田井中の結末、反撃の狼煙
「怪物種第58号、セイモンアオ防音蟹」
樹原が立ち上がりながら、己の顔に生えている青い甲殻を撫でるように取り除く。
その唇が言葉を放つと同時に、頰からまた甲殻が抜け落ちた。
ぼち。泥濘みの中に落ちた甲殻が粘着質な音を鳴らす。
ばちゃ、ばちゃ。
吹き飛ばされた樹原が田井中へ近づいて行く。
傷はわずか、薄皮を削ぐように頰を切り裂かれたのみ。後は全て突如樹原が備えた甲殻により田井中の決死の一撃は防がれていた。
「 とある世界でそう呼ばれる生き物がいたんだ。僕たちの生きるこの世界とは別の歴史を歩んだ世界。彼女が僕だけに教えてくれた、別の世界の話さ」
ぽつり、呟くように樹原が言葉を紡ぐ。歩くたびに脱皮していくように歪に備わる甲殻が落ちていき、そのたびに泥濘みが跳ねた。
「その世界ではね、セイモンアオ防音蟹の甲殻は建材として利用され始めているんだ。例えばそう、病院の壁とかにね、人間とは面白いものだね。使えるものはなんでも使うのだから」
ばちゃ。樹原の言葉とともに歩みが進む。
「甲殻はその生き物のモノだ。本当に危なかった、何度でも言おう。君は正に戦闘の天才だ。奈落の泥では僕を傷つけられない事に気付いたのだろう? だから咄嗟に自らの血での攻撃を思い付いたんだ。並大抵のことじゃあない。素晴らしいよ、田井中 誠くん」
ばたゃ。
足音が止まった。
うずくまる田井中の元へ再び樹原がたどり着いたのだ。
その足はまた、田井中の血溜まりを踏み付けていた。
「だから、これはそんな特別な才能を持つ君への敬意だ。奴らとは違う君への手向けだ。君は僕の事を知る権利がある」
もう、血溜まりからは何も生まれてくる事はなかった。樹原はそのままうずくまり動かない田井中へ顔を近づける。
「The Sailor Who Fell from Grace with the Sea、それが僕の特別な力の名前。長過ぎるからTWGとも呼んでいる」
ぐい。樹原が無造作にうつ伏せのまま血の池に沈む田井中の頭、血と泥にまみれた金髪を掴んで、無理矢理顔を引き起こした。
「能力は単純。奈落の生命を司る事。それだけだ。それだけ出来れば、なんでも出来る」
犬猫を持ち上げるように田井中の髪の毛を掴み引き上げたまま、ただ、淡々と続ける。
「君の手足も斬り飛ばしたのも、彼らの力の再現だ。怪物種第96号 カマイタチオオアゲハ。指先に彼らの羽を再現した。空気の淀んだ密室でしか使えないのが欠点かな?」
樹原がもう片方の手で、地面の泥をすくい取る。田井中の血溜まりから掬った泥は赤と黒が混じり合い、えもいわれぬ色合いに変わっていた。
ぬるりと、樹原はその泥を田井中の頰に塗りつけながら口を開く。
「この泥も、広義的な意味で言えば生命だ。わずかに呼吸し、代謝を行なっている。金属生命体……とでも言おうかな? あの世界でもまだその存在は知られていないみたいだけどね」
ねちゃり。その泥を今度は樹原は自分の口へ含む。ブルリと身体を震わせ、田井中の頭をつまみ上げながら観察するように見つめ続けていた。
「……ホット……アイアンズ」
「ダメだ。それはさせないよ」
パシン。一瞬蠢き始めた地面を樹原が、幼子を躾けるように叩いた。
それだけで地面の隆起は止まった。田井中のホット・アイアンズの命令を、樹原の支配が上回っていた。
「良い力だね。ホット・アイアンズ。金属を操るという単純さ。それが良い、本人の素養次第でどんな使い道でもできそうだ。でも、僕には勝てない」
「……殺す…… 殺してやる」
田井中の唇が薄く開いて、掠れるようなら声をまろび出していた。
「まともな人間はいつもそう言うね。出来もしない事をペラペラと。一つ、最期に良いことを伝えておこう」
どちゃっ。
樹原が田井中の髪を掴んでいた手を離す。鈍い音を立てながら田井中は顔面から地面に落ちた。
「ぐっ。あ」
呻く田井中を、樹原は見つめる。ガラス玉のような眼球はただ、その光景を見つめるだけ。その目になんの感情も見出せない。
「ホット・アイアンズ、スピーク・ザ・デビル。能力に名前をつけた後はその出力が大幅に上がっただろう? あれは僕のアイデアなんだよ」
