キスをしないとしんでも出られない。
近ごろは1日の大半が眠気に襲われていて、ああもう長くはないんだな、と自分でも感じていました。
季節は冬。院内学級や小児科病棟では、入院の長い子どもたちの気持ちを少しでも明るくするためにクリスマスツリーなんかがお目見えしています。極楽寺総合病院って名前にクリスマス行事、似合うような似合わないような。
「メリークリスマス!」
陽気な声にうっすらと重いまぶたを開けると、私を上から覗きこむ瞳と目が合いました。ん? ベッドに横たわる私と水平に浮かんでいませんか。髪は金色で、肌は透けるように白い。瞳は濃い金色。少し年上の少年のようにも見えますが、少女のようにも見えます。
「て、んし……?」
もうお迎えが来てしまったのでしょうか。この期に及んでは、そういう存在すらもいるのかもしれないとさえ思います。すると、それは赤い唇を弧に描いてにんまりと笑いました。
「まだ生きてるね、美幸ちゃん。そっかー、そっかー」
勝手に何か納得したように、それは頷きます。ええ、かろうじて生きてますよ。
あなたはどちらさま。そう聞きたいのですが、どうもこの人……人なのかな。それはともかくとして人の話を聞かないタイプのようです。
「俺は夢魔。悪魔だよ、サンタクロースかと思ったよね。期待外れでごめんね」
クスクスと夢魔さんが楽しそうに笑います。その夢魔さんとやらは何をしにいらっしゃったのでしょうか。
目で問うと、気持ちは伝わったようで。
「最期に美幸ちゃんに楽しい夢を見させてあげようと思って来たんだよ。どう? 見たいよね、楽しい夢。まあ、タダでってわけにはいかないんだけどね。楽しい夢を見させてあげる代わりに、美幸ちゃんの生命力をね、ちょこっともらうね。まあ、その感じじゃ、ちょっともらっただけでも命の灯火が消えちゃいそうだけど。ああ、安心して。俺は魂はもらわないタイプの悪魔だから。灯火が消えちゃったら、天国にでも極楽浄土へでも?好きなところに召されちゃってオッケーだから」
なかなかにチャラい悪魔さんのようです。
「最期にしたかったこととかないの? そういうの叶えちゃいなよ。まあ、夢なんだけどさ」
したかったことですか。
しかたったことならたくさんあります。
普通に学校に通いたかったし、お友達とも走り回って遊びたい。
ごはんも好きなものを食べたいし、おうちでお母さんやお父さんとゴロゴロしたい。
「あー、そういう感じのはね、ちょっと管轄外かな。ほら、もうちょっとないかな。きゅんとか、ドキドキとかする感じの……やっぱり人選ミス? どうみたって小学生の女の子だもんね。まだ早いかなぁ~」
そういわれて頭に浮かんだのは、初恋の人の顔でした。極楽寺総合病院小児科医師の皐月さん。
「オッケー、オッケー。じゃあ、楽しい夢にご招待~」
ひどくまぶたが重くなっていきます。そう、まるで手術室で麻酔をかけられた時のように。ずるずると抗えない力で夢に引きずり込まれるような感覚ののち、なんだか知らない場所にいることに気づきました。難しそうな本が並ぶ本棚に机、それにベッド。どなたかのお部屋のようです。
どこかで、あの夢魔さんの声が響きます。
『招待したのは夢の世界。でも、現実ともリンクしているからね。起きるときは、とある条件をクリアすること』
「条件?」
『そう。これから入ってくる人とキスすること』
キスって、あのキス!?
少女漫画とかで、彼氏と一緒にお祭りに行ったのに、ぜんぜん浴衣とか可愛いって言ってくれなくて拗ねてたら、照れ気味に可愛いとか言われて、その瞬間に花火が上がって、なんだか気分が盛り上がって唇と唇がくっついちゃう感じのあれ?
『なんで夏祭り限定? うーん、美幸ちゃんはませてるんだか、そうじゃないんだか。まあ、キスってそんなシチュエーションでばっかりするものじゃないんだけどね。まあいいや。目覚めるには条件達成してね。余命幾ばくもない美幸ちゃんはいいとして、彼は起きれなかったらがっつり衰弱しちゃうと思うから頑張って。じゃあ、いい夢を』
と、夢魔さんの声が消えると同時に部屋の扉が開きました。入って来たのは、学ランをお召しになった皐月さん。初めて好きになったあの日の皐月さんですね。今もカッコいいですが、なんていうか若い。若いです。銀縁眼鏡がこれほど似合う高校生男子がいるでしょうか、いやいない!
