基特高校にて 雪代 長音もしくは、それはまだ誇りを知らぬ只の女。
雪代好きの方へ、ごめんなさい。
〜地上、基特高校にて、空き教室、長い日が沈んだ19時頃〜
雪代 長音は1人、空き教室に閉じこもっていた。図書委員の力で閉じられた扉を内側からさらに自らの力で強く固める。
糊の上から蝋を固めるかのような馬鹿な行動。
今、雪代 長音は誰にも会いたくなかった。
海原善人が、死んだ。
生還者である樹原 勇気に先ほど告げられた事実は容易に雪代の現実を打ち崩した。
捜索に出た人たちは8人。その中で帰って来たのは半分の4人。
その中に海原はいなかった。
あの言葉を聞いた後、自分がどうなったかはよく覚えていない。
気付けば、この真っ暗な教室に1人で椅子に座って、机に突っ伏していた。
頭がぼうっとする。これがとても現実の事のようには思えない。夢でも見ていると言われた方が納得出来る。
海原くんは、死んだ。
樹原 勇気の言葉が反響するーー
「っそんなわけない!!!」
教室に叫びがこだまする。決して叫びつもりなんかなかったのに、身体が勝手に喉をふるわした。
信じたくない、信じたくない。信じれない。
必死に雪代長音はその男の死を否定する。だがそれでも身体の震えは止まらず、肚の底が冷え始めていた。…
「……聞こえない…… 聞こえないよう。海原さん」
雪代は机に突っ伏して呻く。あの夜からずっと雪代を包むように鳴り響いていた音がもう、聞こえない。
彼と一緒にいるといつも聞こえていたさざ波の音。海の音が、今はもう聞こえない。
お昼頃までは遠く、どこかで聞こえていたはずなのにある時間を境目にぴたりとその音が止まった。
海原くんは、死んだ。
樹原の声がその空っぽの頭に再び響く。消えた海の音がその言葉が真実であると囁く。
「……嘘だ。嘘。海原さん。だって……だって約束したのに。なんで、なんで……」
行ってくるわ、にかりと下手くそな笑いを浮かべる彼の顔がもう、あんなにも遠い。
特別ではない、秀でてもない。優れたる者でもない凡庸な男。その男のことを思うだけでなぜこんなにも心が軋み続けるのか。雪代には分からない。
貴方は弱いから。貴方は平凡だから。貴方は特別ではないから。貴方が心配だから。
彼を引き止める為に綴った数々の言葉、結局それはなんの役にも立たなかった。
彼は行ってしまった。私を置いてこの残酷な世界に立ち向かい、そして死んだ。
私は彼になんと言えばよかったのだろうか?
雪代はもう答えの出ようもない問いを考え続けた。
わたしも、わたくしもこんな時に限って出てくる事はない。いつもそうだ。自分が本当に苦しんでいる時には彼女達は、まるで湖面に沈んだかのように出てこない。
代わりに、出てくるのはーー
'哀れだな。雪代の血を、私の血を濃く引くお前がたった1人の男の死にここまで狼狽するとはーー'
雪代は頭の中に響いた冷たさを伴うその声を煩わしくかんじる。
「うるさい、消えて」
'いいや、消えない。何故なら私はお前だからな'
雪代はその声と対峙する。古くから共にあるこの声。それは雪代の特別なる力と血に深く関わる者だった。
'お前の怒りが流れ込んでくる。お前は今怒っているな、長音'
老婆のような、それでいて生娘のような矛盾した声、雪代にしか聞こえない古きモノが囁く。
「消えろ……、私を見るな」
いつものように雪代は力を己の内側に向けて放つ。この歪な強すぎる雪代の力の本来の使い方だ。
'ふ、ふふふ。どうした。その程度の意思では消せないぞ。長音、貴様弱くなったな……'
「黙れ……黙れよ」
'お前の心は今、怒りにまみれている。わかるか? 怒りだ…… 悲しみなんかじゃない。お前はお前を置いて逝った男に対して怒っている……'
雪代の深い場所でその声は鳴り続ける。普段であればこの声を抑える事が出来るのに、今日はやけに力が入らない。
'お前はそういう人間なんだ、長音……。どこまでも、どこまでも大事なのは自分。他人の事などどうでも良いのだ。ほうら、お前の怒りは妹にも向いているぞ……'
長音はその声を聞いた瞬間、勢いよく椅子を跳ね上げながら立ち上がる。
