろう。
悲しみではないし同情や憐憫でもない。それに、ここは普通少女に向けて怒りや憎しみ、恐怖などを向ける場面だろうに、不思議とそう言った感情とも異なる思いを抱いていた。
「アル」
呼びかける。だが返事はない。アルは静かに泣くのみで、こちらへは見向きもしなかった。
アルに近づき、もう一度彼に呼びかけた。
「アル」
また返事はなかった。アルの腕を掴む、アルはそれを乱暴に払い除ける。彼から受けた、初めての拒絶反応だ。
「アル」
「ごめん、ヴィア、ごめんね、今は構わないで」
「なんで?」
「っ! そんなの、わかるだろ! ぼくは、リーシャの事が、す、ぅくっ、す……!」
問いを投げ掛けると、アルは泣き腫らした顔で俺を見た。
何かを伝えたいようなそんな目で、でも口でそれを紡ごうとすると嗚咽になってはっきりと伝わらない。
「恋してるんだね、君達は」
それまで雑音すぎて全く微塵も耳に入ってこなかった少女の言葉が、ここに来てこれでもかと言うくらい耳に入った。
なるほど、アルはリーシャさんの事が好きだったらしい。知らなかった。
でも、死んだ人に対してどれだけ泣いてもどれだけ喚いても帰ってこない。アルがどれだけ悲しもうと、本人には絶対に言えないがリーシャさんはどうにもならないのだ。そんなの本人もわかってるだろうけど、既に死んだ人に固執するより目の前の存在からどう逃れるかを考えるべきだ。それにいつまでも人の生の死体を触っているのは衛生的に良くない。今すぐ離すべきだ。アルは怪我を負ってるのだからそんな姿勢をとっていたら回復が遅くなるし、寝づらいなら膝くらいなら貸せるし、アルが望むのなら身の世話も看病も何だってやる。だから早く人の頭なんて離した方がいい。いつまでも死に顔を見られたらリーシャさんも恥ずかしく思うだろうしアルだって逆の立場なら自分の顔をジロジロ見られるのは嫌なはずなんだ。もし仮に万が一にも俺がアルの死に顔を見る機会があったら同じことをしない自信はないけど、それは置いといてとりあえず今は離した方がいいと思う。あと俺はアルの身を案じて声をかけたわけだから無視するのは酷いと思うし、その頭はとりあえず置いてこっちを見てほしい。私の血を沢山飲ませてあげたおかげで今もまだ生きていられるんだしもっと私を気にかけるべきだと思う。だからとりあえずその頭を下ろして。いつも私はアルに助けられてばかりだったけど今度からは私がアルを助けるから、心が折れたのならもう頑張らずに私に全部任せて休んでほしい。私だけは最後までアルの味方だし最期までアルの味方だから。だからとりあえず今はその女の首を離して私をみてほしいの。だってその方が自然でしょ? だってその方が建設的だもの。アル、どれだけ泣いて喚いて嘆いても死んだ人は甦らないんだよ? アルが何を思ってももうその女は帰ってこないんだよ? アルがどれだけその人を見てもその人はアルの事を見てないんだもの。私はアルのことを見てるよ? だから私を見て、ねえ、こっち見て、アル。そんな女の首は離して私を見て? 私を触って、私以外を触らないで、私の全部をあげるから私に全部を頂戴。でもその首はいらない、アルじゃないから。いやでもやっぱり欲しい、アルの初恋だったらその初恋も私が欲しい。ねぇ、わかる? 私の心臓の音。ねぇ、アル。アル。私を見てほしいの、アル。あんな首もういらないでしょ? ダメ、離してあげない。暴れないで? ねえ見て、私を見て、もう私以外考えないで。柔らかいでしょ? 暖かい? 冷たい? アルの唇はとっても暖かかった、でも私の血がついてて邪魔。ねぇ、唇を綺麗にするからもう一度しよ? だからもう私を以外見ないで、私を認めて、私を愛して、私に存在意義を与えたあなたに無視されるのは心が痛いの。苦しいの。私を苦しめないで。私だけを見て? 私は」
「き、気持ち悪い」
アルは俺を恐れるような目付きでそう言った後、覆い被さる姿勢になっていた俺を押しのけて逃げていった。
それを少女は追いはしなかったし、俺もなんの事か分からず困惑して何の声もかけることが出来なかった。
「あはっ、あはははははっ!! あっはははははっ!!!」
弾けるように少女が腹を抱えて笑う。彼女は手を叩きながら俺を指さし、目を合わせるとまた大きく笑い声を上げた。
「な、なんだよ。なんなんだよ……」
「あはははっ! あー面白い。そうだよね、やっぱり悪魔の本質には逆らえないよね!」
「悪魔……そうか、分かった。あんた、俺と同じで悪魔がどうたらこうたらって人だろ」
「咎人って言いたいのかな? そうだよぉ。ずーっと言ってるけど、だかぁ君を殺しに来たの。でもね、殺さなくてもいいかなって思えてきたぁ」
「え?」
ひとしきり笑ったあと、ふぅと息を吐いて少女は笑顔で手を伸ばす。その形はまるで握手を求めているようで、笑顔も好意的な人に対する柔らかなものだった。
「君の能力はとっても便利だし人となりも面白いからさ。どう? 組まない? 私達、いいチームになぇると思うよぉ」
その言葉を聞いた瞬間に、俺の中には今度こそ強い憎悪が生まれた。
組まないか、だと? いいチームになれる? 何言ってんだ、俺の大切な人達を殺し、汚した奴なんかの手なんか取るはずがない。
俺は確固たる意思でその手をぶっ叩いて拒否を示す。その瞬間に視界の上下が反転した。
「まあわぁってたけどね。もうすぐ朝だからもう終わり。おつかぇ、楽しい夜だったよぉ」
頭に鈍い音と衝撃が走り、自分の首がちぎれ飛んだ胴体が見えた。
そこで初めて、一瞬のうちに首を切り落とされた事に気付く。
少女は俺の胴体が地面に倒れる前に掴み、念の為か心臓を抉り出して握り潰した。
「よし、おわり。……あー、めんぉくさかったぁ」
少女は気だるそうにそう言うと、無表情になり俺が割った窓から外へ出ていった。
段々と、眠気にも似た意識の沈む感覚を覚える。
最後らへんはあまりにも記憶が曖昧すぎてよく分からなかったが、俺はどうやら死ぬようだ。
最後にこの場から逃げ出したアルの事が気がかりだったが、目から光が無くなると、もうどうでも良くなって俺は考えることをやめた。