セーフモード
「ぜえ、はあ……、やっと終わった……」
海原は額の汗をぬぐいながらその場に腰掛ける。泉のほとり、わずかにひんやりとした空気が火照った身体を冷やす。
背後の大樹のウロには田井中が仰向けになりスヤスヤと眠っている。熱冷ましのシートのように額には緑色のミックスフルーツの葉っぱが貼られていた。
暴走の兆しは見られない。マルスの簡易診断によれば比較的容態は安定しているらしい。後はこのまま目覚めるのを待てば良いとの事だ。
海原の頭にマルスの言葉が広がる。
'お疲れ様でした、ヨキヒト。足の裏の調子はいかがですか?'
「ウルトラ痛いわ。つま先立ちでよくキャンプ地まで歩けたよ、本当。俺偉い」
海原はやっとのことで脱ぐことが出来た血まみれのシューズを脇に置き、裸足の足の裏を確認する。
全体が真っ赤に染まっているが傷口は一つだけ。踵のみだ。踵だけまるで極大の血豆な弾けたように赤黒く肉が渦巻いている。
'ポジティブ PERK 爆発する踵はシエラⅠも結局使用することのなかった未知のPERKです。まさかここまでのリスクがあるとは……'
マルスがポツリと呟く。
「そりゃこんな物騒な名前の能力誰が選ぶんだよ」
海原は恐る恐る、足を冷やす為に水につける。つんと、脳みそをつまみ上げられているような痛みが身体を震わせた。
透明な水に、赤い血が筋となって溶け広がる。じっと眺めていたら何時間も経ってしまいそうだ。
'確かに、セーフモードにおけるPERK選択時もシエラⅠはこのPERKの名前を見た瞬間に取得を拒否していましたね'
マルスの何気ない一言、海原は水につけた足が冷やされ痺れていくのを感じる。
「それだ、マルス。PERKってのは俺が選ぶ事も出来るんじゃねーか? 今んとこ全部お前が選んだPERKを使ってるがよ」
海原はこれまでマルスに聞きたかった事を質問した。田井中も救い、ミックスフルーツなどの食料も採取、火石もいくつか回収した後だ。
一息ついたのでここら辺りで確認しておいた方が良いだろう。
'ポジティブ 可能です。むしろそれが本来の私の機能の扱い方なのでしょう。強制的な進化と人の知恵と戦術の融合。開発者はそれを念頭に私を設計しました'
「それはどうやったら出来るんだ? カタログリストみたいなんがあるんか?」
'ポジティブ ちょうどいい。ヨキヒト、周囲には現在敵性反応はありません。少し、仮眠をとってみてはいかがでしょうか? '
マルスの提案に海原は首をかしげる。
「仮眠とPERKがなんか関係あんのか?」
'ポジティブ まあ、寝てみてのお楽しみと言ったところでしょうか? 安心して、周辺警戒は継続します'
海原は泉から足を取り出し、ぷらぷらと振って水気を払う。ずきり、ずきり。傷口に水がしみる。
考えてみればこの場所に落ちてきてどれくらいの時間が経ったのだろうか? 輝く砂原は空間を照らし続けている。
'ポジティブ 現在、地上の時刻は既に20時に迫ろうとしています。夜ですね、貴方は今日一日動き詰めでした。疲労を和らげる為にも少しだけでも睡眠を取ることをお勧めします'
マルスの言葉を聞きながら海原は少し驚いた。もう、20時になるのか。出発が6時過ぎだったから既に半日以上経っている計算になる。
「ん、ふぁ、あ」
そう気付いた瞬間、身体は素直なものだ。一気に瞼が重くなり眠気が脳をゆるく締め付け始める。
まあ、少し寝ておいた方が良さそうだ。海原はくるりと身体を回転させ四つん這いになりながら大樹の元へ向かう。
眠っている田井中から距離を置き、ゴロンとその場に仰向けになる。
砂のサラサラとした感触が気持ち良い。
うとり、目を瞑ってみると驚くほどにすんなりと海原は意識をまどろみの向こう側に放り投げてしまっていた。
…………
……
〜???〜
ザザザーン。ザザザーン。
耳の中にゆりかごのように響き続けるのは波の音だ。
寄せては返し、返しては寄せる波の音が海原の鼓膜を揺らしていた。
「はっ?!」
ぱちり、音に気を引かれて目を見開く。
海。
海原が海にいた。
眼前に大海が広がっている。波打ち際、ザザああん。波が砕けてあぶくとなっている。
「オイオイオイ。遂にイかれたか。おれ」
海原はその場に腰を抜かしたように座り込む。
あの輝く砂と似たような砂浜。違うのはキラキラと光り輝いているのは空にあるお日様の光を反射しているだろうということ。
青い海、白い砂浜。
誰もいないプライベートビーチのような空間に海原は唐突に放り込まれた。
「……足が」
すぐに気付く。どうやら自分は裸足らしい。しかし、足の底にはあのPERKで爆発した踵の傷口は見当たらない。
「つーか、何で海パン?」
思考が自分の状態にようやく気付く。海原はあのぼろぼろのシャツとスラックス姿ではなく紺色の海水パンツ一丁の姿になっていた。
なんだ、この突拍子もない状況は。確か、マルスに促されるままに少し眠ろうとして、それでーー
ダメだ、それ以降覚えていない。何がどうなればあの空間から青い空のしたで海水浴している事になるのか。
こんな夢みたいなわけの分からないーー
「夢……?」
そこまで考えて海原はポツリと呟いた。そうだ、こんな風に突拍子もなく意味の分からない場所に意識が飛んだ事が前にもあったようなーー
