天使のほほえみ
「佐藤君。ちょっと、いいかな」
僕がおずおずと声をかけると、佐藤君は振り返って僕を見た。
「佐藤君……」
「なんだよ」
「あのさ、僕、聞きたいことが……あ、そうじゃない。聞いてもらいたいことがあるんだ」
「……」
「佐藤君、あの、さ……」
「天野、だろう?」
「え……」
「お前、天野、でいいんだよな?」
「そ、そうだよ。僕のこと、知っていたんだね」
「まあな」
「そう、だよね。同じクラスだものね」
「それで、なんだよ」
「え……?」
「俺に聞いてもらいたいことがあるんだろう?」
「あ、うん。そうなんだ……」
僕は、促されるままにあることを話し出した。
「七瀬瑠美のことなんだ」
七瀬瑠美は僕らのクラスメイトだ。そして、学校のアイドル的存在でもある。
彼女は、十七歳にして芸能事務所にスカウトされ、「天使のほほえみ」というキャッチフレーズで売り出されたばかりだった。
でも、彼女は先日……亡くなった。
「瑠美は、殺されたんだ!」
僕の言葉を、佐藤君は無表情で聞いている。
「やっぱり、君も僕がおかしなことを言っていると思っているんだろうね」
「いや」
佐藤君が首を振るのを見て、僕は少しばかり気持ちが落ち着いた。
「君には霊感があるって、本当かい?」
そう尋ねると、
「ああ」
と短く返された。
「なあ、天野。その話、歩きながら聞いてもいいか?」
「え? うん、いいけど」
佐藤君には何か用事でもあったのだろうか。僕は、彼と連れ立って廊下を歩きながら、再び口を開いた。
「瑠美が、僕を呼んでいるんだ」
「七瀬瑠美が、お前を? なんで?」
「僕と瑠美は家が近所で、幼馴染みだったんだ。僕は、瑠美から相談を受けていた。瑠美は、ストーカー被害に悩まされていたんだよ」
「……」
「瑠美がね、僕の夢に現れるんだ。すごく怖い顔をして何か言うんだけれど、いつも聞き取れない。きっと、瑠美はストーカーに殺されて、犯人を捕まえてほしいと思っているんだよ。……僕の話、信じられないかい?」
「……いや。でも、もしもそうなら、ストーカーは学校の関係者ということになるな」
佐藤君の言うことはもっともだ。なぜなら、七瀬瑠美は学校の中で殺されたのだから。
彼女は、旧校舎のある空き教室で、首を吊った状態で亡くなっていたらしい。
「……翔太だ」
佐藤君からは何の反応もない。
「僕なりに調べたんだ。瑠美のストーカーは翔太だ。僕は翔太に注意をしたけれど、彼は聞く耳を持たない。それが数日前のことだよ。それが、まさかこんなことに……」
「へえ。お前が翔太に注意を、ね。よくできたな」
「そ、そりゃあ、怖かったよ。でも、瑠美のためだから」
「好きなんだな」
佐藤君の言葉に、僕は頬が熱くなるのを感じた。そんな僕を佐藤君がどう思っているのかが気になり、ちらりと彼を見る。けれども、佐藤君は何も感じていないような冷めた目で僕を見ていた。
「着いたぞ」
佐藤君の言葉に顔を上げる。
「ここって……」
僕は、瞬間的に体が強張るのを感じた。なぜなら、そこは旧校舎にある空き教室……先日、七瀬瑠美が亡くなった場所だったからだ。
「なんだよ、これ……」
教室の戸は板で完全に塞がれている上に、御札がびっしりと貼られていた。
「彼女の怨念を鎮めるための御札さ」
「怨念って……彼女は殺されたんだ。被害者なんだよ」
「だからこそ、許せないんだろうな」
「でも、何か被害があったっていうならわかるけれど……」
「あったんだよ」
「え……」
「七瀬瑠美が亡くなってから、面白半分にこの教室に足を踏み入れる生徒が続出した。ある者は何もない所で転んで骨折し、またある者は天井から落ちてきた鉈に足の指を切断された。何もない空間から飛んできた錐が目に刺さり、失明した者もいる」
「そんな……この数日の間に、そんなことが……」
「数日? 違うな」
「……」
「七瀬瑠美が亡くなってから、今日でちょうど十年になる」
佐藤君は、いったい何を言っているのだろう。彼の言葉についていけずに茫然としていると、彼は再び語りはじめた。
「俺は、七瀬瑠美の両親に頼まれたんだ」
「瑠美の両親に? 何を?」
「娘を解放してほしい、と」
「……何から?」
「怒り、悲しみ、憎しみから」
「……」
「彼女は芸能事務所に入り、夢を叶えようとしていた。明るい未来が待っているはずだったんだ。それを、突然奪われた。そりゃあ、怨霊にもなるだろうさ。けれど、このままにはしておけない。学校側も困っているし、彼女の両親も救われない」
「どうしたら、瑠美を救えるの?」
「彼女の望みを叶えてやるんだよ」
「瑠美の、望み?」
「彼女を殺した奴を彼女の好きにさせるんだ」
「それじゃあ、翔太を?」
「ああ」
「なら、翔太を見つけないと」
「いや、翔太なら死んだよ」
「え……っ」
「七瀬瑠美と同じ場所で、同じような姿になってな」
「まさか、そんな……翔太が……。これじゃあ、瑠美の恨みを晴らせないじゃないか!」
がんっと、僕は板を打ちつけられた教室の戸を力いっぱいに殴った。
僕は、はたと気づく。佐藤君が、貼られた御札を一枚一枚剥がしている。
「何、しているの? 佐藤君」
「こうしないと、入れないだろう」
「入るって……まさか、この教室に入るつもりなの? でも、それなら、御札より板を外した方が……」
「板はいいんだよ。俺が入るわけじゃないから」
「……?」
「入るのはお前だよ。彼女は、お前を求めているんだから」
「瑠美が、僕を?」
「ああ」
そう言いながら、くるりとこちらを振り返ると佐藤君はこう続けた。
「彼女を殺した、お前をな」
そうして彼は、すべての御札を外し終えた。
「僕が、瑠美を? 違う、そうじゃない。瑠美を殺したのは翔太だ」
「ああ、わかっているさ」
「……どういうこと?」
「だから、いい加減に思い出せよ、天野」
「え、なに、どういう……?」
「天野、翔太はお前だろう?」
「え……」
「天野翔太、それがお前の名前だろうが」
その時、戸に釘打ちされた板から二本の腕が伸びてきた。それは、細くて白い、華奢な女の子を思わせる腕だった。だが、その見た目とは裏腹に、もの凄い力で僕の体をつかむと、そのまま空き教室の中へ引きずり込んだのだ。
そこには、彼女がいた。
何も変わらない美しさで、そこにいた。
夢の中と同じように、ひどく怖い顔をしている。
一度僕を突き飛ばした彼女は、床を滑るようにして再び僕に近づくと、その腕で僕の心臓辺りを貫いた。そしてひと言、
「あんたなんか、大嫌い」
そう言って笑った彼女を見て、僕は満たされていく思いだった。
これから、僕は彼女に八つ裂きにされるのだろう。彼女の恨みの炎が消えるその時まで。
それでも、僕は幸せだ。彼女の笑顔をこんなにも近くで見つめられるのだから。
――ああ、そうだ。これだよ。瑠美、君の笑顔は、まさに天使のほほえみ……。
そう思った刹那、僕の頭蓋骨は、彼女の手によって粉々に握り潰されていた。