あの日の皐月さんと出会った私は、つい興奮してしまいましたが、皐月さんは私を見るなりギョッと目を見開きました。
「え……誰?」
「あの、蓮池幼稚園ひまわり組の美幸です」
目の前にいるのが、あの頃の皐月さんということで、どう自己紹介していいのか一瞬分からなくなり、自分もあの頃の姿に戻っているのではないかと思って、とっさにそう答えました。ところが、皐月さんは首をひねるばかり。私のことを忘れてしまったのでしょうか。
「蓮池幼稚園ひまわり組に美幸って……って、美幸?」
だからそう言っているじゃありませんか、ねぇ。
皐月さんは驚愕のまなざしで、しげしげと見てきます。
「やだ、乙女に向かってそんなにじろじろと見ないでください。もう、えっち」
「その、ませた物言いといい、たしかに俺の知ってる美幸だ。どうしたんだ、その格好」
格好ですか?
と、腕を横に伸ばして下を見ると、平野だったお胸になんとたわわなお山ができているではありませんか。そして、着ているのは、当時、皐月さんの周りをうろちょろしては黄色い声をあげていたお姉さん方と同じ……つまり、皐月さんの高校の女子用制服のセーラー服。プリーツスカートの裾からは、なんともすんなり伸びた長い脚が。ちょっと脚が太くなった気がします。健康的でなによりですね。
キョロキョロと部屋の中を見回すと、窓に映った推定自分を見つけました。面影はたしかに私。でもやっぱり身体同様、少し大人びている気がします。
「わーい、皐月さんと同い年になってお付き合いしたいという夢が叶ったんですね。ほら、皐月さん、見てください。ほらほら!」
「分かった、分かったから、スカートひらひらさせて回るな、危ないだろう? 病室に戻れっていうか、同い年って……は? 俺も昔の制服着てる? ってか、今の俺の部屋はここじゃないし、どうなってるんだ!?」
「だから、夢なんですよ。夢だから、病気もないんです! ほら、こんなに元気」
「夢というのは脳が記憶の整理をだな、」
「そんなことはどうでもいいんですよ。せっかくの夢なんですから、デートしましょう。ほら、今だったら、ロリコンとも言われませんし、逮捕もされませんよ」
「やかましい。でもまあ、これは美幸の夢なんだな。それならまあ、美幸に付き合ってやるくらいは構わないが。あ、俺と同級生で付き合ってるという設定だったか。といっても明日は八時からオペが入ってるし、今も当直中の仮眠だからそんなには寝てられないんだが」
夢だから、おもいっきり大胆にと皐月さんの腕に腕を絡ませます。皐月さんもぶつぶつと文句は言っているようですが、腕を振り解こうとはしません。さあ、とドアノブをひねりました。
夢ですからね、憧れだった高校に皐月さんと通学路を歩いてみたり、小学生にはできないコンビニでの買い食いなんかしちゃいましたよ。他には何をしましょうか。あれ? 病院での生活が長かったせいで、世の恋人たちはどんなことをしているのか、分かりませんね。
「もう満足したか?」
公園のブランコに腰かけて肉まんを頬張りながら、皐月さんが言いました。
「うう~ん、ちょっと待ってください」
おもいっきりブランコを引いてから両足を浮かすと、キィと金属音をたててブランコが揺れました。
せっかくですから、もっと恋人っぽいことがしたいんです。
皐月さんにとって私は多くの患児のひとり。近所のませた子ども。せいぜいが年の離れた妹というところなのは、よく分かっているのですが。この際、夢の中なのですから、お願いしてもいいでしょうかね。
「あの、あの、皐月さん?」
「ん? どうした」
「あのっ、えーっと」
うわぁ、さて、改めてお願いするとなると気恥ずかしいものですね。なかなかそれを口にできません。すると、もじもじしていたのがおかしかったのか、皐月さんが揺れが小さくなったブランコの前に立ちました。微かに微笑みさえ浮かべて。なんて言えばいいのか、そう、近所のお姉さんはこういう感情の時は『尊い』というのだと教えてくれました。
「美幸のしてみたいこと言ってごらん」
はぁ、尊い。鼻血が出そう。ではなくて、言うべきか、言わざるべきか。なんだか恥ずかしいですね。
「あの、」
「うん?」
「恋人繋ぎを、してみてもらったりしてもいいでしょうか」
しどろもどろなおかしな日本語になっている自覚はあります。それより恥ずかしくて、顔を見ていられないのに、皐月さんの顔から目が離せません。皐月さんは一瞬きょとんとしましたが、鎖を持っていた手を下へと滑らせて、鎖を握っていた私の手を開くようにそっと指を絡ませてくれました。ひやぁあ!! うぉぉう!!