向けられた言葉、田井中は息を飲んで目線だけを上に大きく目を見開いて樹原を見つめた。
「君たちは子守さんに聞いたのだろう? 能力に名前をつけるアイデアを。それを子守さんに教えたのは僕だ。彼女も僕の事を信じている良い生徒だからねえ……」
樹原は人差し指をくるくると回しながら言葉を続ける。
「力とは、奈落からの贈り物だ。この世界は奈落を扱いきれなかった、世界から枠は外された。ルールは消え、終わった世界が始まったんだ」
「……おまえ。お前は…」
「君たちに能力へ名前をつけさせたのは成長させる為だ。名前を付ける事によって君たちは真に特別なるものへと変わっていく、君たちは彼女の光を扱うものになる」
うっとりとした口調で樹原は言葉を紡ぎ続ける。
「君たち、特別な存在が誰かを助けようとする。世界を救おうとする。人が何かを成し遂げようとし、失敗する時。そこには悲劇が生まれる」
田井中の髪の毛を樹原が撫でる。金色の髪がだ瞬く間に赤と黒に汚れていく。
「僕はね、そういうのが好きなんだ。誰かが大切な存在を失ったり、願いが叶わず散ったり、信じていたものに裏切られたり…… とにかくそういうのが見たいんだよ」
「ぐ……、変態……ヤローが」
田井中は残りわずかな力を振り絞る。しかしすぐに3本の四肢を失った田井中は、己の血溜まりの中で、もぞもぞとうごめく事しか出来ない。
「君達は、悲劇の種だ。種が優秀で特別で輝く程に悲劇はその芳香を増していく。特に、君は素晴らしい悲劇の種になっただろうねえ」
樹原が突然、右手の小指を立ててその先を田井中の残りの足に向けた。
「彼女が僕にくれたこの力、これを使って僕はこの世界を本気で生きていこうと思うんだ。この世界は無数に存在する全の中のたった一つ……、だからほら、我慢するのが馬鹿らしいだろう?」
ぴちゅん。
樹原の小指先から何かが吹き飛んだ。栓を抜いたシャンパンのコルクのように飛んだそれは田井中の残りの足、脹脛の辺りに直撃する。
「ぎっ?!」
「TWG。終わりにしよう」
田井中は脚に打ち込まれたナニカの異常性にすぐに気付いた。熱く、蠢くそれはただの小指ではない。
動いている。田井中の足の肉の中でそれは生きているように蠢き続けている。
「怪物種23号 人宿りニク蝿。やる事は単純、君の身体を内側から食い尽くし成長する。食い尽くした後は宿主と融合し、その死骸を動かしながら生きていく生命」
熱い、熱い。肉が内側から溶かされているような熱、しかし奇妙な事に痛みがなかった。田井中は、本気でこの事態が自らの死に直結すると理解していた。
「奈落よ、彼を連れて行け。彼の生命を彼女に捧げよう」
樹原が腕を広げて天井を仰ぎながら静かに告げる。
ず、ず、ズズズ。
田井中の周りの地面がうねり、沈みはじめた。アリ地獄のようにすり鉢状に変わっていく。
脚に感じる熱、身体にまとわりついていく泥。
樹原の言葉を真に受けるなら、この熱を放っておくのはまずい。事実、この脚の中の蠢きはどんどん上に登って来ている。
身体中が泥に包まれていく。
田井中は自分の敗北を感じていた。自分は完全に負けた。生死も、尊厳も何もかもが樹原の手の中にあった。
「君はこれからおぞましい死を迎える。内側から食い尽くされる恐怖や痛みはどれくらいなのだろうね、君は誰にも看取られる事なく、奈落の奥深くで一人、食い殺されるんだ」
目をらんらんとかがやかせながら樹原が唾を飛ばす。
田井中は痛む身体を器用に転がし、仰向けになった。身体は沈んでいく。気を抜けばたちどころにホット・アイアンズの止血は解けて、自分は死ぬ。
この残った脚を登ってゆく熱、これを放っておいても死ぬ。
樹原はさぞ、喜ぶ事だろう。自分が苦しめば苦しむほど、嘆けば嘆くほど、悦ぶのだろう。
生命は奪われる。
尊厳を破り捨てられる。
それでも、まだ樹原に触られていないものがある。
田井中は静かに瞼を閉じた。瞼の奥、記憶の底に田井中は勇気の姿を追いかけた。
兄貴、親父……、見ていてくれ。そしてもし、近くにいるのなら……力を貸してくれ。
田井中が瞼を開く。
まだ、残っているものがある。
樹原に奪われていないものが、あった。
「……ホット・アイアンズ!!」