「その通りです。ヨキヒト。ここは貴方の夢の中。貴方の深層心理を夢として浮き上がらせた場所。私と貴方しか存在し得ない、セーフモードです」
背後から鈴のような声が鳴る。ガラスで出来た風鈴ご美しく鳴ったようなときめきすら感じさせる。
海原は反射的に背後を振り返る。
美少女だ。
長い金糸のような髪の毛は長く、彼女の足元にまで伸びている。
クリっとした大きな瞳はまるで目の前に広がる青い海をそのまま閉じ込めたように濡れて光っている。
小さな背丈。美少女だと感じたのはその背丈や抱きしめれば砕けてしまいそうな細い肢体にあるのかもしれない。
白い簡素なワンピースに身を包んでいる彼女がさくり、こちらに一歩を踏み出す。
剥き出しの膝や足首は新雪よりも白い。まるで星の光のようだ。
長い髪の毛をそのまま伸ばしたままの姿。手入れされていないはずなのに、何故だろうか。
その姿が異様に美しい。
しかし、どこか懐かしい。どこかで海原はこの美を見たことがある。
そう、まるでその美を幼くしたようなーー
「ヨキヒト?」
ぼんやりと眺めていた美少女が首を傾げながら海原の名を呼ぶ。小動物のような仕草に海原は胸が締め付けられるやうなときめきを感じた。
同時に、気付いた。この美少女をおれは知っている。
海原はときめきと閃きをそのまま口にする。
「待て、お前。マルス……か?」
なんでその呟きが出たのか、海原にも分からない。己の身体に棲まう未知の生物兵器と目の前の美少女は似ても似つかない存在だ。
でも、海原には両者がイコールで繋がってしまっていた。
美少女は、小さな唇を紡ぎながらにこりと笑う。向日葵が少し成長した瞬間のような笑顔。
「はい。私はM-66 強制進化促成寄生生物兵器。コードネーム、マルスです」
目の前の美少女は名乗った。
さくり、さくり。海原に歩み寄ってくる。
「よく分かりましたね、ヨキヒト」
笑いながらマルスが、海原の隣にちょこんと座る。体育座りをしているとその身体は更に小さく見える。
「驚いた……お前、性別あったのか」
海原はわずかに香る甘い匂いを嗅ぎながらマルスへ話しかける。
ザザザーン。波が砕ける。温い風が海から吹き付けていた。
「ネガティブ……です。ヨキヒト。この姿はある人物より借りているものです。本来の私の姿ではありません」
マルスの声が脳内で響くのではなく、口から紡がれる、不思議な光景だ。
「ある人物?」
海原はポカンと言葉を繰り返す。
「アリサです。この姿はアリサ・アシュフィールドの記憶から作られた似姿です。彼女の幼い頃のイメージを基に作ってみました」
ふふといたずら気に笑うその顔。人種特有の精密な造りもののやうな美しさ。
なるほど、見覚えがあるはずだ。
あの時口付けを交わした、あの顔にそっくりなんだ。
海原はどこかポーとその姿を眺めていた。
そんな海原をマルスは至近距離で見つめる。小さく、いたずら気に笑う。
「ふふ、ヨキヒト。どうしたの? 見惚れているんですか?」
「お、おお。あまりにも美少女すぎて反応に困る。そうか、あの時は余裕がなかったけど、アシュフィールドってヤバいほど美人なんだな」
しげしげと海原はその顔を見つめる。これほどまでに女の美しさで恐ろしさにも似た驚愕を感じるのはこれで2人目だった。
「アリサの顔ですから。無理はありませんね。セーフモードにようこそ、ヨキヒト」
金髪碧眼の美少女の姿のマルスに若干ビビりながらも海原はお、おうと短く返事をする。
気を取り直して海原はいくつか気になることをマルスへ問いかける。
「これは夢の中なのか?」
「はい、現実の貴方は、今眠りについています。明晰夢を技術的に再現した私の機能の一つです。ああ、安心して。きちんと肉体の方はゆっくりと休ませることが出来ますし、眠気の方も問題ありません」
マルスが、からからと表情を変えながら言葉を紡ぐ。海原は諦めにも似た気持ちで、この状況を受け入れた。
まあ、人間の身体を進化させるようなトンデモ存在だ。夢をいじるくらいわけないのかもしれない。
無理やり自分を納得させる。思えば今日一日で海原の常識というやつはボコボコにされ続けていた。
割とこの状況を早めに海原は楽しみ始めていた。
「ほー、すっげえ。で、もしかしてこれがPERKの選択と関係ある場所なのか?」
「ポジティブ ヨキヒト。その通りです。貴方にはこの貴方自身の深層心理の中で自らの進化を選ぶことが出来ます、何になりたいのか。どのようなことができるようになりたいのか」
マルスがひょこりと立ち上がる。
金糸の髪の毛に陽の光が混じり、宝飾品のような輝きを伴っていた。
海原は目の前に太陽が現れたような錯覚を覚える。
海を背景に、マルスが海原に手を差し伸べる。
ぱちり。
何処かの誰かが指を鳴らしたような音が響いた。
海原の足元の砂浜から何かがにょきりと生え出した。
それは小さな、小さな苗木だった。
「さあ、選んで、ヨキヒト。貴方の進化を始めましょう?」
マルスの言葉を引き金にこの小さな苗木にぱっぱと赤い小さな木ノ実が成った。
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