くわりと目を見開き叫んだ。
「ふざけるな! 下郎!!」
キィん。力が暴走する。本来長音の内に向かうべき力がその感情の爆発により方向が狂う。
べき、ビキ、ばきり。
長音の周りを囲うスチールと硬い木で作られた勉強机が半径2メートルの範囲で一斉に軋んで砕ける。
見えない巨人の手でくしゃくしゃに丸めこまれたようだ。
「ぐっ、はあ、はあ、はあ」
コントロールされずに発露したその力は長音から体力を一気に奪った。雪代はその場に崩れ落ちる。
闇夜に溶ける黒髪が、汗がにじむ白磁の肌に張り付く。
'なぜ、私を1人にするんだ。なぜ、彼を行かせたんだ。ほうら、お前の心は他者への怒りで溢れている。お前はもともと喪失を悲しみではなく怒りを以って迎える人間なのだ……'
「あ……ああ、違う、違う、私は、わたしは、わたくしは……」
'人間の真似など、らしくないことをするからだ。我が愛しきか弱い器よ…… おや、感じるぞ。出来損ないが近くにいる……'
雪代はその声を聞いた途端、教室の入り口に視線をパッと向ける
だめ、今は来てはだめ。
雪代の想いは叶わず、どんどんと扉を叩く音がした。
「姉さん! 今、とても大きな音が! 大丈夫?! お願い、ここを開けて!」
継音の声だ。普段は感情を露わにしない無感動な子が張り裂けそうな声を出している。
誰のために? きまっている、自分の為だ。
雪代はその場に崩れ落ちたまま、いやいやをするように首を振る。
「だめ…… 継音…… 今はだめなの。お願い、放っておいて」
「出来ない! お願い、姉さん。力を貸して。こんな時だからこそみんなで協力しないと」
わかった風な事を言うな。
雪代はイラつきを感じ、そんな言葉を思いつく。言葉を取り消すように頭を振る。
今、私は何を考えていた? だめだ、それだけはだめだ。
これじゃあアイツの言う通りーー
「姉さん、一姫は、目を腫らしたまま……体育館に向かった…… 避難者の中に風邪を引いている子どもがいるからって…… 真っ赤な目をして、それでも笑いながら体育館に向かったの」
扉の向こうから、継音の声が聞こえる。長音は子どものようにいや、いやと首を振りながら尻餅をついてその場を後ずさる。
やめて、それ以上言わないで。
貴女にそれ以上言われると、私はーー
「つぐっーー」
「私の友達も! 泣いている……、一姫だって大切な人を亡くしている! 姉さん、海原さんだけじゃないの! 鮫島さんだって、田井中君だって、影山君だっていない! 苦しんでるのは貴女だけじゃない!」
あっ。
ぷつん。雪代はどこか遠くて近い場所で、何かの糸が断たれた音を聞いた。結び、長い間紡がれて、必死に雪代が繋ぎとめようとしたモノが今、継音の言葉とともに断ち切られた。
「……るさい」
「姉さん?」
「うるさいいいいいい!!! 黙れ、継音! 貴女が! お前がそれを言うなぁあああ!!」
もう止めれなかった。力が沸騰する。最後の最後でそれを継音に向けるのではなく教室の黒板に向ける事が出来たのは、雪代長音の最後の理性によるものだった。
黒板が、凍りつきながらバラバラに崩れ落ちた。かき氷のようにサラサラした破片と化した黒板が教室にさぁあと広がる。
「お前が! お前が、あの時、彼を行かせたんだ!! 継音! お前さえいなければ、海原善人は死ななかったのに! 」
「は……え……? ね、姉さん?」
扉を隔てた向こう側、呆然とした妹の声が聞こえる。それすら今の長音には不愉快で、耳障りだった。
「お前が殺したんだ! 海原善人はお前に殺された!! そのお前が、良くもそんな綺麗事を抜かせたものだ!」
もう止まらない。雪代 長音はこの世で最も醜い感情に支配されていた。
己の弱さを他人に向けたとき、そこには腐った胃酸のような臭いを放つ悪が生まれる。
「お前の声など、聴きたくもない! 私に近付くなあああぁ!!」
はあ、はあ、はあ。
髪を振り乱しながら、長音は大きく喘ぐ。気付けは四つん這いになり、叫び続けていた。
教室は嘘のように静まり返る。
何秒、いや何十秒経ったのだろうか。
