もう、戻れない場所。目覚めと出会い
「つーかよお、海原ぁ、お前結局、雪代のお姫様とどこまでいったんだぁ?」
空き教室の中心、畳の敷き詰められたスペース。小さなちゃぶ台の対面に座る目つきの悪い男が海原へ話しかけて来た。
「どこまでって、そりゃどーいう意味だよ、鮫島」
海原はちゃぶ台の上に置いてあるコップを掴みその中身を煽る。備蓄のミネラルウオーターはいつも通り温い。
「おいおいおい、とぼけんなよぉ、海原ぁ。あれだけあんな美人といつも一緒にいてよお、なんもないって事はねーだろ」
鮫島がニヤニヤしながらこちらを見つめる。ちゃぶ台に肘を置いて海原へ迫る。
「別に、あいつとはあの夜を乗り越えた仲ってだけだ。特別色っぽい話はねーよ」
「うっそだろ。お前よお。本当に男かぁ? あんなすげえ身体してる和風美人にくっつかれて本当になんも思わねえのか?」
「ジジイみてえな事言ってんじゃねーよ、鮫島。あれだよ、あれ。夜のお店のお姉さまはそういう目で見れてもよ、友人とか同僚はどれだけ美人でもそんな対象になんねーだろ?」
「え、普通になるけどぉ」
「性癖の違いだな。俺はなんねえんだよ」
ごくり、再び海原が水を飲む。なんだかいつもより味気ないような……
海原は首をわずかに傾げて、コップをちゃぶ台に戻す。ぽちゃり、水音が鳴る。
「けっ、なんだよ。つまんねーなぁ、おい。俺の見る所よお、雪代のお姫様は割とイケルと思うんだけどなぁ」
「え、なんだそれ」
海原はため息をつく鮫島に問いかける。認めたくないが鮫島の人を見る力や、世渡りの力は眼を見張る物がある。
「なんだぁ、おい。鈍感主人公か? やめとけ、ああいうのは顔の良いヤツだけの特権だぁ」
「うるせーよ。てめえも大して変わんねーだろーが。悪徳銀行員。……雪代がイケルってなんだ?」
食いつく海原に向けて、鮫島がんーと人の悪い笑みを向けた。
「んだよぉ、興味あるんじゃねえかぁ。まあ、俺は女心を察するに関しては一家言持ちだぁ。俺の見立てによるとよお、おそらくあのお姫様はお前に気があるぜえ」
「へいへい、鮫島さんがそういうんならもしかするかもな。あいにく、俺みたいな凡人にゃ釣り合わねえよ」
海原はふーと息を吐く。身の程をわきまえる。調子に乗らない。うまい話などない。これが海原のある種ねじ曲がっている異性への接し方だった。
残念ながら生まれてきてこのかた黄色い声援というやつを浴びた事がない。学生時代のバレンタインだっていつも、友人のついでにもらう義理チョコや、親チョコしか貰った事がなかった。
「えー、そんな事ないと思いますよ? 雪代さんって海原さんにだけ態度違う事とかよくあるし」
唐突に、ちゃぶ台を囲む人物が増えた。栗色の髪を短めに束ねた細身の女性。
「うおっ! 」
青葉 伊月がそこにいた。健康的に日焼けした小麦の肌に、小さな鼻。興味深そうにクリクリと丸い眼を海原に向けていた。
「えー、海原さん。その反応なんです? そんなびっくりしなくていーじゃないですか」
青葉は頰をぷくりと膨らませて海原をじとりと見つめる。
「ああ、いや、悪りぃ…… え、青葉。アンタいつからここにいた?」
「えー、なにそれ感じわるーい。ずっーとここに居ましたよね、鮫島さん」
「……ああ、そうだなぁ。俺が来るより先に青葉はここに居たぜえ」
海原の目の前で鮫島と青葉が顔を合わせて話をしている、
ずきり。
頭が痛んだ。
なんだ、何か。何かが変だ。
海原は頭痛とともにこの状況への違和感を覚えた。
「待て…… 青葉、なんでアンタがここにいるんだ?」
ずきり。
細い首がへしゃげる映像、影、影法師、コウモリの化け物。海原の脳裏に数々の映像が再生する。
「え、割とショック。探索チームの仲間にそんな事言われるなんて……」
