わたしから貴方へ
海原の口が彼女の舌にこじ開けられる。海原は一切の抵抗が出来ない。
頰をものすごい力で挟まれ、その欠けた唇を奪われていた。
「……もご!」
海原の目がぐるぐると回る。瞳孔が閉じたり、開いたり。
ぬるり。彼女の口内から何かが急に流れ込んできた。
こんにゃくゼリーのように粘度と硬度を持ち合わせたそれは海原の口の中に広がる。
反射的に吐き出そうとするも彼女の舌に押し返される。顔面をとんでもない力で押し付けられているために跳ね除ける事も出来なかった。
「ぐ。うっ!」
「………ん、ん」
もがく海原を彼女がたしなめるようにさらに口づけを深くしていく。
どろり、海原の口の中に広がるゼリーのようなものが動き回る。
そして、
ごくん。
海原の喉が大きく鳴る。もう、口の中には暴れるものはなかった。
奥へ奥へと押し込まれるそれを海原は生理的な反射にも近い反応で飲み込んでしまった。
なんの抵抗もなくするりとそれは、喉を下り、すぐにその感覚は消えていった。
「……っぷは! ……初めてのキスが血の味ってのはどうなのかしら?」
口をぬぐいながらアリサが顔を上げる。唇に広がる赤い血を片手で拭うその姿、ちろりと血をなめとる赤い舌が踊る。
男であれば、目を奪われそうなその姿がすぐ近くにあるというのに海原はそちらを見ようともしない。
それどころではなかった。
「の、飲んじまった…… 女の口から吐き出されたゼリーみたいなもんを……」
呆然と仰向けになりながら海原は呟く。うえっ、ぶちぬるっとした。
気持ち悪。
「ちょっと、ヨキヒト。レディのファストキスを奪っておきながらその表情はなに? もー少し誇らしげにしなさいよ」
むにり。アリサがヨキヒトの頰をつまむ。
「痛え…… 唇が染みる」
「我慢しなさい。わたしからのキスなんて部隊の男どもが知ったら、リンチよきっと」
いたずらげにふふんとアリサが笑う。海原は力の抜けたまま、空返事を返すだけだった。
「……俺に、なにしたんだ?」
海原はポツリと問いかける。何かを飲み込んだ後は身体になんの異常もない。
俺は今、なにをされたんだ?
「言ったでしょう? 生きてもらうって」
ずいと、アリサの整った、造られたような美しい顔がちかづく。
海原の目の前で、薄紫色の唇が艶めかしく蠢く。
さっきまで、この女とキスをーー
海原がごくりと生唾を飲み込んだその時
'ネガティブ 生命維持機能に致命的な損傷を確認。ホストの危機的状況を確認'
海原の耳元で何かが囁いた。
「……今、アンタ何か言ったか?」
「いいえ、なにも。その様子だときちんとあの子は貴方の中に移ったみたいね」
ニヤリと、アリサが笑う。
あの子?
海原は疑問を口にしようとした瞬間
'ネガティブ プロトコル69により新たなホストへの移譲が命令されました。前ホスト、シエラⅠからのプロトコルを実行します'
また、海原の耳元に囁きが鳴る。
「おい、やっぱりだれかがーー」
'ネガティブ プロトコル69、新ホストとの融合を開始。ホストの神経細胞への同化を開始、ホストの脳中枢機能への同化を開始。コンクリフト防止のため、30カウント以内にホストを入眠状態へと移行'
耳元で響く声はその勢いを増していく。機械的な口調でツラツラとなにやら不穏な単語が並び立つ。
目をぱちくりとさせてうろたえる海原を、アリサはニマニマと唇を緩めながら眺めていた。
「無事にあの子は貴方の中に馴染み始めてるみたいね。コレでわたしの仕事は終わり」
にこりと笑うアリサ。黒色の泥が混じった金髪が彼女の動きにあわせて揺れる。
「……なんなんだ、結局、アンタはなにがしたいんだ?」
'3'
海原は己を見つめる碧眼へ問いかける。海原は気付いていない。先程まで確かに倦怠感や眠気として身体を蝕んでいた死の気配が薄くなっていた事に。
猫のように碧眼が歪み、それから静かに海原の額に彼女の額がコツンと当てられた。
桜か、何かの花のような匂いが海原の鼻をくすぐる。
「ーーわたしは貴方に光を見た。我を投げ出し、他者の為に命を投げ出す善性の光を」
「な、なんて?」
'5'
「貴方は意味よ。シエラチームのみんなの死に意味をもたらせてくれた。貴方のような人がまだ、居る。それだけでみんな、死んだ甲斐があった」
独白、これは独白だ。海原に向けられている言葉のようでいて、きっとその言葉はここにはいないだれかに向けられている。
「ヨキヒト、貴方を助けたのはきっと貴方がいいヤツだからよ。わたしはいいヤツ達に助けられた。だから、今度はわたしがいいヤツを助けるの」
'6'
「だからね、これはそう。バトンのようなものよ。チームからわたしへ、そして今度は貴方へ。身勝手かも知れないけど、受け継いで頂戴。そして、貴方が願った通り、生きて」
海原は、アリサがなにを言っているのかわからない。何故、そんなにも悲しそうな顔で笑うのかが分からなかった。
「ヨキヒト、ごめんね。世界を守ってあげれなくて。世界を救ってあげれなくてごめんね」
「な、なんで、アンタが謝るんだ? アンタ、なにを知ってるんだ?」
'18'
「ありがとう、ヨキヒト。この終わった世界で生きてくれてありがとう。生かせと言ってくれてありがとう。それしか言葉が出てこない」
アリサの冷たい手が海原の頰をぎゅうと包む。碧眼から流れ出る涙はコールタールのように黒く、粘り気を持って海原の頰にぺたりと落ちた。
'22'
「ヨキヒト、みんなを助けてあげて。貴方とあの子が一緒ならきっとうまくいくわ」
'23'
「そして、これは個人的なお願い。貴方の中にいるあの子と仲良くしてあげて。あの子と貴方はよく似ているわ」
'26'
あの子? だれだ、それ。
海原は口を開く。
パクパクと動くのみで、言葉が出ない。
耳に響く、カウントの音が次第に大きくなる。
'27'
「貴方とあの子が生きる意味を見つけるのを祈っているわ……」
'28'
「そして、もし、これも良ければなのだけど」
'29'
「いつか、いつかねーー」
「わたしをこーーーー」
'ポジティブ 30カウント終了。ホストの入眠状態への移行を開始、融合完了後に、覚醒処理を遂行…… おやすみなさい、新たなるホスト。貴方と語り合うのを楽しみにしています'
アリサの最後の言葉を海原が聞くことはなかった。
まるで、テレビのスイッチが消されるようにその意識は闇の中に紛れていった。
………
……
どちゅる。
じゃち。
オアシスに奇妙な水音が鳴り響く。ガスマスクの人影が倒れている男の足元で何かをしている。
オアシスに、肉の潰れるような音が広がる。
しばらくすると音はピタリと止んで、それからいつもの湧き上がる水のコポコポという音だけが湧き出して来た。
オアシスには男が一人仰向けで倒れている。
がーがーと呑気な寝息をたてて、男が眠る。
寝息に混じって、男の左脚から静かに僅かな、泥が練られるような音が漏れ出ていた。
「さよなら、マルス。またね、ヨキヒト」
男を見下ろしていたガスマスクの人影は一層強い風が吹いた瞬間、まるでその風に攫われるようにその姿を消した。
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