ぶつん。
田井中の残った脚、同じく根元から弾けるように切り飛んだ。田井中は自分の判断でホット・アイアンズにより内部からちぎり飛ばしたのだ。
今度は樹原によってではない。
「てめえに、これ以上くれてやるモンはねえ…… 必ず、必ず生き残ってやる……、殺してやるぞ、樹原 勇気……」
ず、ずず、ず。
弾け飛んだ脚がぼとりと、樹原の足元に落ちた。断面から野球ボールサイズの蛆虫がまろび出て、陸に上げられた魚のようにのたうち回って、すぐに動かなくなった。
田井中はそのまま沈んでいく。死に体の状態、しかしその瞳の光は絶望している人間のものではなかった。
樹原の目と田井中の目が合う。
歪んでいく地面に、田井中の身体が完全に沈んでいく。
最後まで田井中は樹原から目線を切ることなく、四肢の全てを失った状態で沈んでいった。
とぷん、と水が揺らぐような音を最後に田井中 誠は奈落に飲み込まれていった。
「……見事だ、田井中 誠。君をこんなところで始末した事が残念でならないよ」
樹原はそのまま踵を返して、何事もなかったかのように歩き出す。
ちぎり飛んだ田井中の四肢や影山の死体には既に黒い泥がまとわりつき、その肉を骨ごと溶かし始めていた。
樹原はもうその場にあるものの一切を視ることすらしない。
「田井中くん、四肢を失った状態で奈落に留まる事が何を意味するのか。君は知らない。君は誇りを守ったかわりに、恐ろしい結末を迎える事になる。祈っておこう、それが君にとっての悲劇となる事を」
誰に聞かせるわけでもない、呟きは奈落の闇に広がっていく。もう、樹原の隣を歩く者はいない。
樹原は奈落の声に耳を傾ける。残りの捜索メンバーにはもう脅威となる人物はいない。
後は何食わぬ顔で彼らと合流し、頃合いを見て基徳高校に帰るのみだ。
樹原 勇気は今日、全ての障害を片付けた。
影山 勉、鮫島 竜樹、海原 善人、そして田井中 誠。
「あはは。あははは。見ていてくれ。僕は君の言う通りに好きに生きよう、ああ、楽しみだ、ここから始めよう、僕の終わった世界の人生を」
ぴちゃり、ぱちゃり。
樹原の足音は進んでいく。
そういえば、落とし子からの反応がまだない。
果たして、はじめに始末出来たのは鮫島か、それとも海原か。
まあ、どちらでも良いか。
どちらにせよ、奴ら2人は奈落から抜け出す事はない。選ばれなかった彼らはここで、奈落に喰われるしかないのだ。
樹原は生まれてはじめて本気で高揚していた。
結局、樹原は落とし子からの反応を待つ事なく、そのまま奈落に落とした残りのメンバーと合流した後脱出を躊躇うメンバーを説得してから、悠々と奈落を抜け出したのだ。
奈落から地下街への最短ルートを樹原は先導する、捜索チームの誰しもが樹原を疑う事はしない。
そう言う人物だけを樹原は生かしたのだ。樹原の行動に感づく可能性のある人物はもう、いない。
樹原 勇気の目的は全て達成された。
後は基特高校において、始めるだけだ、
彼による彼の為の悲劇の物語の準備を。
樹原 勇気が地上に戻る。
樹原が仰ぎ見た空は、血のように真っ赤に染まった夕焼けだった。
さあ、家に帰ろう。
樹原 勇気はこれから始まる楽しみに、醜く顔を歪ませた。
誰もその顔に気付く事はなかった。誰ももう、樹原を知る者はいなかった。
捜索チームは帰って行く。誰も救わず、新たなる犠牲者を出した彼らの足取りは重い。樹原は彼らに歩調を合わせる事に、ひどく苦労した。
捜索チーム 4名死亡、4名帰還。
樹原は知らない。スキップでもしたくなるくらいに珍しく浮かれていた樹原は知らなかった。
既に彼の足元、奈落の奥底では反撃の兆しが生まれ始めていた事を。
最も恐れていたイかれた凡人がまだ、生き残っている事を彼は知らなかった。
………
……
…
'ポジティブ! 観察対象から軽微な生体反応を確認。心音を微弱、脳波微弱、呼吸活動を確認。ヨキヒト、彼はまだ生きています'
捜索チーム 4名死ーー よ、よ、4ーー………2名死亡。4名帰還。
2名、奈落にてサバイバル開始。
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