よよよと青葉がおどけてみせる。
良く見ていた光景、いつもの光景のはずなのに。焦燥感にも似た違和感が拭えない。
「いや、違う。青葉だけじゃない。なんでだ、鮫島。なんでお前もここにいるんだ?」
そうだ、何かがおかしい。海原は疑問をそのまま言葉へと変えていく。
「……どういう意味だぁ? 海原」
「だから! ここにいるのはおかしいだろうが、おれたちは外に! ……そうだ、思い出した。俺らは外に出てるはずだ。サレオの地下街に…… なんで、学校に戻ってんだよ」
海原は頭を抑えながらちゃぶ台に座る二人を見る。ここにいるはずはない奇妙な二人を見つめる。
「それに、青葉…… アンタはもう……」
海原は呟く。そうだ、おかしい。目の前にいる栗色の髪の女は……青葉伊月は、あの時に……。
「……ちぇ、もー気づいちゃったのかあ。ザーンネン。あと少しだけこうしておはなししたかったんだけどなあ」
ふふと息を零すように笑いながら、青葉が立ち上がる。どこか寂しそうな笑いを海原へと浮かべていた。
「なんだ、どういう意味だ?」
「……教えない。じゃあ鮫島さん、私先にいってますから! 後は男2人水入らずで!」
にかりと青葉が笑う。トッ、トッと身軽な足取りで教室を出て行く。細い脚にぴったりとしたデニム生地のパンツ。
海原は彼女がドアを開けるのをぼーと眺めていた。
「じゃーね! 海原さん、さいごに会えて良かったよ。雪代さんとお幸せに!」
最後まで笑顔のまま、青葉は教室を後にした。ガラリと音を立ててドアが閉まる。
シンと教室に静寂だけが残る。
海原は鮫島の方を向いて、この状況の異変を伝えようと口を開きーー
「……まあ、あれだぁ、海原。青葉もそう言ってるしよお、頑張れよ、お前」
どっこいしょと呟きながら鮫島もまた、ちゃぶ台から立ち上がる。海原はただ、その様子を眺めるだけだ。
何かがおかしい。動きたいのに動けない。
「鮫島?」
問う事しかできぬ海原、その声はまるで縋るような声色でいて。
「悪りぃな、海原。苦労をかける。……俺ももう行くわ」
のそりと鮫島も青葉と同じように、教室の出入り口へ向かっていく。なんの説明もなしに、海原を置いて。
「お、おい。待て、待てよ! 鮫島、どこに行くんだ?」
海原は鮫島を引き止めようと立ち上がろうと身体に力を入れる。
ぐらり、身体が傾いた。
あ?
立ち上がる事は出来なかった。左脚は膝の辺りから何かに噛みちぎられたようになくなっている。
あ、ああああ。
思い出した、そうだ。俺は確か、あの狼の化け物に殺されかけてーー
不思議と痛みはない。崩れ落ちた海原は鮫島を見上げる。
「待て! 鮫島! いくな! ダメだ、そっちに行ったらダメだ! 春野さんはどーすんだ?!」
気付けば叫んでいた。なぜ、こんな言葉が出たのか海原本人にも分からない。
それでも、鮫島はこつり、こつりと教室のドアに近づいていく。
ドアの引き手に手を掛けた。
「鮫島!!」
海原が叫ぶ。ドアに手を掛けたまま、鮫島が振り向いた。
笑う、ニヤリ。
その顔はあの時、海原が最後に見た鮫島の笑顔、そのものだ。人の悪い、人相の悪い笑顔。
「お前はまだ来るなよ。後は任せたぜぇ」
「お前、何言ってーー」
どろり。
海原の身体が唐突に沈んでいく。気付けば辺りは黒い泥に包まれ、教室ではなくなっていた。
ああ、わかった。この唐突なワケのわからん状況、これは。
「夢か」
"ポジティブ。その通りです。新たなるホスト。融合シークエンスが完了。覚醒段階に強制的に移行します"
その声が響いた瞬間、海原は身体がぐんと引き上げられるような圧力を感じる。
「あ」
海原がぐんと上に揚がるその時、暗闇の底からこちらに向かって笑顔で手を振る2人の人間がーー
