幼き竜は供物となり
『おはよう』
幼い子供の声がした。
まるで深海の中にいるかのような暗闇の中、地に足がつかない感覚と共に俺は目を開けた。
左右に首を振ると、別にここが完全な暗闇の中というわけではないことに気づく。目の前に俺より数倍大きな『漆黒』があるだけで、上下左右には光の揺れる光景が広がっているのだ。
「がぼっ!?」
遅れてやってきた状況への理解により気が動転し口を開いた。息が泡となり上がっていく。
『焦らないで。大丈夫、ここで人間さんが溺れることは無いから』
再び子供の声がした。
声がした、というより水域全体に響き広がるような感じで、かといってうるさいわけではなく脳内に直接言葉が入ってくるようだ。
「だ、誰なんだ? ここは一体!?」
『ここは夢の中だよ。現実のどこかで人間さんが溺れてるってわけでは無いから安心して』
「夢? そ、そうか。夢か」
いきなり意味のわからない状況に投げ出されたので取り乱したが夢ならばどうということも無い。
2度3度深呼吸をし、平静を取り戻し改めて周りを見る。
見渡す限り果てが見えない水の中。あるのは俺と目の前にある途方もない大きさの黒い何かのみ。
俺に話しかけてくる声の主は何処にも見当たらない。
というか水中なのに相手に声を歪ませずに届けてる時点でおかしいんだ。声の主は姿自体がない、なんてこともあるかもしれない。
『何言ってるの。私なら居るよ、ほら。人間さんの目の前に』
「? 俺は何も言ってない……」
のに、と言い切る前に目の前の黒が巨大な何かに遮られた。
巨大なダイヤ型の模様が無数に入った白っぽい膜。
再びそれが持ち上げられるとまた黒が現れた。その挙動はまるで生物の"瞬き"のように見えた。
「えっ……」
『やっと気付いた。そうだよね、自分よりうんと大きい生き物を身近で見る機会なんてないもんね。気付かないよね』
「は、ぁ、?」
『ダメ。ゾワッとしても狂ったりしちゃダメだよ、全身を見えないようにわざわざここまで近づいてあげたんだから』
「ひっ!?」
黒が揺らめき背筋に嫌な感じが迸る。
この途方もない巨大な黒が瞳? ならこの生き物の全長が一体どれくらいなんだ、上から見ても下から見ても黒の果てが見えないぞ。
『そういう事を考えるから怖いんだよ。それより私も長くないから、本題に入るよ』
「ほ、本題?」
全身の奥底から絞り出てくる震えを理性で抑え、目の前の生物の言葉を繰り返す。
『私はレヴィアタン。人間さんには私の代わりに私の身体を使って生きてもらいたくて』
「え、え? ……身体?」
『うん、私の身体を使って出来るだけ生きて欲しいの。人間さんにレヴィアタンとして生きてほしい。分かった?』
分からないが。
なんで俺が、こんなよく分からない生物の身体にならなきゃいけないんだ?
夢の中での話なのになんでこれからを指図されなきゃならないんだ?
と、素直に言えるわけもない。
『別におねがいを聞いてくれなくてもいいよ。でも、そうした場合人間さんはもう夢から醒めることないって事だけ教えとくね』
「は? ど、どういうことですか」
『現実の人間さんはもう死んでるから私が人間さんの魂を受け取らないと死者として永遠にこの水の中って事』
「はあ!? 死んでる!? なんでっ!」
『私が死に物狂いで探して偶然見つけた体だったから人間さんに拘った理由は特にない。あと、欲しいのは魂だけだったから殺す必要があった。ごめんね』
「ごめんねって……そんな簡単に言われても納得できるかよ。悪魔かあんた」
『そうは言ってもこっちも必死だったんだもの。ここでは五体満足だけど、現実の私は殆ど食べられてもう人間一人分くらいの大きさしか残ってないんだもん、許してよ』
「許さないわ!」
『おねがい、聞いてくれないの? そうなると人間さんはさっき言った通り、私が作ったこの水の中で永遠に死ねず閉じ込められ続けることになるけど』
「っ、卑怯者……! 何がおねがいだ、ハナから断らせる気ないじゃんか!」
『聞いてくれるの? くれないの?』
目の前の生物は最早俺の抗議に触れず、ただ選択を迫ってきた。