扉の向こう側、教室の外から水音、溶けた氷水のような湿っぽい音とともにーー
「……ごめんなさい」
声がした。
加えてタッと人が駆け出した音、それきりもう、何も聞こえない。
「あーー」
雪代は無意識に手をさしのばす。その手がつかめるものは何もなかった。
力の入らぬ身体でその場に大の字に仰向けに倒れる。
艶めいた黒髪が寝床のように広がる。もう、これを整える意味もなくなった。
継音とお揃いの髪でも、海原がよく目線を傾ける髪でもなくなった。
耳鳴りとともに、誰かの嗤い声が聞こえた。
あははは。あはははは。あははははははは。
自らを心配する妹を醜く拒絶した姉の姿がここにある。
またアイツが嗤っているのではないかと訝しんだが、どうやら違うようだ。
「あははは。あっははははははははは」
私だ。嗤っているのは私。私は私を嗤っている。
愚かで醜い女。雪代長音を嗤っているのだ。差し伸ばされた手に唾を吐いて、何よりも大事なはずの妹を傷付けた。
アイツの言う通りだ。
私は結局、私を一番愛していただけ。
海原 善人を亡くしてこんなにも辛いのは、もう彼に会えないからじゃない。
ただ、自分が独りになるのが嫌なだけ。
雪代 継音は何も悪くない。なのに、この辛さを自分の弱さを彼女にぶつけた。
紡いだ絆を自ら断ち切ったのだ。
雪代の頭の中にはもう、何の声も響かない。
わたしも、わたくしも、そしてアイツも何も言わない。
違う、雪代長音は初めから知っていた。
わたしと、わたくしも、そしてアイツも。
全ては私だ。
彼女達は弱く、惨めな自分を守るために自ら作り出した虚像だ。
私は始めから自分がロクでもない人間だと知っていた。
雪代の嗤いは闇に混じり溶けていく。
基特高校の夜が更けていく。いつもより数段暗い闇に包まれて、いつ終わるかも分からない夜が始まった。
雪代は気付かなかった。
彼女の力の及ばぬところ、教室の隅にぽつんと置かれた掃除用具入れのロッカーの上に、奇妙な蜘蛛のような生き物がじっと身を潜めていだ事を。
それがずっと教室の様子を伺っていた事など知る由もなかった。
…….……
………
……
蝋燭の光がわずかに照らすスペース、食料を保存している家庭科室にその男はいた。
椅子に腰掛け深く目を瞑っている。
かと思えば、ぱちりと目を開き、大きくため息をついた。
机に置いていたコーラのペットボトルを掴み、ぐびり。中を煽る。
「ああ、美味しい。とても、美味しいよ」
男の声は闇色をしている。夢心地のようなうっとりとした声色。
おもむろに立ち上がるとガサゴソと棚を物色しいくつかの缶詰を適当に取り出す。
机へ無造作に広げた後に再び、椅子に深く腰掛ける。
男はずっと、自らの小さき眷属を通してその諍いを見ていた。聞いていた。
男はずっと、ずうっとこれが見たかったのだ。
目の前で、信頼と愛が崩れていく劇を。
悲劇を見たいが為に男はずっと努力していた。
「ああ、雪代長音、雪代 継音。君たちはとても良い。とても良い、種だ」
男はコーラを呷りながら、蝋燭のわずかな光を頼りに机に広げた缶詰を物色する。
男にしてはしなやかすぎる指先が踊るように缶詰に絡んでいきーー
「うっ…… これは。蟹缶か…… 危ないなぁ」
男はその大漁と書かれ、大きな蟹の意匠が描かれた缶詰に触れた瞬間、不快そうな声を上げた。
汚物を触るように二本の指でつまんだ後、棚に放り込むように投げ戻す。
気を取り直して机の上を再び物色し桃缶を掴み、ピンと小指で蓋を切り裂いた。
蟹缶をつまんだ指はわずかに皮膚が赤く腫れていた。それはまるでアレルギー反応のようなーー
男は知らない、奇しくもその缶詰は男が最も恐れていた厄介者が拾い集めてきたものだった事を。
男はそのまま、家庭科室で甘い果実に舌鼓を打った。
乾杯だ。今日、始末した全ての生贄たちへ。
奈落に沈んだ厄介な強敵達に、可哀想な弱きこどもに。誇り高くそして哀れなこどもに。
そして、これから起こる全ての悲劇に。
「乾杯」
しゅわりと、男の喉の中で炭酸が踊った。
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