「青葉……. 鮫ーー」
ぷつり。
海原の意識は再び途絶えた。
………
……
…
「うっ、ゲホッ、ゲホッ」
噎せる。自然と肺から飛び出ていく空気。
海原は自分の咳の音で目を覚ました。
仰向けの態勢からむくりと上体を起こす。
「……俺は……」
頭に霞がかかっている。胸の奥がキュと締め付けられ、眉間の奥が引きしぼられるように痛んだ。
何か、何かとてつもなく寂しい夢を見ていたようなーー。
おぼろげに思い起こす記憶は探ろうとした瞬間からポロポロと溶けていく。水に溶かされた綿あめのように、実体を無くしていく。
すぐに海原は自分が何か夢を見ていた、かも知れないという事までしか思い出せなくなっていた。
とても、とても悲しく、でもどこか優しげな声と姿。
誰と会ったのかももう分からない。
だというのに、この胸を締め付けられるような切なさはなんだろう。
もう二度と出会えないモノとの別れを済ませたような。
「ッスン」
鼻をすする。染みた。
'ポジティブ、ホストのバイタルチェックに異常値無し。四肢の完全結合を確認、脈拍、呼吸、免疫機能、ホルモンバランスの調整完了'
「うお!!」
耳元で囁く機械的で平坦な女とも男とも似つかぬ中性的な声に海原がおののく。
なんだ、今の?! 確かに聞こえた!
海原はその場から、立ち上がる。
両足でしっかりと地面を踏んでーー
「は? 脚が……」
ペタ、ペタ。
両足、その場で足踏みをする。
「……まじかよ」
生えている。あの時、狼の化け物に食いちぎられた左脚がいつのまにか生えていた。
膝の半ばから左脚だけスラックスが裂けている。靴下も靴も履いていない裸足。
「あれ、待てよ」
おそるおそる海原は両手を動かす。
右肘はきちんと動くし、左手のひらには五本の指がきちんとついている。
全て、奴らに噛みちぎられ、噛み砕かれていたはずなのに。
気付いた。海原は自分の身体になんの異常もないことに。
「……なにがあったんだ?」
海原はその場を見回す。
透明な泉に高い樹木、辺りには狼の化け物の死骸が転がっている。
「そうだ! あいつは?! アシュフィールドは?」
叫びながら海原は探す。己を助けた謎の人物を。彼女は何かを知っていたはずだ。
そうだ、思い出した。俺は彼女にナニカをされた。
彼女に聞けばこの身体の事もーー
'ネガティブ ホスト。残念ながら彼女はもう既にここには居ません。彼女の追跡は困難を極めます'
「……は、はあ? ま、またあの声だ。ど、どこにいる?! 誰だ!」
海原は右、左と身体を回しながら叫ぶ。耳元で囁く声。また聞こえた。
'ポジティブ 此処です。私は此処にいます'
「いや何処だよ! 姿を見せろ! 何者だ?!」
'ネガティブ 姿を見せる事は出来ません。既に肉体と脳幹との結合率は85パーセントに到達しています。この状態での体外への排出はホストの生命維持に多大なる負担をかけます'
「……待て、今なんかとんでもなくきになる事言ったな…… 肉体と脳幹? 誰のだ?」
海原は額からたらりと玉のような汗を一筋流す。
アリサ・アシュフィールドの言葉、あの時の行動。
海原が飲み込んだ何か。
アリサ・アシュフィールドは言った。俺を生かすと。
だが、その方法は何も聞いていなかった。聞こうと思った瞬間に口を文字通り塞がれたからだ。
待て、何かとんでもなく、嫌な予感が。
'ポジティブ あなたです。私とあなた。ホストの結合率は規定数値を超えています。現時点での剥離は貴方の命を危険に晒すのでおススメ出来ません'
やっぱりね。そうだろね。
海原はすとんとその場に座り込み、一言呟いた。
「たいぎぃ」
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