実の所さっきから夢から覚めようと意識を集中させているが、一向に覚める様子が無いのでこいつの言っていることは本当かもしれない。
個人的にはまだ死にたくはない。でも、こんな巨大な生物になるだなんて嫌だ、娯楽なんてなくてどうせ食って寝るだけじゃないか。
でも、こんな薄暗い水の中に永遠に閉じ込められるのはそれ以上に嫌だ。死ぬことも出来ずに浮かび続けるとか想像するだけでゾッとする。
『どうするの? 私もあまり時間が無いんだけどな』
「……断れないだろ。永遠に水の中なんて嫌だ」
『! じゃあ私の魂になってくれんだね! わーいありがとう!!』
「待てよ」
『? 今更やっぱ嫌ってのは聞かないよ』
「違う。そもそもお前はなんなんだ? 何があった、誰が敵なんだよ。全然納得いってないけど、お前の体を使ってお前のフリをするなら知っておくべきだろ、そこら辺」
本当は俺をどう殺したのかだとか魂がどうとかだとか聞きたいことは山ほどあるが、先程こいつは長くないと言った。
今の状態にタイムリミットがあるのが明確なら、知っておくべきことを優先すべきだろう。
「答えろ。お前はどういう訳か身体が死ぬの? を嫌がって俺の魂とやらを奪ったんだろ? 知らなきゃ長生きできないぞ」
『私は神様に産み出されたモノ』
「神様?」
『開拓者って言い方もできるかな。で、私は2人のお兄ちゃん達と共に神様が元いた世界の食べ物をモデルにして造られた存在なの。この世界の誰よりも大きい海産の供物として造られ、環境が整うまで神様の食料として少しずつ食べられてきた。それが私の役割』
「……エグい話するじゃん。なに、お前食用に作られた人口生物ってこと?」
『そうだよ。神様はまず海に私の失敗作を放して水生生物を創った。これが最初に生まれた生態系で、海はすぐに生物の進化と繁栄を齎した。だから3兄妹の中で1番最後まで生き残った。それが今ってこと』
「……自分を食べ尽くそうとした神様への復讐を俺にしてもらおうってことか? 自分でやれよ、そんなの」
『やれないよ。人間さんだって、皮膚の1片になっても生き残ることなんて出来ないでしょ?』
「……? そりゃそうだ」
『今の私はそんな感じ。鱗の1片に肉と骨と心臓と脳の欠片を寄せ集めてるだけでほぼ死んでるの。復活するには魂が必要だけど、私のいる時代にはまだ知性の高い生物がいないから遠い未来から魂だけを持ってきたってわけ』
「あー……うん、出来るのか。そういう事が。それで納得するとして、結局俺にどうして欲しいんだよ」
『ただ生きてくれればいいよ』
「は? なんだそれ」
『私は別に復讐なんて望んでないよ。神様は私の親なんだもん、恨めないでしょ? でもこの先産まれてくる生物達は別。私はロクに自由を謳歌できずに食い殺されるだけだったのに、自由に殺し殺されのうのうと生きるのに必死になれるなんて、妬ましいんだもん』
今まで無感情的だった子供の声が、愉快と不愉快の感情が入り交じったかのような震え声になった。
自分が死のうが自分の欠片を生かすために、遠い未来のなんの縁も繋がりも持たない俺なんかを利用する程の生存本能。
彼女を突き動かす感情はそうだと一瞬思った。
でも違う、生存本能ではない。嫉妬だ。
自分の失敗作で、自分の後追いに過ぎない下等生物が自分よりも『自由』である事が我慢ならなかった。
彼女の声音に乗ったドロっとした怨嗟の感情は、凄まじいまでに自分以外の生物に対する嫉妬を感じさせた。
「……気持ちはわかった。だが俺もお前によっていきなり殺されていきなり竜にされるんだ。その気味の悪い感情を俺に向けるのはやめてくれよ」
『ふふ、そうだね。人間さんには悪い事をしたし恨まないでおいてあげる。身体もあげるんだしね。あっ、そろそろ私の意識が途切れちゃうから、もうその魂使わせてもらうね』
「は? しまっ、ちょい待て! 結局敵がどんななのか聞いてなっ」
言い切る前に、黒い大目玉に伸ばした手の指先から蝕まれるように恐ろしい速度で俺が消失していく。
人魚姫が泡となって消える感覚というのはこんな感じなのだろうか。
体が羽のように軽くなり、視界がいくつにも分割され、やがて眠くもないのに黒が広がっていった。