驚いて後ろに仰け反ったらバランスを崩してしまいました。とっさにウエストに腕を回し、身体を支えてくれた皐月さん。なんて、たくましい。至近距離で見つめあう二人は、自然に……と期待しましたが、そんなことになったら洒落じゃなく、心臓が止まってしまいそうです。
って、それで思い出しました。夢魔さんによって今も私と皐月さんは生命力をいただかれちゃっているということを。キスをしないと現実に戻れない世界に閉じ込められているも同然だと言うことを。これは私に都合のいい夢というわけじゃなくて、皐月さんを巻き込んだ、現実の皐月さんの夢と繋ぎ合わされた世界だということを。目が覚めないと皐月さんが困ったことになってしまいます。でもなんと言って説明すればいいのでしょうか。
説明のしようがなくて、見つめあってた目をそっと閉じてみます。そう、キス待ち顔ってやつですね。キスさえすれぱ、皐月さんをこの世界から助けることができます。二人きりの、年齢差もない素敵な世界ですが、ここで皐月さんまで死なせるわけにはいきません。
「美幸?」
「キス、してください。皐月さん」
ふっと近くで笑ったような気配がします。指を絡めた左手は温かく、ウエストに回された皐月さんの左手は力強く背中を支えたままです。
「本当にませてるな美幸は。どこでそんなの覚えてくるんだよ。ダメだ。それは、本当に美幸に好きな人が出来たときまでとっときなさい」
「イヤです。私の好きな人は、皐月さんです」
「はいはい。ありがとう」
「本気にしてないですね。どうせ夢の中なんだからいいじゃないですか」
「夢でも」
「けちー」
「ははっ」
キスしないと、皐月さん死んじゃうかもしれないんですよ。そんなのはイヤです。美幸と同じ病気の子どもを救うんでしょ。たくさんの病気に苦しめられている子どもたちを、たとえ皐月さんの手が届く範囲だけだったとしても、癒すお医者さんになるんでしょ。
ねぇ、夢魔さん。皐月さんからもらう生命力のぶん、私からもらってください。皐月さんには、これからもたくさんの時間が必要だから。
『いいけど。でも、いいの? そしたら美幸ちゃん、目が覚めないかもしれないよ』
「皐月さん、」
自由な右手を皐月さんの肩にそっと乗せました。にこにこ笑っている私を、皐月さんが不審な顔で見つめています。ふふっ、眉間にシワが寄ってますね。
気にせず、絡めた左手もほどいて抱きつきます。消毒薬の匂いとほんのりした柑橘系の香りがします。夢だから、いつも病院にいる皐月さんの匂いになっているんでしょうか。
皐月さん、大好き、大好き。美幸を、忘れないでくださいね。
そっと、背中に皐月さんの手が回されました。
「大人になったら、皐月さんを誘惑しにいきます。覚悟しててくださいね」
「ははっ、……うん。待ってる。でも、美幸の方がおじさんになった俺に幻滅するかもな」
顔を少しだけずらして、唇に触れるだけのキス。
「忘れないで、くださいね」
かくん、と糸の切れた操り人形のように、皐月さんの腕の中で力が抜けます。
「お、おい、美幸?」
院内PHSの呼び出し音が鳴り響き、廊下がにわかに騒がしくなりました。看護士さんたちが急いでいるようです。
あら、皐月さんが宿直室から飛び出してきました。
誰か容態急変したんでしょうか。
「先生、美幸ちゃんが──」
あらぁ、私ですか。
皐月さんが難しい言葉で看護士さんたちに指示を出しています。それから長い時間、救命措置というやつをしていただきましたが、私は蘇生しなかったようで──。
皐月さんと、お父さん、お母さんに看取られて死亡が宣告されたのでした。
荼毘も済んで、ご冥福をたくさんの方に祈られましたが、私はまだここにいました。
まだ墓標だけの新しいお墓に、今日はお仕事がお休みの皐月さんがきました。それにしても、お医者さんとは忙しいお仕事ですね。近所のお兄さんというだけでは忌引き休暇は取れるはずもなく、あの日から初めてのお休みです。
お花とお線香を供えた皐月さんは、じっと虚空を思い詰めたように見ています。どうしたんでしょうか。
「美幸は嘘つきだな。何が大人になったら、だ」
ごめんなさい。でも、もう長くないのは皐月さんだってご存じだったはずですよ。
「あれは、あの夢は、最後の挨拶ってやつなのか」
そんなつもりはなかったんですが。触れるだけのキスをした場所をそっと指先で撫で、皐月さんは俯いてしまいました。肩が少し震えているようです。
「こんなに、なっちまって……」
墓標を撫でる皐月さん。すみません、それは木です。
「いつまで待ってればいいんだよ、美幸」
皐月さん……。
「治してやれなくて、ごめんな」
皐月さんはしばらくそうして、木と語らったあと、ゆっくりと腰を上げました。
ううん、てんで見当違いの場所に向かってお話されるのはつまらないですね。
ね、皐月さん。今度は私が皐月さんを待ちます。ここで。皐月さんの側で。次は、本当に同い年で生まれて、今度は正々堂々、胸を張って、恋しましょう。
「そうだな」
ええ、そうです。って、えっ!?
「美幸……?」
皐月さん、私が見えるんですか? 声が聞こえるんですか?
皐月さんはなぜか耳まで真っ赤になって、不機嫌な様子で車に乗ってしまいました。もちろん、私もついていきますとも。
これは、終わりのような、始まりの話。
この続きは別のお話で────。